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それから程なくしてレッスンの日取りは決まった。
―――約1ヵ月後。
そう野田に聞かされた私は、バイトから帰ると少しだけ睡眠をとり、あとはピアノの練習に費やすという生活を送った。
人生に正念場があるとしたら、間違いなく今だと思う。根拠はないが直感だった。
持っていく曲はいつもお店で必ず弾くショパンのバラード1番。
どの曲よりも長く弾いているので迷わずに決めた。
いざレッスンに持っていくとなると弾けてると思っていたこの曲も、私が弾くと穴だらけに聴こえた。
ずっと弾いているから暗譜もできているし、指もつまらずに動く。音だって外さない。
けれど上手く弾けないのだ。何度も何度も録音して自分の演奏を聴くけれど、何が原因か分からない。
休みの日に野田に聴かせて「何が足りないと思う?」と聞いてみても笑顔で「上手だよ」と言われるだけ。そんな野田に苛立ち、私は躍起になってほとんどの時間を練習につぎ込んだ。
そして、練習の成果も出ないまま日にちだけが過ぎてゆくことに私は焦った。
それでも原因の糸口すらも掴めないまま1ヶ月が経とうとしていた。
とうとうレッスンの日がきた。
気分もコンディションも最低だ。
私は緊張で潰れそうな胸を抱えて、野田が斉藤宅のインターホンを鳴らすのを見ていた。
築年数の古そうな日本家屋。今では珍しい都会の一軒家だ。
庭は手入れが行き届いており、名前は分からないが色取り取りの綺麗な花が咲いている。
「いらっしゃい」
しばらくして玄関が開き、顔を上げると小柄で上品な女性が微笑んで立っていた。
年齢は50代後半くらいだろうか。
優しそうな表情とは裏腹に、凛とした眼差しが意志の強さを感じさせる。
「初めまして。今日はよろしくお願いします」
震えそうになる声を絞り出し、私は深くお辞儀をする。
勝負、そんな言葉が頭の中をよぎり、眩暈を起こしそうになる。
そんな私の隣りで野田はいつも通りニコニコと斉藤に会釈をしていた。