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1ヶ月もすると最初は苦痛に思えた新居での生活も慣れてきた。
生活する時間が逆転しているおかげか、平日は野田に会わない日すらある程だ。
そんな日は今までと同じように起きてピアノに向かい、バイトへ出かける。
お互いが休みの日は、私が目を覚ます午後から恋人らしくデートしたり、一緒にご飯を作ったりして過ごした。
野田は優しい。
絵に書いたような幸せとはこういう事なんだな、と私は相変わらず他人事のように感じていた。
リョウからの連絡はあれ以来なかった。
心のどこかに絶えず引っかかりは覚えるがどうする事もできないので、なるべく考えないようにと自分に言い聞かせる。
メールを無視したくらいで引き下がるようなら、大した事ない話だったのだろう、そう思い込むことに専念した。
今日はバイトも休み。野田も休み。
なのでマンションのリビングでピアノを弾いている。
一緒に暮らし始めてから野田がバイト先の店に来ることもなくなっていた。
だから時々ピアノを弾いてくれと笑顔で催促される。
そういう時は毎回私が持ち込んだ古いピアノではなく、野田のスタインウェイで演奏することになっていた。
誰かにピアノを聴いてもらうのは楽しい。
ましてや今聴いてくれているのはバイト先の音に無関心な客ではない。
私のピアノを好きだと胸を張って言ってくれている野田だ。
彼の言葉にはイラっとする時もあるけれど、何度も何度もそう言い続けてくれる野田の存在は、いつしか小さな支えにもなっていた。
今日も野田は軽く目を瞑り、ソファーでじっと演奏を聴いてくれている。
そして何曲か通して弾き終わり、水分を補給しようと椅子から立ち上がった時に口を開いた。
「実はね、瑠璃ちゃんに紹介したい人がいるんだけど」
「紹介?仕事関係の人?」
ミネラルウォーターを口にしながら野田を見る。
「いや。斉藤知子さんって知ってる?瑠璃ちゃんが良ければレッスンに行ってみないかなと思って」
「斉藤知子!?」
名前を聞いてグラスを落としそうになった。
知ってるも何も、クラシック界ではとても有名な人だ。
コンクールの審査員も任されているし、彼女が世に送り出した有名ピアニストだって何人もいる。
「野田さんの知り合いなの?」
「いや、この間著名な人が集まるパーティーに行ったんだけど、たまたまそこで知り合って。ピア
ノを教えてるって言ってたから僕の彼女もピアノをやってるんですって話になって。決まった先生がいないなら一度ピアノを聞いてみたいって言うから、お願いしたんだけど・・・まずかった?嫌なら断るよ」
すまなそうに言う野田の首に思わず私は飛びついた。
「嬉しい!ありがとう!」
そのままぎゅっと抱きしめる。
これでこそ野田と付き合った甲斐があったというものだ。
野田の存在が今までにないくらい愛しい。
野田の腕が私の背中に回るのが分かる。
そのままあやすようにポンポンと手がリズムを刻む。
「そんなに喜んでくれるとは思わなかった。連絡して日にち決めてもらうね」
「うん。気合入れて練習する」
もし斉藤和子に気に入られれば強い味方をつけることになる。
そのためにはきちんと弾きこんだ曲を持っていかなければ。
そこまで考えて不安になる。
きちんとしたレッスンを受けてこなかった私のピアノを聴いて、もし見込みがないという烙印を押されてしまったら・・・。
それはこの業界ではやっていけないことを意味する。
斉藤和子のレッスンは大きなチャンスでもあるが、未来を一切否定されてしまうことになるかもしれない。
何を失っても平気だと思って生きてきたが、私からピアノを失くしたら何が残るというのだろう。
「・・・瑠璃ちゃん?」
知らず知らずのうちに腕の力が抜け、野田の胸元を見つめたまま動かなくなった私を見て心配そうな声がかかる。
「嫌だったら無理しなくても」
「無理じゃない。ただ下手で見込みがないって思われたらどうしよう」
視線は野田の胸元にあるバーバリーのロゴを見つめたまま、正直に告げる。
ふわりと彼が笑うのが空気で分かった。
「なんだ、そんなことか。大丈夫だよ」
事も無げに断言される。野田は顔を下げて私の目を下から覗き込むようにして言った。
「何度も言ってるでしょ。瑠璃ちゃんのピアノは僕の1番なんだから」