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終わる、世界  作者: 美咲
第3章
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引越しのトラックが排気ガスを大量に吐き出しながら去っていくのを頭を下げて見送る。


あの同棲のお誘いから数週間の間、バイトの合間や休みを縫って少しずつ引越しの準備をして、今日ようやくバイトの休みをとり、野田のマンションに荷物とピアノを運び込んだ。

野田の家にもピアノが置いてあったが、やっぱり思い入れのある自分のピアノを処分することはどうしてもできない。

そう野田に告げ、余っている部屋にピアノを置かせてもらうことにした。

大体一人暮らしなのに5LDKに住んでいるのだ。

しかも一部屋一部屋が、私の住んでいた部屋よりも広い。

部屋が余分に埋まったところで構わないだろう。

現に野田もあっさり「いいよ」と了承してくれた。


午前中に休みをとって手伝ってくれた野田ももう仕事に行ってしまった。

一人になった馬鹿でかいマンションの室内を眺め、私はため息をつく。

都心の一等地にあるこの物件。一体家賃はいくらなんだろう。

家賃を払うより買ってしまった方が得なんじゃないか。

つい余計な心配までしてしまう。


あの夜は何だったのかと思うくらい、野田は相変わらず優しかった。

あの後初めて野田のマンションに泊まり身体を重ねてからは、ますます優しくなった気もする。

その優しさに触れながら、未だに私は野田に対して「好き」という感情を持つことができないでいた。生まれてからこの方、持ったことのない恋愛感情。

もしかしたら一生無縁なものなのかもしれない。

それならそれで良い。愛されることは楽だ。


ピアノの部屋に入って楽譜を片付けようとダンボールに手を伸ばした。

棚に楽譜を並べる単純な作業に没頭しながら、ふと私は窓の外を眺めた。

金持ちしか住めないマンションの窓から見る景色は圧巻だった。

高層ビルの群れや隙間からのぞく東京タワー。

よく晴れた空の下、汚れた空気のせいでくすんだその景色を見て、ああ、この終わりかけの世界の姿を権力者や選ばれた人間達に、しっかりと目に焼き付けさせるために高層マンションに住まわされてるんだろうなと私は思った。

誰にかは分からない。しいて言えば社会にか。

権力者にとって優遇されている社会からの、小さな復讐なのかもしれない。

そのくらい綺麗とは言えないものだった。

休めていた手を再び動かし始めて、また元の作業に戻る。

今日中にこの部屋の片付けだけは終わらせたかった。


日がだいぶ暮れ、なんとか部屋のコーディネイトも終わる頃、私は喉の渇きを覚えてキッチンへ向かった。

広い広いダイニングキッチン。

30畳くらいは軽くあるだろうか。

高そうなダイニングテーブルの向こうに、窓に寄せるようにして野田のピアノが置かれていることに気付き、私はそっと近づいた。

以前泊まった時は慌しく帰ったのでよく見ていない。

きちんと手入れしているのだろうかと蓋を開いて息を飲む。


そのピアノにはスタインウェイと刻印されていた。

大昔に作られた最上級と言われる幻のピアノ。

以前野田と行った演奏会のステージも確かこのピアノが使われていて、いつか弾いてみたいと願ったっけ。

業界からの評価も高く一流のコンサートホールには必ず置いてあるこのメーカーだが、時代と共にピアノの需要がなくなると少しずつ減り、今では生産中止となっている。


そんな貴重なピアノを個人で、しかもろくに弾けない人が所有してるなんて。

お金を持つとはこういうことなのか。

胸の奥から嫉妬に似た感情が沸いてくる。

でも、今は私だってそちら側に足を踏み入れたのだ。

無駄にエネルギーを消耗するのはやめよう。


スタインウェイの前に恭しく座り、鍵盤にそっと触れてみる。

私のピアノよりも神々しいような気がして、震える指で音を鳴らした。

調律されていないのか、少しだけ音程は狂っていたが、その音色の艶やかさは本物だった。

そのままショパンのノクターンを弾き始める。

しんと静まったリビングに甘いメロディーだけが響いた。


しかし直後、すぐに私は指を止めた。

こんなに綺麗な音色なのに汚い。

私の技術の問題だった。

大事に大事に蓋を閉め、私は立ち上がる。

練習しなければ。


キッチンに戻り、コーヒーをコップに入れると私はすぐさまピアノの部屋に戻った。

そこでチカチカと携帯がメールを受信したというサインを発していることの気付く。

野田の仕事が終わったのかなと時計を確認すると、もう20時を過ぎていた。


メールを開く。送信者の欄にはリョウの文字。

その文字を見つめてそのまま読まずに消してしまいたい衝動に襲われた。

せっかく一歩踏み出したのだ。できればもう会いたくない。

しかし先日の地元についての突然の質問。それが気にかかるのも事実だ。

私は無駄と知りつつ、できるだけゆっくりと本文に目を向けた。





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