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野田と付き合いだして数週間。
私の生活は基本的に変わってはいない。
起きてピアノの練習をし、バイトに向かい、適当に客に相槌を打ち、誰も見ていないステージに立ち、帰って寝る、その繰り返し。
変わったのは野田が店に来る回数が減り、その代わり週に1度デートとして野田に会い、美味しいものを食べに行くくらい。
数週間も経っているのに、野田は一切私に触れなかった。
手はつなぐ。でもそれ以上のことはない。
それはなんだか恋人という確証が持てないような気がして、私は焦りを感じていた。
ある日、メールの着信音で目が覚めた。
まだ眠りについてからそんなに時間は経っていないはず。
ぼんやりと重たい頭をのっそりと動かし、私は枕元に置いた携帯に手を伸ばした。
『今何してる?今日ヒマだったらご飯行かない?』
リョウからだった。
楽譜を買いに行った日に連絡先を交換してから初めてのメールだ。
今度ゆっくり会おうと言っていた彼の顔を思い出した。
どうしようかなぁ…。
眠気に支配され回らない頭で悩む。
リョウは私の中では少し特別な存在ではあるが、わざわざ出かけるのは面倒くさい。
バイトもあるしなぁ…。
そのまま瞼が開かなくなって睡魔が甘い眠気を引き連れてくる。
その心地よさに抵抗する気も起きず、私は再び夢の世界へ沈み込んだ。
次に目が覚めると、空は夕焼けに染まっていた。
慌てて起き上がり時計を確認し、舌打ちをする。
今出なくちゃバイトに間に合わない。
大急ぎで準備をして、私はタクシーを拾った。
お金はもったいないが、もう電車では遅刻は確定だった。
運転手に行き先を告げるとタイミングを見計らったかのように携帯が鳴り出した。
手探りでカバンをかき回して取り出し、ディスプレイを見て今朝リョウからメールが来ていたことを思い出す。
「もしもし」
『お前メール返せよ』
リョウの声は不機嫌極まりない。
「あんな時間寝てるに決まってるでしょ」
『メールしたの朝だけど?一般的には出勤する時間だよ』
「・・・」
勝手にメールしてきて勝手にキレて、腹が立ったので口を閉じた。
このまま切ってやろうか。
『で、今日どう?』
私が黙ったのに気付いて急に取り繕うかのような優しい声でリョウが聞く。
「今からバイトだから。ごめん、また今度」
『そう。じゃあ明日は?』
「・・・明日は休みだから空いてるけど」
リョウに会うのは問題ない。
けれど野田が知ったら何て思うだろうか。
下手なことをして別れるなんてことになったら、私は自分を死ぬまで恨むだろう。
『じゃあ新宿に17時ね』
私がグダグダと返事に困っていると、一方的に待ち合わせ場所を告げられ電話は切れた。
強引な態度はムカつくというよりむしろ清々しいくらいだ。
携帯を再びカバンの中に滑り込ませ、私はタクシーの窓から夕方のオフィス街をぼんやりと眺めた。
こんな世界でもきちんと働く人達。
どこまでも続く人の波に、ふと視界がぐにゃりと歪んだ気がしてギュっと目を瞑る。
次に目を開けた時には、並んで歩くスーツ姿の人々が皆同じ顔をしているような気がして、私は慌てて窓から目をそらした。