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水槽の置かれた洒落た店内を、私は落ち着きなく見渡す。
ムーディな間接照明に観葉植物。
ただでさえ緑が減ってる時代なのに贅沢なことだ。
野田に連れて来られたのは見るからに高級そうなレストランだった。
入り口にいた案内係の男は、野田を見ると愛想笑いを浮かべ、夜景の見える奥まった個室に私達を通した。
そこは騒がしい都内の喧騒とはかけ離れた別空間のよう。
VIP扱いに困惑しながら店員に渡されたメニューを見て、眉をしかめる。
何が書いてあるかよく分からない。
いや、表記は日本語なので文字は読めるのだが、その文字からどんな料理が出てくるのかが想像つかない。
私はため息をついてメニューを投げ出した。
「適当に頼んじゃっていい?」
そんな私の様子を見て、さりげなく野田が声をかけてくる。
「おまかせします」
私に恥をかかせないためであろうさりげない気遣いに少し心が温かくなった。
しばらくして出てきたワインも料理もお世辞抜きでとても美味しい。
野田の話に笑いアルコールが進むにつれ、ぼんやりとだけれど気付かされた事があった。
それは、野田がかなり女慣れしているということ。
一見純朴な人にしか見えないが、セレクトした料理だったり、会話の端々だったり、ワインのなくなるペースを観察してるかのようなオーダーのタイミングだったり、すべてがひどく手慣れたように見える。
もしかしたら仕事上必要な礼儀か、元々が気配り上手な人なのかもしれない。
でも勝手に奥手だと思い込んでいた私にとっては、何とも言えない違和感を感じる。
「どうかした?」
問いかけられてアルコールでぼやける視線を野田に向ける。
屈託なく笑顔を見せる野田は、相変わらずの野田だ。
私が考えすぎなのかもしれない。
「ううん。こんな美味しい料理食べたの初めてだから感動しちゃって」
適当なことを言いながら、私は頭に浮かんだ考えを打ち消した。
お腹いっぱいになるまでご飯を食べ、お酒を飲み、デザートが運ばれる頃、世間話のついでに野田が言った。
「今日の演奏会、どうだった?」
できれば触れられたくない話題に、ふわふわとほろ酔いの良い気分が落ちる音が聞こえた。
でも簡単には行けない演奏会に誘ってくれた恩と、アルコールの力を借りて、何でもない体で返事をする。
「すごかった」
「正直僕には分からないんだよね、クラシックって。瑠璃ちゃんの演奏の方が上手だと思って聴いてた
よ」
野田の無神経な言葉に怒りが沸く。
嫌味なのだろうか?どちらが演奏として素晴らしいかなんて猿でも分かるはずだ。
でも、落ち着いて。気付かれないようにひとつ深呼吸をする。
ここで雰囲気をぶち壊すわけにはいかない。
「彼は凄いですよ。技術も解釈も音も、凡人の私には絶対に追いつけない」
「そうかな?」
「そうです」
きっぱりと断言したら野田は黙った。途端にテーブルに長い沈黙が訪れる。
「瑠璃ちゃんの演奏は、いい意味で心が痛くなるんだよね。でも今日聴いた演奏は、なんていうのかなぁ。完成されすぎて個人的には面白くなかった」
「・・・」
「だから僕は瑠璃ちゃんの演奏の方が好き」
心の中でため息をつく。
感想は、意見は自由だ。
でもどう好意的に聞いても社交辞令にしか聞こえない。
ありがとうと適当に流すことも忘れて、私はなるべく穏便な言葉を選んで彼に言った。
「それは彼に失礼です」
そして私にもね、と胸の中で付け足す。
「瑠璃ちゃんはピアノを始めたきっかけって何?」
何となく不穏な空気を感じたのだろうか、唐突に野田は話題を変える。
「家にピアノがあったから何となく」
「習ってたの?」
「うん。近所に弾ける人がいて親の知り合いだったから小さい時だけ教えてもらってたんだ」
でも、あの嫌な出来事があってからは誰にも見てもらわずに独学で学んだという事は当然ながら黙っておく。
本当はあの後も習い続けたかったから外でピアノ教室を探したけれど、両親が許すはずもなかった。
力を持たない子供は親の了承を得なければ何もできないんだと痛いくらい実感した瞬間だった。
「小さい時だけ?もったいない」
不思議そうに野田が呟く。
「うん。まあ色々あって」
私もそれだけ言って濁した。あまり触れられたくない。
「ああ、でもだからか」
何か考えるように視線を彷徨わせていた野田が、突然腑に落ちたとでもいうような明るい声を出して頷き、私は顔をあげた。
「なに?」
「いや大した事じゃないんだけど。瑠璃ちゃんは人に心を開いたりしないタイプじゃない?それは店で話してる時から分かってたんだけど、今日少し店の外で一緒に過ごしてみても、やっぱり1ミリも開こうとしないんだよね」
「・・・」
「だけどピアノ弾いてる時だけは感情っていうのかな、気持ちが伝わってくる。それは感受性豊かな時にさ、先生につかずピアノを練習してたからなのかなって」
「・・・」
無言の私に気付かないのか、野田は淡々と続ける。
「どういう事情があったのかは分からないけど、多分瑠璃ちゃんはピアノを通してしか心を見せない。それがもう当たり前になっちゃってる。でも、だから僕は瑠璃ちゃんの演奏に惹かれるんだと思う」
そう言って野田は、どう?というような顔で私を見た。
その分析は確かに全部とは言わないまでも合っている。合ってはいるけれども。
腹が立った。
私の前にはいつも高い壁があって、どんな人であろうと侵入を拒んでいる。
誰にも自分の領域は侵させない。
それは私の出身地だったり、過去だったりのせいかもしれないが、気がついたらそうやって生きていた。
だからといって壁の中に大切な何かがあるのかといえば、答えは“分からない”だ。
守ってはいるけれど、中を確認するべきではない、と本能が囁くから。
だから、無遠慮に私を分析して、壁を崩そうとしてくる野田に腹が立った。
彼にそんなつもりはなくても、だ。
あんたは私に地位とお金を差し出してくれるだけでいいんだよ。
心の中で口汚く毒づき、私は表面的には「そう?」と笑顔を作ってみせた。
「もう1軒付き合ってくれない?」
すっかりおかしな空気になってしまったのを感じてか、野田はそう言って微笑んだ。
時計を見るとまだ23時半。
でも今帰らなければ、終電が終わるのは確実だ。
自腹でタクシーを使って帰るのはお金が勿体ない。
それに今この雰囲気で次の店に行ったところで、メリットはなさそうだと判断する。
それに、ないとは思うけど終電をわざと見送らせて野田が私を持ち帰ろうと企んでいる可能性だってある。
野田と寝るのはどちらでもいい。
今さらセックスを大切に思う気持ちなんてないし、行為自体はどうだっていいのだ。
でも初めて店の外で会った日にそういう関係になって、尻軽だと思われてもいいと思えるほど未来を捨てるつもりもなかった。
だから、
「もう遅いから今日は帰るね」
と言って私は立ち上がった。
昼夜逆転して働いてるのに、遅いはないよなと思いながら。
その時、野田の手が私の腕をつかんだ。
予想外な行動に、何か言うことも振り払うこともできず、私は野田の顔を間抜けに見つめた。
「あ・・・ごめん」
何故か照れたように手が開放される。
「終電出ちゃったらちゃんと送るから。もう少し一緒にいたいなって」
しどろもどろといった風に野田が呟いた。
その様子を見て、もしかしたら野田は私を好きなのかもしれないなと直感が囁いた。
恋愛ではないかもしれないけど、他の人にはない特別な何かを持ち始めてくれているのかもしれない。
だとしたら。
「・・・いいよ」
もう1軒付き合おう。
チャンスだと判断した頭に従い、今度は私から野田の腕に手を伸ばした。
座っていた野田を引っ張って立ち上がらせる。
他意はないように、無邪気さを装って。
支払いを済ませた野田に「ありがとう、ごちそうさま」とお礼を言い、さっきまでの不穏な雰囲気を振り払うべく、私は意図的にテンションを上げて店を出る。
そうしないと先ほど覚えた怒りがどこかから漏れてしまいそうで、私は不自然なほど明るく野田に話しかけた。