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ホールは満席だった。
広い客席から見ると舞台は孤独にも思えるほど小さい。
けれどピアノは照明に照らされて堂々と光を放っている。
最上級のスタインウェイ。
いつかは私も舞台であのピアノを弾いてみたい。
全自由席なので適当に座り、野田と他愛ない話をしていると突然会場がフっと暗くなった。
ざわざわしていた会場のざわめきも小さくなり、全員の視線が一斉に舞台上に注がれた。
袖から1人のナイスミドルが靴音を鳴らしながら現われ、こんなにもたくさんの人がいるのに、空気がしん静まり返った。
彼は真っ直ぐにピアノに直行し、お辞儀をし、何でもないことのようにピアノに向かって腰をおろした。
張りつめた期待感の中、腕がゆっくりピアノに下ろされる。
その瞬間、ホール内の空気が一変した。
張り詰めた空気を一瞬にして払拭した最初の1音は柔らかくて温かくて、私の心をふわりとつかんだ。優しい音はとことん優しく、激しい音は激情が伝わるほど激しく揺さぶり続けて離さない。
才能というものはやっぱりあるのか。
それとも彼の努力の賜物なのか。
彼の腕が重力を感じさせず、自在に動いてるのを見て私は思う。
私の腕は力が入りすぎて、彼に比べたらまるで鉛のようだ。
隣りに野田がいることも忘れ、私は目の前の超一流の演奏に没頭していた。
だから野田がたまに私に向ける視線にも全く気付かなかった。
途中休憩をはさんでプログラムが終了し、アンコールの後客席の照明が灯るまで私は席を立たず、目の前の光景に没頭していた。
胸の中に湧き上がった感情は感動はもちろんあるけれど、はっきり言って嫉妬や悔しさの方が多かった。
もし私に才能があれば。
一流のピアニストになって、こうやって人を感動させられるのに。
認められたいという幼い自己顕示欲が行き場を失って、身体の中で膨張する。
けれど、私は私。今さら私以外の何者にもなれないのだ。
せいぜい金持ちでも捕まえて、パトロンになってもらうことしかできない。
「じゃあ、そろそろ出ようか」
突然聞こえた野田の声にビクっと身体が震える。
隣に野田がいることを完全に失念していた。
「腹減ったね。そういえば今日お店は?」
もうほとんど人がいなくなってしまった会場で伸びをしながら野田が尋ねる。
「今日はお休み。開演が夕方だったから」
じりじりと胸を焦がしていた感情を必死でしまいこみ、私は笑顔を作る。
「そうなんだ。瑠璃ちゃん目当てのお客さんに悪いことしたな」
申し訳なさそうな野田を見て、私は苦笑する。
店には綺麗な人も聡明な人も山ほどいるのだ。
BGMと掛け持ちする私に会いに来る物好きはアンタくらいだよ、と心の中で呟く。
「じゃあ適当にどこか入ろう。嫌いなものある?」
ないと返事する私を促し会場の外に出ると野田はタクシーを停め、よく行くというレストランの名前を運転手に告げた。