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結局数時間しか寝る事ができなかった。
『MB』で適当に客に愛想を振りまきながら、私は欠伸を噛み殺す。
今日は例の野田は来ていない。
昨日来たばかりだし、さすがに2日続けては来ないだろうと分かっている。
しかし私の意識は絶えず入り口の豪華なドアに向けられていた。
「それでさ」
隣に座っていた客が上の空の私を察したのか太ももに手を置く。
エロオヤジが、と心で毒づきつつ笑顔のままさりげなく避けた。
感じ良くオヤジに大げさな相槌を打ちながら、頭の中では野田のことばかり考えていた。
やっぱり昨日、もっとアピールをしておけば良かったかな。
でも初めて会ってすぐに次に誘ったらがっついているのがバレバレだ。
適度な距離の駆け引きが大事なのに、と自分に言い聞かせる。
「瑠璃ちゃん、さっきから話聞いてる?」
エロオヤジが少し咎めるような声で私を覗き込んできた。気を抜きすぎたらしい。
しまったと愛想笑いを浮かべなおし、
「ごめんなさい。ちょっと寝不足で」
と可愛らしく上目遣いで謝ってみる。
「寝不足って?眠れないの?」
ブリッコ効果か、すぐにオヤジは機嫌を直し話に食いついてきた。
「ピアノの練習してたら寝る時間なくなっちゃって…」
「…ピアノ?ここで弾く曲の練習?そんなの誰も聞いてないんだから適当にやればいいんだよ」
その言葉に私の笑顔は固くなった。睨みつけたくなるのを堪え両手をキツく握り締める。
オヤジにしてみれば確かにピアノ演奏なんてどうでもいいかもしれない。
でも私はそうではない。客の大半はこのオヤジと同じように考えているのも分かっている。
分かっているけれど、言葉にされてしまうほど私の演奏はどうでもいいという事なのか。
それでも私は笑顔で「そうですね」と答えてみせた。
内心はそのオヤジに対する敵意でいっぱいだったけれど。
オヤジの何気ない言葉は思ったよりダメージが深く、その日のステージは良い出来とは言えないものになった。
どうせ誰も聞いてないのに、という声が頭の中に残っていて、それを振り払うべく音に集中しようと焦る。
けれど、意識すればするほど演奏はボロボロになっていった。
「今日は調子悪いの?」
俯きながらさっさとステージを降りたところで聞き覚えのある声がして、ハッと顔を上げた。
「・・・野田さん」
「また、来ちゃったよ」
泣きそうになっているだろう私の顔を見て一瞬眉をひそめ、すぐに気付かないふりをして笑みを浮かべる野田に心がフワっと軽くなった。
「調子悪く聞こえるくらい、私の演奏ひどかったですか?」
「良い悪いはよく分からないけど、元気がないなぁと思って」
「・・・そうですか」
せっかくのステージなのに演奏者失格だ。
「今日は来るつもりなかったんだけど、昨日瑠璃ちゃんと話して楽しかったからまた来ちゃったよ。今
からまた休憩でしょ?終わったら話したいな」
「本当?ありがとう。じゃあ後で」
野田の言葉に作り笑顔ではない本物の笑顔で答える。
さっきまで自分を覆っていた重い空気が綺麗さっぱりなくなっていることに私はその時気付いた。