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今日の『MB』は混んでいた。
お正月なのに、と新人の女の子が呟く。違う、正月だからだと私は胸の中で独りごちる。
年始の挨拶も兼ねて、彼ら金持ちはここに集うのだ。
時計を確認して、私はステージに向かった。
騒がしく熱気に包まれたテーブルから移動してピアノのあるステージに立つと、途端に心が静かになる。
ピアノに触れる前のこの緊張感が私はとても好きだ。
ショパンのバラード1番。私が必ず最初に弾く曲。
息を吸い、ゆっくりとした出だしを弾き始める。4作あるバラードの中で1番好きな曲だ。
何かに迷うような低音のイントロと、独白するかのようなメロディーはいつだって私の心を代弁してくれているような気がした。
ピアノに触れるときだけは、いつも蓋をしている心が開放される。
それはとても気持ちの良いことだけれど、それと同時に毎回痛みも感じた。
普段鎧で固めている私の心はとても脆くなっていて、感情に慣れていない分、その切ない喜怒哀楽に傷つけられ、悲鳴をあげるのだ。
何て貧弱な心なんだろう。でもきっと、昔も今もこれが本当の私なのだ。
そう噛み締めるように実感する。すると別の私が現れて抵抗する。
本当なんて、真実なんて誰にも、私にさえ分からないはずだ、と。
うるさい言い争いに私は思考を止めピアノに集中する。
今は音を紡ぐ、ただそれだけでいい。
メロディアスな和音と胸をつんざくようなコーダを経て、不協和音のような飾りを入れながらオクターブで鍵盤を駆け下りてくるようなラストを弾ききる頃には額に汗が滲んでいた。
鍵盤から腕を離す。当然のように拍手はない。
一旦、脇に置いたハンカチで汗を押さえて、また次の曲に入る。その繰り返し。
いつだったか、そんな真剣に弾かなくていいのに、と店側から言われた事があった。
でも、適当なBGM曲を適当に弾くという選択肢は私にはなかった。
全力でピアノを弾いて、ほんの一瞬でも誰かが耳を傾けて何かを感じてもらう事が、私の自己満足を満たす小さな望みだ。
こんな場所だけれど、誰かの記憶に少しでも残る演奏ができたら本望だと思う。
あっという間に30分弱の持ち時間が終わり一礼した。
ザワザワした店内をぐるっと見回すが、誰一人舞台に視線を向けている者はいなかった。
いつも通りのそんな様子に落胆することもなく、私はステージから降りる。
演奏後は少しだけ休憩時間がもらえるのだ。
汗をかいたせいかやたら喉が渇いていたし、体力を消耗して疲労感が身体に纏わりついているかのようで、一刻も早く何か飲みたい。
足早に控え室へ向かおうとしたその時、目の前に突然黒い影が現れた。
「演奏良かったよ」
「・・・ありがとうございます」
声をかけられて客だと分かり、慌てて疲れた顔を引き締め、笑顔を作ってお礼を言う。
演奏良かったよ、という言葉の意味をやっと理解する。
…聴いてくれていた人がいたのだ。
私の笑顔はみるみるうちに人為的なものから自然のそれへと変化した。
きちんと顔を見れば30代半ばくらいだろうか。
この店では若い部類に入るだろう、穏やかな印象の男性だった。
おそらく上司に連れられてきたに違いない。
「今から休憩?もし良かったら休憩の後、少し話せないかな。店の人には言っておくから」
そう言って男は自分の席を指差す。
「分かりました」
ピアノを褒められるとやっぱり嬉しい。例えそれがお世辞であったとしても。
初めてのことに私は完全に舞い上がっていた。
だから迷うことなくOKの返事をし、もう1度笑顔で会釈すると足取りも軽く控え室へ戻った。