#85
夜も更けた頃。借り受けている宿屋の部屋。
魔導ランプがほんの少し光をちらつかせている中。
「……まあ、こんなもんでいいかな」
パンの間に、薄く切った野菜と塩漬け肉とを簡単に挟んだだけのサンドイッチを作って、浩一はバスケットの中に入れる。
ついでに、ポットに紅茶を準備して。それもバスケットの中に。
準備ができたことを確認すると、浩一は片手でバスケットを持つ。
そのまま部屋から出ようと、ドアノブに手を伸ばして――、
「コーイチ様!」
バンッ! と。勢いよく扉が開かれる。
慌てて手と身体を後方に引っ込める。よく反応できたものだと自分でも思う。
案の定というべくかなんと評するべきか。案の定、扉の向こうにいたのはアイリス。
「こここっ、コーイチ様!?」
すぐ目の前にいるとは思っていなかったのだろうが、尋ねてきたがわであるアイリスのほうが驚いているのには、これ以下に、と思わなくもない。慌てすぎて、顔を赤くしているし。
「ちなみに、アイリ。ノックは?」
「はっ、忘れていましたの!」
再度扉を締めてから開け直そうとするアイリスを引き止めながらに、浩一は小さく笑う。
こういうやりとりも、久しぶりである。
最近では比較的少なくなっていたが、アイリスと出会った頃などはよく見ていた。もちろん、当時はこれほどまでに気軽に話していいものだと思っていなかったので、指摘していたのはアレキサンダーだったが。
……そんなふうに考えてみると、随分と仲がよくなったものだな、と。そう感じる。
「あら、どこかお出かけになりますの?」
「ああ、少しな」
どうやら、浩一が提げているバスケットに気づいたようで、アイリスがそう尋ねてくる。
浩一の答えを聞いたアイリスは、キラキラとした表情を浮かべながらに浩一の方を向くと
「それなら、私もお供いたしますの!」
と、そう言った。……正直、顔を見た時点で予想はしていたが。
「……それじゃあ、ついてきてもらってもいいか?」
「はい!」
どうせ断ったところで無理やりにでも説得をしてこようとすることは理解しているので、少々諦め気味に浩一がそれを了承すると、アイリスはより顔を明るくする。
まあ、さすがにこれまでの経験から、アイリスを多少連れ回すくらいなら問題はないということもわかっているし。……こんな夜更けに連れ出すのがどうなのか、については少し不安ではあるが。
アイリスだから、ということもあるし、単純に彼女が女性であるから、ということもあって。
ただ、いざとなったときの逃走能力は間違いなく浩一より上だし。なんなら、身体能力についても浩一のほうが負けている。有事の際は、むしろ浩一が守るより守られる可能性のほうが高い。
……改めて考えてみると、ちょっと悲しいな。
「コーイチ様? 行きませんの?」
「あ、ああ。行くよ」
少しぼーっとしていた浩一は、アイリスの言葉で現実に引き戻される。
バスケットを代わりに持とうかと提案してきたアイリスだったが、自分の荷物ではあるし、これくらいは持つよ、と。
……たとえ浩一のほうが力が弱いにしても、いちおうは男なのである。見栄であるとか、矜持であるとか、そういうものがないわけではない。
既に長距離移動を彼女に頼りきりな時点で、まあ、ロクな見栄や矜持でないだろうとは思うが。
「案の定、まだやってやがったな」
工房の中から、オレンジ色の光が漏れ出している。
炉の番をしている人間もいるが、それ以外の人たちについてはほとんどが帰った、工房の中に。魔導ランプで照らされた一角が。
「ほら、マーシャ。休憩の時間だ」
「……ふぇ? ああ、いらっしゃいおにーさんに、それからアイリちゃん。でも、今来てもさすがにまだ完成してないよ?」
「そんなそとは百も承知だ。休憩だって言ってるだろ」
研究や加工をし始めると、突然に自身のことに対する関心や優先度が落ちるマーシャである。さすがに夕食はとっただろうと思いたいのだが、正直それすら怪しい。
それくらいに、生活力が激減する。……一番最初に出会ったとき、空腹で死にかけていたマーシャのことは、未だに印象に強く残っている。
少なくとも、ろくな休憩はとっていないだろうし、仮眠もしていないはずである。なにせ、明日が待っていられないと言う理由で工房に飛び込んでいるのだ。
マーシャともあろう人間が、わざわざ止まるわけがない。
「とりあえず、これでも食え」
「わあ、美味しそう! 食べていいの?」
「むしろ嫌といっても食わせるが」
冗談っぽい言葉なのに全く持って冗談に聞こえない浩一の言葉に、マーシャはどこかバツが悪そうに笑う。……さては夕食すっぽかしたなコイツ。
呆れた様子でため息をついている浩一の陰から、アイリスがぴょこんとその身体を飛び出させる。
「もう、マーシャちゃん。ちゃんと食べないとっていつも言ってるでしょう?」
「うーん、それ自体はわかってるんだけどねぇ」
ついつい忘れちゃうんだよ、と。マーシャは苦い顔をする。無論、それでお叱りを回避できるわけもないのだが。
ひとまず、マーシャにサンドイッチを渡しつつ、紅茶の準備をする。
少々冷めてしまっているが、火傷しない温度だと思えば、まあ。
「うん。美味しい!」
もっもっもっ、と。大きく口に含ませたマーシャは、ごくんと飲み込むと、そんな評価を返してくれる。
「そりゃどうも」
「もしかして、おにーさんが作ってくれたの?」
マーシャのその質問に、別に隠すことでもないだろうとコクリと頷く。
風花みたいに手際も良くないし、知識もないから凝ったものはあまり作れないが。まあ、このくらいなら作れる。
こんな時間なことあって、店屋も閉まっているし。
「コーイチ様の手製……」
なにやらつぶやきながらに、マーシャがジッとサンドイッチを観察する。
当然ながらにそんな態度を取っていれば、浩一はもちろんマーシャにもバレるわけで。
「あー……アイリちゃんも食べる?」
「よ、よろしいのですか!?」
パアアッと顔を明るくさせるアイリス。まあ、彼女にしては無自覚だったのだろうが。しかし、あんな表情を見せられてしまっては、マーシャがそう言わざるを得ないのも理解はできる。
別に、このくらいならいつでも作るけど、と。そんなことを思いながらに、バスケットの中にある別のサンドイッチをアイリスに渡す。
アイリスはというと、そのサンドイッチをまるで宝石でも渡されたかのようにくるくると様々な角度から見て、そして持ち上げて、と。
……ただのサンドイッチ、食べ物なんだから、そんな観察しないで食べてくれよ。なんか少しむず痒いじゃないか。
そんなことを、アイリスの分の紅茶の準備をしながらに思う。
「そういえば、思いついた仕組みの詳細についてはまだ聞いていないが、うまく行きそうなのか?」
「うん。ガストロさんたちとも意見を交換してみたんだけど、これならうまく行くんじゃないかって! まあ、角度とかの調整は必要そうなんだけどね」
そう言いながら、いつのまにかサンドイッチを完食していた彼女は設計図を引っ張り出してくる。
……とはいえ、残念ながら浩一もアイリスも専門ではないので、これを見せられただけではなにがなんだか、把握はできない。
「とりあえず、ここは絶対変えられないってところが、シリンダとピストン。そして、直線運動を回転運動に変えるためのスライドクランク」
ピストンに接続された長い棒の先に、更にもう一本短い棒が接続。さらにその短い棒の反対側は、回転運動を起こしたい箇所に繋げられている、というような機構だ。
ピストンが押し出されると、長い棒も押されて動くが、連結されている都合、自由には動けない。
結果、短い棒を動径とする半円周上を辿るようにして反対側に移動。ピストンが引き戻されるときも、同じく残りの半円周上をなぞるようにして戻る。
首振り式エンジンのときにも使った、クランク機構の一種である。件のときとは違い、揺動運動は発生しないが。
「そして、ここからが前とは違うところ!」
ピシッと、マーシャが図面上を指差して、そして、なぞる。
そこには、たしかに首振り式エンジンのときにはなかったもの――クランク機構がもうひとつ、回転運動をする円盤に接続されている。
接続を見るに、ピストンと接続されているクランクとはズレた位相で動くように見えるが――、
「これのおかげでね。ピストンが引き戻って……ううん。反対側から押し戻されてくれるの」
にいっ、と。自信満々のよい笑顔を浮かべながらに。マーシャはそう言った。