#84
ひとまず、わざわざアムリスで作業を続ける理由もないということで、エルストへと移動をして。
到着をする頃にはもう間もなく日も沈もうかというような頃合いになっていたというのに、マーシャはというと「明日なんて待ってられない!」と言った様子で借り受けている工房へと飛び込んでいった。
普段ならばオーバーワークを咎めようというところではあるが。しかし、浩一にもいくらかは現在の彼女の感情も十分に理解出来るだけに、今回くらいは見逃しておく。
イメージが鮮明なうちに、というのも理由ではあろうが。なによりも、早くに試してみたいのである。
「それじゃあ、頼んだぞ」
「うん。まっかせてね!」
ぽん、と。胸を叩きながらにマーシャはそう答えた。……まあ、折を見て夕食と夜食は持って行くことにしよう。
マーシャを送り出してから工房の外に出る。
ふと、横を見てみると。一緒についてきてくれていたアイリスが、なにやら複雑そうな顔をしていた。
……さっきから、どうにもアイリスの様子が不安定である。体調はよくなった……んだよな? いや、アムリスからエルストへの移動はアイリスに手伝って貰っていたし、その際には少なくとも前回のように暴走することはなかったが。
「ずいぶんと、マーシャちゃんのことを信頼してますのね」
「えっ? ああ、まあ。たしかに、そうだな」
アイリスにしては珍しく、ぶっきらぼうに言った言葉に浩一はそう返した。
マーシャが「できる!」と言ったのを見て、浩一は一旦彼女に任せた。
それは、たしかに信頼があってこそできるものだろう。
「だが、こと物作りに関して、マーシャに信頼があるのはアイリも知ってのことだろう?」
「それは! ……そうですけれど」
そもそもマーシャの紹介をしてくれたのはアイリスからなので、そんなことは重々に承知している。
わかってはいる、のだけれども。どうしても、心がソワつくのだ。
無論。そんな心境が浩一に伝わっているわけもないのだが。
だが。浩一とて、朴念仁ではあろうとも。話の流れが理解できないような性格ではない。
「それに、信頼云々で言うなら。アイリのことだって信頼してるぞ?」
「――ッ!」
むしろ、無自覚ではあろうが、そうやって話の流れを汲み取りつつ、的確に対応をしていくからこそ。
風花の話にあったように、たくさんの異性の心を奪っていたわけなのだが。
「で、でも。私の役割であるコーイチ様の移動については、フィーリア様もできるようになりましたし」
「まあ、それはそうだけど。別にフィーリアさんができるようになったからアイリができなくなったわけでもないだろうし。フィーリアさんだってずっと俺について回ってもらうわけにも行かないわけだし」
そもそも、今回フィーリアに代役を頼んだのはアイリスが不調だったという前提があるわけで。
「だから、別にフィーリアさんができるようになったことと、アイリスに移動を頼むこととは別の話題だと思うぞ?」
「そう……ですわね」
「それに、突出してなにかできることがなければならない、というわけじゃないしな。それを言い始めると、ルイスはどうなるんだって話だし」
もちろん、ルイスにも強みはありはするが。しかし、その強みはどちらかというと平均性である。
ある意味それも突出していると見ることはできないが、その一方で、良くも悪くもそれなり、という評価をくだせなくもない。
……まあ、そもそも。アイリスに独自の強みがないのかといえば、そんなことは絶対にない。
マーシャが物作りで他の誰にも負けないように。風花が地図制作をする上で欠かせない要員であるように。
アイリスは、渉外に於いて、浩一たちの中で右に出るものはいない。まあ、本人にその自覚はないだろうが。
立場上、浩一が取引などを主として行うことがほとんどではあるが。しかし、そのための地盤作りとして、アイリスの力はとてつもない効力を発揮している。
それこそ、たとえばエルストで彼女が職人たちにすぐさま気に入られていたように。その直後に浩一たちとガストロとの交渉の場で、アイリスの発言に「アイリスちゃんにそれを言われると俺たちでなんとかしてやりたい気持ちはあるんだが」と言わしめていたように。……それも、王女という肩書を抜きで、だ。
説得のための信用の確保、という側面では、アイリスはとてつもない力を有している。それこそ、匹敵しうるのはアレキサンダーくらいなものではないだろうか。
「まあ、アイリがなにに悩んでるのかは、俺にはわからないけどさ。アイリにもしっかりと信頼はあるし、マーシャや風花たちに対してと同じように、俺はアイリのことを頼りにしてるよ」
むしろ、頼りきりにしすぎているまであるけれど、と。浩一は小さく笑いながら、そう言って、アイリスの頭を撫でる。
アイリスは、なんだかんだと撫でられるのが好きである。これは、浩一がこれまでの経験から学んだことである。……まあ、有り体にいえば、ことあるごとにアイリスから頭を撫でるのを要求されたりしていたからであるが。
最初は不敬に当たるんじゃないかと内心ビクビクしながらに行っていたものだが、満足そうな笑顔を浮かべながらに撫でられるアイリスに、だんだんとこの行為にも慣れてきていた。
だからこそ、今回もいつものように、と。自然と身体が動いていたのだが。
「……ふきゅう」
なぜか、アイリスが鳴き声にも似た声を漏らしながら、顔を真っ赤にして、ほんの少し身体を縮こまらせていた。
そんな彼女の様子に、浩一の身体がピシャリと固まる。
(なんだ、いったいなにをやらかしたんだ、俺)
慌てて自身の行動を振り返る。
なにやら悩んでいるだか落ち込んでいるだかしているアイリスに対してフォローの言葉をかけつつ、彼女の頭をゆっくりと撫でた。
そしたら、アイリスがものすごく恥ずかしがっている。
フォロー云々については、そもそもアイリスがこうして落ち込んでいるのも珍しいことではあるし、内容的に褒めるようなことは話しているものの。しかし、ここまで恥ずかしがる道理はないだろう。
では頭を撫でたことによることになるが。以前までに行っていた方法と同じやり方である。特段力加減を間違えたとか、変な場所を触ったりしたとか、そういうことはしていないはずだが。
……アイリスが自身の心の裡――恋情に気づいてしまったが故に、いつもどおりのその行動に対して、過剰に反応してしまったということを。浩一が知る由もなく。
「あ、えっと、その。アイリ。急に頭を撫でて悪かったな」
おそらくはこれが原因であろう、と。
パッと彼女の頭から手を離して、ついでに、少しだけ距離を取る。
これで、アイリスの調子が戻ればいいが……しかし、そんな簡単な話なわけもなく。
「いえ、なんでも。なんでも、ありませんの。ええ、本当に、なんでも」
いや、それは無理があるだろう。指摘はしないが、絶対になにかがあったことだけはわかる。
「と、とにかく! コーイチ様! 頭を。頭を、撫でてください! 続きを! さあ!」
「いや、さっきのアレを見せられた上で続きをってのは無理があるって!」
もはや、なかばヤケクソになりながら頭を擦りつけようとしてくるアイリスと、そのあまりの圧に思わず躱す浩一。
どうしてこうなった、というそんな状況を。
「なにやってるのよ、あなたたち。こんな公衆の面前で」
「…………あっ」
やってきた風花に半目で指摘をされる。
騒ぎ気味であったこともあり、風花だけでなく、周囲の目も引いている。
「ああ、ええっと――」
「まあ、よろしくやるのは勝手だけど、室内でやることをおすすめするわね」
「違う! それは勘違いだ!」
気まずいものを見た、といわんばかりの様子で離れていく風花を、浩一とアイリスは慌てて追いかける。
結果、なんとか弁明はしたものの、風花のジト目が解けるのにはかなりの時間を要したし。
エルストの街の中でも、あらぬ噂……というわけではないが、そんなものが駆け巡ったりもした。