#79
ずいっ、と。距離を近づけてくるフィーリア。突然のことに思わず後ろに下がり、距離をとってしまうが。しかし、それでもなおフィーリアは間を詰めてくる。
「わっ、とと……」
慌てて後ろ向きに歩いていたからか、足がもつれて背中から倒れ込んでしまう。
だが、運良くそこにはベッドがあって。ぼふん、と。仰向けになる形でマットレスの上に倒れ込む。
……いや、これ。運良く、なのか? 少々まずい状況では?
案の定、これを好機と見たフィーリアが一気に近づいてきて、浩一の上に覆いかぶさるようにして倒れ込んでくる。
顔と顔が、寸前まで近づく。少しでも動けば、鼻先が触れてしまいそうな距離。
呼吸までもがはっきりと感ぜられて。
なにが起こっているのか、どうしてこうなっているのか。
なんとか思考を回そうとしてみるも、うまく考えがまとまらない。
フィーリアが間近にいるというその情報が、彼女から感ぜられる体温、呼吸、匂い。様々な要素が思考を妨害する。
「あの、フィーリア、さん」
「はい、なんでしょうか、コーイチさん」
「もしかして、フィーリアさんは、俺のことが――」
そこまで言葉で出かかって。しかし、その先の言葉を言うのがいささか憚られた。
なぜだろうか。ここまで言っておきながら、そこで中断するのはフィーリアに対して不義理であるだろうに。だから、恥ずかしいとか、間違っていたらどうしようというような不安などの感情で言いとどまっているわけではない。
ただ、自分でもよくわからない感情が湧き上がってきて。その感情に、言葉が喉の出口で引っかかっていた。
「はい。お慕いしています。ありきたりな言葉で語るならば、好きです。もちろん、殿方として、ですよ?」
俺の様相を理解してか。あるいは、ただ単純に俺が恥ずかしがり、言うのを躊躇っているだけのように思ってか。フィーリアが続きの言葉を補完してくれる。
はっきりと。好きである、と。
親愛や友愛などではなく、恋情である、と、彼女はそう告げた。
ジッ、と。こちらを見つめてくるフィーリアの視線。
瞳が僅かに揺れながら、こちらを見つめてきていて。
俺がそれを見つめ返すと、彼女は顔を赤らめながらに「そんなに見つめられると照れてしまいますよ」なんてつぶやく。
「……ちなみに、聞いておきたいんだが。これに、アルバーマ男爵は関わっているか?」
「あら、曲がりなりにも私は男爵令嬢ですよ? 婚姻を結ぶとなればお父様が関わってくるのは当然で――」
「いや、そうじゃなくて。こうして俺に迫ってきている理由に、アルバーマ男爵からの言葉は関わっているのか? と」
正直なところ、かなり失礼な質問だろうとは自分でも思う。
こうして好意を伝えてくれているフィーリアに対して、それが本当にお前の感情からくる行動なのか、と。そう尋ねているようなものである。
フィーリアから向けられている感情。浩一には経験は少ないものの、しかし、少なくともそれが紛い物のようには思えなかった。
だが、しかし。それと同時に、どうにも焦っているような、そんなような気がして。
その理由については、わからなかった。けれど、可能性のひとつとしては、ありえるかもしれない、と。
これでただの自惚れだったら笑い種だが。しかし、アルバーマ男爵はなんだかんだと言って浩一に対して良感情を抱いてくれている。
それならば、籠絡しろなどとまでは言わずとも、コネを作っておけ、くらいのことは言っているかもしれないし。
と、いうか。こうして様々手伝ってくれたり、アイリスの代わりに箒に乗せてくれたりしているのも、その一環だと思っていた。
浩一からその指摘に、フィーリアはほんの少しだけバツが悪そうな顔をして。彼女は、それ自体は否定しません、と。
「たしかに、最初に興味を持った理由……そのきっかけ自体はお父様から言われたから、ということはあります」
曰く、浩一との関係性は良好なものを結ぶように。そして、可能ならば深い親交、フィーリアが乗り気になるのであれば、婚約なども視野に入れてアプローチしてもいい、との旨を伝えられていたとか。
正直、まさかそこまで言われているとは思っていなかった。
「もちろん、最初に聞いたときには、お父様も冗談を言うのだなあ、なんて。そう思っていました」
フィーリアは小さく笑いながらにそう言う。浩一だって、そんなことを言われたとしても冗談だと思うだろう。
なにせ、フィーリアは貴族令嬢であり、浩一は平民。不可能ではないにせよ、この地位の差がありながらに婚姻を結ぶことはまず無く、それこそ駆け落ちして貴族側が平民になるならまだしも、貴族側がおいそれと奨励するものではない。
まあ、実際のところは浩一がただの平民かというと審議のかかるところではあるのだが。しかし、浩一のことを知る人物のほうが圧倒的に少ないこともあり、世間一般からの風体としてはあまりよろしいものではない。
「ですが、お父様が言ったように。私が浩一さんとどう付き合うか、より深い親交を結んでいくかについては。あくまで私が乗り気であれば、という話ではありました」
「…………」
なんとなく、話を聞いていて理解している範疇ではあった。
アルバーマ男爵は、貴族としての役割をも理解しつつ。しかし、ひとりの父親として、フィーリアの感情も重んじていた。
だからこそ、浩一に対して、どこまで踏み込んで付き合っていくかは、フィーリア個人の判断に委ねられている。
そして、そんな彼女がこうして積極的に浩一にアプローチしてきている、ということは――、
「だからこそ、私がこうして今ここにいて。浩一さんを誘惑しているこれは、紛うことなき、私の感情からくる行動です」
真っ直ぐな瞳で、フィーリアはそう伝えてくる。
その顔はほのかに紅潮していて。どこか艷やかで。
至近に存在すら彼女の身体からは、大きく速く打つ鼓動が伝わってくる。
フィーリアとしても、大きな決心と覚悟の上で、来ているのだということが明白だった。
ならば、答えなければならない。それが、道理であろう。
だがしかし、どうすればいいのかの。その判断がつかない。
フィーリアに対して、悪感情を抱いているわけではない。間違いなく好意を抱いている相手ではある。
だが、浩一にとってのその好意は、少なくとも現状では友人として。あるいはともに仕事をする仲間としての感情であり、異性としての感情はほとんど無くて。
「……ごめん、フィーリアさん。少し、考えてもいいだろうか」
この場で答えを出さない、というのはたしかに不誠実ではあるのだが。しかし、この曖昧な感情のままに回答をするというのもまた、より不誠実であるように感ぜられたのだ。
「大丈夫です。私の方こそ、いきなり大きく詰め寄りすぎてしまいましたし。コーイチさんにも、いろいろと感情の整理はあるでしょうしね」
こちらの感情を汲み取ってくれたようで、フィーリアはそう言いながら、ベッドの上から立ち上がり、離れてくれる。
「ですが、あんまり待たせないでくださいね?」
「……できる限り、頑張るよ」
それでは、今日は休みましょうか。と、そのままベッドに入ってこようとしたフィーリア。
まさか結局同じ部屋で寝るのか? と、浩一が驚いていると、さすがに冗談であったようで、いたずらっぽく笑いながら、彼女は別室に向かっていった。
ひとりに残されて、静かになった部屋の中。
平穏になったといえばそうではあるが、同時に、どこか寂しさを感じないでもない。自分で追い出したというのに。
「恋愛、かあ……」
興味がないわけではなかったが、まさか自分がその当事者になると思っていなかったのも事実で。
未だ残っているように感じる、フィーリアがここにいたというその残滓に。どうにも感情が平穏を保とうとしない。
ただでさえ疲れているのに、はたして今日は眠れるのか。
そんなことを考えながらに。誰に見られるわけでもないのに、赤くなった顔を隠すために枕に顔を埋めていた。