#75
翌々日の夜。アルバーマ男爵の伝手を借りながらに、レーヴェ子爵家へと訪問の許可を取り、肯定の返事が戻ってきた頃合い。
フィーリアによる二人乗り飛行可能性の確認についても。アイリスほどに通常通りの飛行、というわけにはいかないものの。あの場で堂々とした宣言をするだけはあって、たしかに浩一を乗せての飛行については、多少速度と高度とが犠牲になる程度でしっかりと成功していた。
それこそ、以前に賊を撃退したときのような、アクロバティックな飛行については無理だろうが。普通に領地間を移動する、という目的としては十分であろう。
「ついに、明日に出立か」
アムリスで借り受けている部屋の中で、浩一はそう、ひとりつぶやていた。
ふと思ってみれば、遠方への出張に則して、アイリスを伴わないのは今回が初めてである。
移動の過程についてを加味するならば、以前にカメラ開発で遅れながらにマーシャとアルバーマに移動してきたときなどもありはするが。
そもそも、原則的に今まではアイリスの箒に乗りながら移動してきたために、遠方に移動するというのにアイリスを伴わない、という経験がそもそも無いのだ。
「……個人的な心境で言うなら。箒はその性質上、二人乗り時に同乗者が密着しなければならないのが、やっぱりどうにも気が重いな」
それを言い始めるのならばアイリスの時点で、という話であるが。しかし、必要なものだということで割り切り半ば慣れてしまっている現状に。突然別の人とも同じことを、と言われてしまうと。
それも、その身体にしがみつくようにしなければならないという都合。別にそういう不埒な行為をしているなどという事実は一切ないものの、なにやら不貞をしているのではないかという、ありもしない疑念が浮かびそうで怖い。
(アイリの様子が変なのも気がかりだしなぁ……)
当人はというと頑として大丈夫だと主張しているが。しかし、どう見ても大丈夫ではなさそうだというのが見た限りでの所感ではある。
レーヴェ子爵家に浩一が挨拶に行っている間は十分に休息を取るつもりだ、とのことなので、それで回復してくれればいいのだけれども。
まあ、こちらについては状況をやや重めに見たルイスが風花に相談した上で、彼女の予定を調整してくれたようで。しばらく、対処にあたってくれるとのことらしい。まあ、正確にはアイリスの様子を見ることのみが目的ではなく、マーシャが無理をしないか、という監視の目的もあるようだが。
「まあ、風花がいてくれるなら。ひとまずはなんとかなるか」
姉だのなんだのと世迷言を言うことはあったりし。あるいは、変なところで妙なテンションを引き起こすことはあったりするものの。なんだかんだで風花とは長い付き合いであり。それゆえに、彼女が頼りになる人物である、ということを浩一はよく知っている。
風花であれば、しっかりとアイリスに対しても必要に応じて気を回してくれるだろうし。
完全に風花頼りの任せ切りにしてしまうのは、無責任でもあり、少し申し訳なくも思うが。だからこそ、彼女に任せている間、浩一は自身の仕事をしっかりとこなしていくべきだろう。
「……とはいっても、こっちはこっちで。考えれば考えるほどに腹痛の加速する案件ではあるんだけどなあ」
浩一はそうひとりでつぶやきながらに、ははは、と。そんな力のない笑いを漏らす。
……うん、これ以上考えていても、気に病むだけだ。
変に考えを回しすぎて睡眠不足になったりして、それで粗相をしたりしたら本末転倒だ。
やや無理やりにでも、眠っておくべきだろう、と。
浩一は寝台に向かい、そのまま、布団をかぶる。
緊張からか、思った以上に目が冴えていたが。なんとか、呼吸を落ち着かせてながらに、明日に向けて、眠りについた。
* * *
「それじゃあ、行ってきます」
「頑張ってきてくださいね。コーイチ様、フィーリア様」
アルバーマ男爵の邸宅の前で、出発前の挨拶をしている浩一とフィーリアに、アイリスはそう声をかける。
これでいい、これで正しい。そう、心の中で繰り返し自分に言い聞かせる。
「それではコーイチさん。こちらへ」
「う、うん。よろしくお願いします」
まだ少々慣れないのか、いくらかぎこちない様子で浩一がフィーリアの箒の後部に腰を下ろす。
このまま、フィーリアがレーヴェ子爵家に向けて飛び立てば、それで問題ない。……問題ない、はずなのだけれども。
なぜだろうか。そんなこと、あってはならないことのはずなのに。
どこか、失敗してしまえばいいのに、なんて。そんな非道なことを考えてしまっているアイリスが、心の裡にいて。
それが、なによりも不愉快だった。自分自身のことだというのに。いや、自分自身のことだからこそ。
しかし、そんなアイリスの邪念とは正反対に。箒は、問題なく浮かび上がり、飛行を始める。
純粋に、よかった、と。そう、安心を覚えている感情も、たしかに間違いなく存在していた。
けれど、それと同時に。名前の知らない感情が、溶かされた鉄のように煮え滾る温度を持ちながらに、ドロリと身体の奥底に流れ込んできているのが感ぜられる。
ふたりの出発を見送って。その姿が見えなくなってから、アイリスはアルバーマ男爵に挨拶をしてから、そのまま来た道を引き返す。
浩一には、療養、という名目で時間を貰っているが。その実、体調のほうが悪いということは無く。実際に影響しているのは、どちらかというと、精神面。
しばらく前から、全く制御が効かなくなっている、感情である。
そうなったきっかけも、原因も、わかっている。
解決しなければならない、ということも理解している。
けれど。考えても、考えても。いや、むしろ考えれば考えるほどに、どんどんと感情が膨らんできて、どうすればいいのかがわからなくなってくる。
ともかく、一旦部屋に戻ってから、落ち着こう、と。
ふらふらとした足取りのままに、アイリスは街の中を歩いていく。
「……いちおう、浩一とルイスからの話で聞いてはいたけど。どうやら、思ってたよりも症状は深刻そうみたいね」
「フーカ様……」
アイリスの耳に、そんな声が聞こえてきて。ふと顔を上げてみると、そこには風花の顔。呆れと、心配と。そのふたつが入り混じったような表情を浮かべた彼女は、ため息を付きながらにアイリスの顔を覗き込んでくる。
「なにがあったのかはわからないけど。まあ、話くらいなら聞いてあげるわよ」
「でも、ですが……」
「どうせ、あれだけ浩一と一緒にいたのに相談のひとつもできていないのを見るに、アイツには話しにくい内容なんでしょ? 大丈夫、浩一には黙っておくから」
アイリスのことを心配するような、優しい笑顔を見せながらに風花がそう言ってくる。
「まあ、私にも言いたくないのなら、無理強いはしないけども。……いちおう、お菓子を作ってきてあげたわよ?」
「ふふふ、フーカ様は、ずるいですわね……」
弱々しく笑いながら、アイリスはそう答えた。
別に、お菓子に釣られたわけではない。だが、そうまでしてアイリスとの会話を続けて、こちらを助けようと気にかけてくれている、ということが。そのお菓子からは感じ取ることができるのだ。
「では、申し訳ありませんが。私の部屋まで来てもらってもいいでしょうか?」
「ええ、もちろんよ。浩一にすら話しにくかった内容だし、公の場では話しにくいものね」
風花はそう言うと。しかし、人差し指をそっと自身の顎に添えてから、少し考えて。
「それとも、浩一だからこそ、話しにくかったのかしら?」
ニヤリ、と。笑いながらにそう告げてくる風花。
どうやら、ある程度こちらの心情などについてはお見通しである、と。そう言いたげな様子であった。




