閑話:アップルパイ
本編とは少しズレた位置にある、余談的なお話です
特段これを読まなくても本編には影響はないはずです
要するに「読まなくても大丈夫なやつ」です
「それじゃあ、このリンゴをみっつください!」
風花が明るい声で店主に伝えると、ふくよかな女性は気前のいい声を出しながら紙袋にリンゴをみっつ詰めてくれる。
そのまま風花は持ってきたカバンにリンゴをいれると、肩から提げて。箒に跨って空を飛ぶ。
さすがは王都というだけはあって、城下の街を巡ってみれば、ある程度の欲しいものは見つかる。
まあ、カメラが欲しいと言った彼女の要望に対して、浩一とマーシャが色々と工夫してやっと作ってくれたように。なんでも、というわけにはいかないけれど。
「うーん、シナモンかそれに類似するものはなさそうかな? まあ、これに関しては最悪なくても大丈夫だけど」
必要なものを指折り数えてみると、ちょうど今挙げたシナモン以外は、どうやら買い揃えられているようだった。
正直、もう少しシナモンを探してみてもいいのだけれど。あんまり買い物を続けていると、他の関係のないものまで欲しくなってしまいそうなので、今のうちに引き上げることにしよう。
風花はそのまま箒を城の裏手――関係者用の裏口へと向けて走らせ始めた。
調理場については、朝昼夕の食事を作る忙しい時を除いて、必要ならば使っていいと言われている。
浩一とアイリスがアルバーマに出張に行っている最中、不規則な生活を送っていたマーシャの世話を焼く一環として、彼女に食べさせる料理を何度かここで作らさせてもらったりもしていた。
風花が料理を作る際に、休憩中の料理人の人たちともそれなりに話したりしているので、なんだかんだで実はそこそこ顔見知りがいたりする。
「とはいっても、今日は必要に駆られてってわけではなくて。私の趣味として使うんだけども」
まあ、使っていいと言われているのだから、別に構わないだろう。食材も、自分の所持金から工面してきたものだし。
使う食材は小麦粉とバター、リンゴとレモンに砂糖。それから照り出し用の卵。
「食材としてはシンプルだけど、これは手間が尋常じゃないのよねえ……」
少しぼやきながらに。しかし、そんなことを言っていても料理が完成するわけでもないので、風花は作業を開始する。
まずは、小麦粉を篩っておく。
理想を言えば薄力粉と強力粉を用意して、グルテンの割合などを調整するほうがいいのだが、そのあたりの区別がある商品が見つからなかったのでここは妥協。
仕上がりに影響はするが、極端に含有率が高かったり低かったりしなければ酷いことにはならないと思うので、そのまま続行する。
しっかりと篩って小麦粉の粒子の状態を均一にしたところに、水を入れる。
そのまま手で軽く粉を回していくと、ボロボロとした小さな塊が出来上がるので、それをそのまま根気よく回し続けていく。
「この作業が地味に大変なのよね……」
とはいっても、実を言うとこのあとに控えている作業のことを思えば、こんなところで弱音など吐いていられないのだけれども。
しばらくの間、粉を回し続けていると。水分が万遍なく粉同士でやり取りされて。ひとつの大きな塊になってくる。
生地をひとまとめにしてから、後で延ばす際のことを考えてスケッパーで十字に切れ込みを入れておき、乾燥しないよう、濡らしてから硬く絞った布巾で包んでから冷蔵庫に。
「こっちでも冷蔵庫に該当するものがあって助かった」
まあ、魔法で駆動しているものなのだけれども。ただ、おかげさまで結構保存なんかはやりやすい。
「さて。生地を休ませている間に詰め物の用意をしましょうか」
リンゴの皮を剥いてから、芯を取り除きつつ、6等分に櫛切りにし。元々ヘタがついていた方面から、それらを0.5cmほどの薄さにスライスして、あらかじめ切り分けておいたバターと一緒に鍋に入れていく。
それからレモンも適当に切ってから、絞ってレモン汁を鍋に入れていき。そして、砂糖を入れる。結構、たくさん。
「……こういうのを作るとき、いつも思うけど。ほんと、やってて恐ろしくなるわよね」
今突っ込んでいる砂糖の量もそうだが。このあと、現在寝かせている生地に包み込むバターのことを考えると、やはり恐怖でしかない。主に、カロリーが。
とはいえ、製菓をやっていてそのあたりを気にしているとなにもできなくなるので。今だけは目をそらして考えないことにしておく。
鍋をコンロ台の上まで持っていって、魔法で火をつける。
火力は中火か、ややそれより弱いくらい。
焦げ付かないように、木べらでしっかりとかき混ぜていく。そのうちにリンゴから水分が出てくるので、それらが蒸発するまでしっかりと火を通していく。
本来ならばここにシナモンも入れるのだが。今回は入手できなかったので断念。まあ、あの特有の甘ったるい香りがするかどうかと、多少味に変化がある程度なので、問題はないだろう。シナモンがあっても、好み次第では入れないこともあるし。
しばらくすると全体的に茶色く色づいてきて、飴の甘い匂いが漂ってくる。
リンゴも、木べらで軽く触ってやれば、そのまま押し切れるくらいには柔らかくなっている。
「そろそろ、いいかなっ!」
風花は鍋をコンロ台から引き上げて、火を落とす。
そのまま鍋敷きの上に置いて、中身をバットに移し替えておく。
「あとは粗熱をとっておけば、アップルフィリングの方は大丈夫そうだね」
砂糖煮にしているので、鍋の方は水に浸けておかないと後始末が面倒になる。そのままシンクに持っていって、軽くだけ水洗いをしておく。ちゃんとした手入れは、生地を寝かせている間や、焼成のタイミングで行えばいいだろう。
「……さて、ここからが本番ってところかな」
今回の一番の手間であり。そして、仕上がりに直結する工程。
フィユタージュ・オルディネール――折パイ生地の、折りの工程である。
「正直アップルパイを作るならラピッドでもいいとは思うんだけど。まあ、久しぶりに作るなら一回普通のやつをやっておかないとね」
冷蔵庫で冷やしておいたバターを出してきて、軽く打粉をしてから、麺棒で叩きながら硬さを調整する。
扱いやすいように、ある程度薄く、正方形っぽくなるように麺棒で押しながら形を整えて、今度は冷蔵庫の中から先程の生地を取り出す。
あらかじめ入れておいた切れ込みを広げるようにして、生地を十字に延ばしていく。
ちょうど十字の交差点が、先程成形したバターが乗るよりも少し大きいくらいに。
生地を延ばせたら、バターを生地の上に乗せて、四方向に延びている生地を畳んで、綴目をしっかりとくっつけておく。
生地が破れてバターが出てこないように気をつけつつ、麺棒で軽く叩きながら生地とバターとを混ざらないように合わせておく。
「……あ、生地がダレてきちゃってるな」
途中少し手間取ってしまったために、生地とバターが柔らかくなりすぎてしまっている。
一度冷蔵庫に戻してから……と考えかけたところで、ふと、手を止める。
「もしかして、魔法で温度を調整しながらやれば、休ませる工程カットできる?」
ふと、そんな思いつきを、試しに実践してみる。
まだあまり使い慣れてはいないが、魔法で手元を冷やしてみる。作業している私の手もかなり冷たくなるが。その代わりに、生地がダレるのも防げる。
「おお、これは。……便利、なのかな?」
いや、確かに便利ではあるが。手が冷たくなるのが難点ではある。
ただ、多少手間取っても生地の状態をある程度一定に保てるので、折り込み中にバターを溶かしてはいけないフィユタージュの製作としては、かなりやりやすいとも言える。
指先の冷たさを我慢しながら、生地を延ばしていく。
一方向に、3倍ほどの長さになるように。かつ、端が丸まらないように気をつけながら。
「とはいっても、なかなか難しいのよね、これが」
気をつけてやっても、やはり少し丸くなってしまっている。おそらくは力の掛け方が悪いのだろう。
しかし、致命的なほどではない。多少層の数がブレるところが出るかもしれないが。
延ばした生地を三つ折りにして、再び正方形に戻す。
今度はこれを90度回転させて、同じく延ばして、三つ折りに畳む。
再度同じ工程を繰り返したところで。さすがに一度、冷蔵庫で寝かせておくことにする。
温度を一定に保てるから、理屈上は寝かせずともやれるのかもしれないけれど。とはいえ、そろそろ指先のほうが限界だ。かなり手も冷え込んでいる。
生地に指先でみっつ、印をつけておく。3回折り込んだという目印だ。
再び布巾で包んで、冷蔵庫へ。このまましばらく休ませておき。その間に、もう使わない鍋なんかを洗っておく。
「……なんで手が冷たいってのに、水仕事したのかしら」
余計に冷たくなった気がするそれを若干恨みつつ。少し休憩。
また、ちゃんと動かせるくらいに回復してきたあたりで冷蔵庫から生地を取り出す。
「少なくとも、しばらくは魔法で冷やさなくても大丈夫かな?」
冷蔵庫によって生地が既に冷やされているので、今のうちに作業をしてしまおう。
先程までと同じく、前回折り込んだ方向から90度回転させてから、延ばして、折り込んで。これを再び3回繰り返す。
計6回繰り返して。最後の1回だけは魔法で冷やしつつ行って。そして、やっと折り込みが終了する。
「ほんっと、冷凍パイシートが恋しい」
あれがどれだけ優秀で、扱いのよいものだったかを痛感する。
どうにかしてこちらでも買えないだろうか。とは思うものの、そもそもパイ生地という文化がないヴィンヘルム王国では、まずはそこからという話になる。
……うん、やはりと言うべきかなんと言うべきか。少なくとも当面は、食べたければ自分で折り込むしかないらしい。面倒だけれども。
さて、そんな愚痴はともかくとして。気持ちも切り替えつつ、今度はフィユタージュ生地を広くに延ばしていく。
正方形に切り取ってから、円形の型に合わせていき、余った端は切り落としておく。
フォークで生地にピケをしていき、焼成時に膨らみすぎないようにする。そして、作っておいたアップルフィリングを詰めていく。
残った生地の方を細い長方形になるように切り分けていって、それらをパイの上に格子状になるように乗せていき、こちらも余った部分を切り落とす。
最後に縁を作るようにして端を止めておく。
切り落とした生地については、後でまた軽く砂糖でも振って、焼いておやつにしよう。
卵を溶いて、刷毛を使ってパイの天面に軽く塗っておく。
「……ここまで長かった。でもあとは、これを焼くだけね」
パイを天板に乗せたら、予熱をしておいたオーブンに入れる。無論、このオーブンも魔導オーブンである。
勝手が微妙にわからないため、適宜中の様子を確認しながらに、使っていた道具たちを洗っていく。
30分から40分ほど焼いた頃合いで、生地表面も良い具合に膨らみつつ、そして程よく茶色に色づいていた。
焼き上がりだ。
オーブンを開けて、天板ごとパイを取り出すと。溶けたバターの芳醇な香りが広がる。
匂いだけでお腹が空いてきそうなそれに。しかし、あと少しだけの我慢だ、と。私はパイを皿に移す。
そしてそれを持ったまま、自室へと歩いていく。
途中すれ違った侍女なんかから、やや羨ましそうな視線を受けて。ちょっと申し訳なくなる。……いい匂いだもんね。
そうして部屋の前まで来たところで。ちょうどというタイミングで、向こう側からアイリスとマーシャとがやってくる。
「まあ! フーカ様。それが以前言っていた!」
「ええ、アップルパイよ」
「わあ、とってもいい匂い! あ、おねーさん。扉は私が開けるねー!」
両手が埋まっている私の変わりに、マーシャが扉を開けてくれる。
「フーカ様がお菓子を用意してくださるとのことだったので、私は紅茶の方を準備しましたの!」
「えっ、と。その! わ、私は机を用意するね!」
ひとりだけなにも準備がないということに焦ったマーシャが、部屋の端に置いてある机を真ん中に持ってきてくれる。
別に、風花もアイリスも、そのあたり気にしてはいないのだが。
それぞれが座るイスを用意して、アイリスがポットに熱湯を入れて紅茶の準備を。そして、風花はアップルパイを切り分けて、配膳する。
今日は、アイリスとマーシャ。そして風花の三人での女子会だった。なので、浩一は出禁。
話題については、ちょうどアイリスがアルバーマから帰ってきたということもあって、そのことについて土産話なんかを中心に。
「それじゃあ、いただきます!」
アップルパイを口に運ぶと、バターの濃厚な風味と、リンゴの程よい酸味と甘みとが広がる。
「ふわあっ! 生地が物凄くサクサクです! とっても美味しいです!」
「……すごい、めちゃくちゃ層になってる。どうなってるの? これ」
アイリスとマーシャの反応は、やはりふたりらしいというか。アイリスは思ったことをそのままに口に出して。マーシャは味や食感を楽しみつつも、断面なんかを見て、その様子を観察していた。
キャッキャと騒ぎながらに食べ進めていき、特にアイリスなんかは然程時間が経っていないにも関わらず、いつの間にか皿が空になっていて。
再び風花がアップルパイを切り分けて、彼女の皿に置いてあげる。
そんなふたりを眺めながらに。これだけ喜んで食べてくれているのなら、あの手間をかけて作った甲斐があるな、と。
「さあて。それじゃあ、アイリスちゃん。アップルパイもいいけど、アルバーマでなにがあったのかを教えて? 主に、浩一となにがあったのか」
「あっ、それは私も気になってる! アルバーマってどんなところだったの? たしか、おにーさんが金属産業との協力を結んできたって聞いたよ!」
「まあまあ、ふたりとも。ちゃんとひとつずつお話しますから!」
風花とマーシャのその質問に、アイリスが少し苦笑い気味にそう言って。
「それで、フィーリア様という方が同伴してくださって――」
向こうで会ったという、令嬢の話をしたり。
「えっ、なに? じゃあ浩一とそのフィーリアさんって人が親密になってたってこと?」
「ええ。アルバーマから帰る前にも、なにやらコーイチ様とふたりきりで話していらっしゃいましたね。まあ、あのタイミングでは鉄道関連の窓口を担当されることが確定したときなので、その話かもしれませんが」
「……それなら、私も今度会うことになるかとしれないのね。いちおう、ちゃんと名前を覚えておきましょうか」
なにやら新たな女の影になりそうだとか、ならなさそうだとか。そんな予感を感じたり。
「そうするしかないということは理解はできるんですけれども。でも、二度とあんなことはして欲しくないですわね……」
「浩一には後で一回説教しておこうか。自分の身は大切にしろって」
「あー、その体勢から撃ったから、余計に照準がブレたのか。まあ、それはそれとして魔法銃の命中精度については向上させる必要はありそうだけど」
賊に襲撃されたときの話をしたり、と。
楽しいお茶会の場は、アップルパイが無くなるまで続いた。
つまるところが、3人でワンホールを食べたわけだけども。
……摂取したカロリーについては、考えないことにした。