#47
「メートル、原器ですの?」
なんだそれは、というような表情でアイリスが首を傾げる。
「メートル原器――原器は、度量衡を測る上での統一の基準となるものだ」
メートル原器であれば、長さ。つまるところが、メートル原器の両端についているメモリの間長さがすなわち、そのまま1mの基準を示すということになる。
地球上でも、当初メートル法の基準を作るために確定メートル原器が作られ。その後、国際的な基準や各国の基準を作るために、確定メートル原器を元にメートル原器が作られた。
そうしたメートル原器は1960年までの間、世界の共通の長さを与える基準として存在し続けていた。
「もちろん、ここで作り上げるのは擬似メートル原器。正直なところ、メートル原器もどきでしかないけど」
計量できる長さが正確でない、という理由ではない。そもそも作り上げるのが擬似メートル法であり、やりたいことが統一の長さを作りたいというだけなので、そこは然程問題ではない。
今回問題になってきているのは、どちらかというと製作にかかる課題の方だった。
「メートル原器は、長さの基準となる物質である以上、その大きさが変わることは望ましくない」
「それは、まあ、そのとおりですわね」
当然だろう、と。首を縦に振るアイリス。
そう。メートル原器は長さが変わってはいけない。だがしかし、その当たり前であってほしいこの性質を与えるのがとてつもなく厄介になる。
「ですが、物質は温度変化によって膨張や収縮を必ず引き起こしてしまう。その他にも、様々な要因によって経時劣化していきかねない」
もちろん、その程度は物質によって違いはするものの。この性質に関しては厄介極まりないと言っていい。
実際、これこそが現代に於いてメートル原器による基準が廃止された最大の要因である。
メートル原器は熱膨張を引き起こしにくく耐食性などにも優れるプラチナ90%に補強用のイリジウム10%を添加した合金によって作られているが、それでも温度変化によってほんの少しとはいえ長さが変わってきてしまう。物質である以上、頑丈に作っていたとしても時間が経つごとに少しずつ劣化が起こりかねない。
そういった理由から、メートル原器は廃止された、最初はクリプトン元素の波長を元に。そして現代に於いては他の物理量との兼ね合いを良くするという目的もあって、光速を基準として制定され直した。
「ただ、俺たちではクリプトン元素のスペクトル光の観測も、光速の計測も、まあ不可能だ」
「……そんなのができてたら、もっと違う段階に進めてるでしょうね」
浩一が言った言葉に、風花が呆れたようにそう返した。
「だが、正直なところ。プラチナとイリジウムの確保ができるかと言われると難しいと言う他ないだろう。一応聞いておきたいんだけど、アイリ。今のふたつの金属の名前に心当たりは?」
「まーったくありませんわ!」
だよなあ、と。浩一が苦笑いしながらそう返す。
この国の金属事情については、アルバーマにいく前に軽く調べていたので、その際に資料に名前がなかったために多分そうなのだろう、と。
採掘されていないのか、それとも採掘はされているものの、貴金属であると判断されていないのか。
どちらにせよ、このふたつについては無いものだと判断しておくほうがいいだろう。今から、プラチナとイリジウムを探しに行くだなんてことをすれば、はたして生涯で足りるかどうか。
「なので、この際、ほんの少しの誤差については目をつむる。もとより、それについては計測機器それぞれを製作する過程で起きかねない誤差だろうし」
なので、今回作る擬似メートル原器自体が大きな誤差を孕まなければそれでいい。しっかりと強度があり、熱による膨張率ができるだけ低いものであれば。
「風花、たしか入手難易度の低い金属の中で膨張率が低いものは鉄だよな?」
「そうね。いちおうニッケルやコバルトを添加した合金のほうがより膨張率は低くなるけど、でも、今言った使途なら純粋な鉄でも最低限なんとかなるとは思う」
鉄ならば、この研究棟でそれなりの加工ができる。大きいものの製作はできないが、一方で精密な作業という意味合いでは、マーシャがいる分、強みとなり得る。
耐食性については別途対策は必要だけど、メートル原器として利用する前提なら、十分加工が間に合うレベルではあるはずだ。
「それじゃあ、一応各方面に確認と連絡をしてからにはなるけど。マーシャ、準備をしてもらっておいていいか?」
浩一のその言葉に、彼女は元気よく返事をする。
流石に単位の制定となると、行動の規模としてが大きすぎる。さすがにアレキサンダーに話を通しておくべきだろうし。これらを確実に使うことになるであろう、アルバーマの面々にも伝えておく必要があるだろう。
「アルバーマに、ということはフィーリアさんに連絡する必要があるのか。アイリス様、連絡手段って」
「直接行くか、手紙のどちらかになりますわね」
少しだけ、スマホが恋しくなる。いや、この際スマホではなく、普通の電話機かそれに代わるなにかでいいのだけれども。まあ、無いものは仕方がない。
道理としては直接行って話をするべきなのだろうが、特に浩一が向かう場合はアイリスが必ず伴うことになるため、突然の訪問となってしまっては向こうにとっても心臓に悪いだろう。
それに、浩一もここでマーシャと一緒にメートル原器の製作に取り掛からなければいけなくなる。で、あるならば手紙で行うのが無難だろうか。
まあ、諸々の準備ができたら、その際に馬車鉄道の敷設の関係でアルバーマは急を要する測量地になるので、そのときに改めて挨拶をしよう。
「幸い、車輌の軌間をどうするか、レールの大きさをどうするのかなんかの話も、測量をしてからって話にしていたから、まだ事業は完全には動いていなかったし。偶然とはいえ、先に気づけてよかった」
それこそ、ここでの風花の気づきがなければ。誰も気づかないうちに事故が起こりうる可能性まであった。
それを思うと、本当にここで問題点に気づけて幸運であったと言える。
「それじゃあ、俺はアレキサンダー様のところに行ってくるから」
「あっ、私もお兄様のところについていきますわ!」
「それじゃ、私はおにーさんとアイリちゃんが帰ってくるまで、準備してるね」
それぞれが口々にやることを言って、その場から立ち去ろうとして。
そんなさなかに、少し、戸惑った様子で風花が、あの、と。声を出す。
「えっと、私はどうすればいいの?」
不安げなその表情、その声色に。振り返った浩一は優しく笑いかけながら。
すっと、自身の目の下をなぞってみせながら。
「安心しな。仲間はずれにするわけじゃねーよ。ただ、随分と寝てないだろ? メートルの長さを決めるときには起こしてやるから、とりあえずその隈、消してきな」
「……うん、わかった」
正直、多少の仮眠程度で帳消しになるほどの疲れではないのだけれども。しかしながら、それでもやらないよりかは十分にマシだろう。
全員が退室した部屋で、風花はゆっくりと歩いて仮眠用のベッドに腰掛けると、そのまま横になってスヤスヤと眠り始めた。
アレキサンダーには、やはりというべきか、すんなり話が通った。
必要な理由やどういう形態で導入するのか、ということもしっかり説明していたので、そういう話であればアレキサンダーは比較的キチンと取り合ってくれるので、非常にやりやすい。
変更としては一点のみ。事業規模が大きすぎるということもあって、これに関しては完全にアレキサンダーの名義で行うということだけ。
まあ、単位の制定なんていう大仰なことを一般人が行えてしまってはいろいろと乱立してしまってややこしいことになりかねないし、妥当であろう。ここは、ありがたく王家の力を借りることとする。
借り先がちょっと怖いけど、もうすでにたくさん借りてるし。……考えないことにしておく。
「それでは、お兄様の許可も得られたことですし、いよいよですわね!」
「ああ、とりあえずアルバーマへの連絡の手紙を用意して。それから、擬似メートル原器を作っていく」
そして、単位の制定が完了すれば。いよいよ、測量が本格的に始動できるだろう。
測量ができれば、次は馬車鉄道の敷設。そして、本格的な蒸気機関車の製作に取り掛かれる。
物事が、少しずつではあるけれど。たしかに進んでいる。
回りだしたそれらを、たしかに感じつつ。浩一は、力強く拳を握りしめた。