#39
視察の行程がひととおり終わり。また、浩一自身の私用についても、話をすすめるためにはアルバーマ男爵と話をしなければならない、ということで。とにかく、ひとまずはアムリスへと戻ることになった。
予定通りといえばそのとおりで。だからこそ、このまま進んでくれればいいな、と。そう願っていたのだけれども。
どうやら、そんなに都合よく事は進まないらしい。
「……アイリ、あれって」
「どうやら、こちらを狙っているみたいですわね」
箒の上で、浩一は小さな声で確認を取る。
箒の性質上、ある程度は離れて飛行しないといけないため。この距離ならば、小さな声であればフィーリアに聞かれることはないだろうと、普段通りの口調で。
とは言え、この口調に戻したのはどちらかというと、スムーズに話を進めるため。いつもの如く、彼女から口調についてを窘められるというやり取り自体が、少々危険に感じたからだ。
その原因は、浩一たちのずっと後方。そこに、隊を成して飛んでいる数本の箒。
これが、エルストからの送迎の箒なんかであれば問題はないのだが。どうやら、上に乗っている人たちはそういう意思はないらしい。
むしろ、どちらかといえば敵意に近しいそれを孕んでいることが、遠巻きからでも判断できる。
なにせ、弓であるとか槍であるとかの武器を持っているのが、わかる。
「質問なんだけどさ、逃げ切れる?」
「私だけならば。あるいは、私とコーイチ様のふたりで、であれば逃げ切れます」
アレキサンダーから聞いているとおり、箒の練度という意味合いであれば、アイリスの右に出る人間はそうはいない。テクニック、スピード、耐荷重。あらゆる面で一線級である彼女であれば、同乗者を載せた状態であっても、十分以上の速度で逃げることができる。
だがしかし、フィーリアの実力が不明。少なくとも、特段秀でているというような話は聞いていない。
この状態からでも爆速で逃げることができるアイリスと比べれば、速度で劣るのは確実。そうなれば、あの集団――おそらくは、視察に即して王女と貴族令嬢が箒で移動している、ということを聞きつけた賊であろう人間たちの狙いは、フィーリアに移るだろう。
そこからフィーリアが逃げ切れるのであれば問題ないが、万が一にも彼女が捕まるようなことがあってはならない。
まあ、護衛がいないこの状態が、正直イレギュラーすぎるということもあるのだが。しかし、賊からしてみれば、格好の獲物であることには間違いないだろう。
「……状況を整理しよう。確実にやらなければいけないことは、アイリとフィーリアさんの離脱。努力目標は賊の撃滅と、あとは俺の離脱だな」
「コーイチ様の離脱も必須項目ですわよ!?」
「いいや、この場面では努力目標だ。命に優劣はないというのは、まあ筋の通った綺麗事だが。しかし、それでも優先されるべき順序というものは確実にある」
この場に於いて、最も優先されるべきなのは王女たるアイリスだ。むしろ、なにかがあっては絶対にならないし、なにかが起こるその前に、なにがなんでも逃がす必要性がある。
彼女としては価値を等しく扱いたい、という気持ちはあるのだろうが。しかし、ここで浩一とフィーリアが逃げ切れて、アイリスだけが捕まったということがあった場合には、二人ともの首が飛びかねないし、さらにはアルバーマ男爵についても、同じくなりかねない。
同様に、フィーリアについてもだ。こちらの場合はさすがにアイリスの首が飛ぶということはないだろうが。しかし、目の前に貴族令嬢がいるというその場面に於いて、なにも援助をせずに逃げてきた、ともなれば。いくらなんでも体裁が悪くなる。
その点、浩一はただの平民である。いちおうアレキサンダーの付き人という立場があるために、普通の平民と比べれば実際問題としてはそれなりに好い待遇にはなっているものの。しかしながら、平民という現状にはなんら代わりはない。
この中で唯一、万が一があっても世間にはなんら問題がない。あったとしても、正直些末なところでとどまる存在ではあった。
「それに、奴らの目的がなんなのかはわからないが。それがなににしたって、少なくとも王女と貴族令嬢を狙っている、というその時点で、ただの暴力を振るいたいとか、そういう目的でないのはわかる」
ということは、富や権力のある相手か。あるいは見目の良い女性を狙いたいか。そういう云々が目的という推測ができる。
その、どちらであったとしても。浩一は奴らから狙われる道理が薄くなる。
「今の俺のアイツらから見た立場とするなら、せいぜい護衛がいいところだろう。そんなやつが仮にこの場からの脱出に失敗したとして、元の目標のふたりが逃げてる。追いかけるとしたら、どっちだ?」
「それは! ……そうですけど」
先述のとおり、実際には浩一もそこそこの立場にいる人間ではあったりするのだが。なにより、顔が知れていない。その価値について知っている人間のほうが圧倒的に少ない。
無論、腹いせとしてこちらにいくらかやってくる可能性はなくはない。あるいは、抵抗をしてくる可能性を考慮して、ある程度先に潰しておく、ということも考えられる。だが、まだ目標が狙えるというのに、わざわざこちらにリソースを割くということも相手もしたくはないだろう。
更には――、
「……コーイチ様、それ、本気で言ってますの?」
「ああ。おそらく、今取れる最善手だ」
作戦の概略を、アイリスに耳打ちして。彼女は信じられない、あるいは、そんな方法で、とでも言いたげな声色でそう言う。
うまく行けば、賊の撃滅と浩一の離脱という完全勝利が見える。
失敗しても、必須項目であるアイリスとフィーリアの離脱が叶う。
失敗時には、少々こちらにも痛手が加わる可能性があるが。確実性を通すのであれば、これが最善手だろう。
「それは、そうかもしれませんが。でも、あまりにもコーイチ様が危険すぎませんか!?」
「さっきも言っただろう。この中で、一番軽い命なのが俺なんだ。……大丈夫、元より死ぬ気なんかないから」
この世界に鉄路を敷き、蒸気機関車を走らせるその時まで。どう頑張っても死んでも死にきれないだろう。
いいや、それからだって。きっと――、
「……言っても聞きそうにありませんわね」
「どこかの王女様に似たんじゃないかな。よく一緒にいるし」
「無事に帰ったら、しーっかり説教しますわよ」
自分でも、無茶なことをしている自覚はある。怖さだって、もちろんある。失敗したら、めちゃくちゃに痛いだろうし、成功したとしてもそこそこな痛みを受けることはほぼ確実だ。
けれど、やらなければならないのなら。やるしかないだろう。
大丈夫。そのための仕込みなら、既にある。
箒の操縦をアイリスに任せっきりにできる都合、浩一は、後ろを見張ることができる。
段々と距離が詰まってきたこともあり、その姿がはっきりと見える。
「フィーリアさん。落ち着いて聞いてほしいんだけど。後ろに俺たちを狙ってるやからがいる」
「……えっ」
人数は5人。うち、ふたりが弓を持っていて、残りの3人は槍を持っているらしかった。
弓に矢を番え、そして、引き絞っているのが見える。もしかしたらただの勘違いだった、で済めば一番良かったのだけれども。明らかな攻撃の意思を見せているあたり、そんな希望は打ち捨てて置かなければいけないようだった。
「フィーリアさん、箒の速度の方は?」
「ええっと、それなりには」
あまり自信はなさそうだった。追いかけっこになって、万が一を引き起こすことになってはいけないので、やはりただ逃げるだけ、というわけにはいかないらしい。
「それじゃあ、真っ直ぐ上に向かって飛んで高度を稼ぐことは?」
「それなら、できますが……えっ、それでどうするんですか?」
上空に逃げたところで、賊もそれに対して追いかけてくるだけだろう。なんの根本的な解決にもなっていない。逃げるということにのみ、焦点を置くならば。
「まあ、ちょっとしたことをするので。せーの、と言ったら。真っ直ぐ上に向かって逃げてください」
「え、いやだから、どうやって逃げ――」
「せーの!」
引き絞られた矢が放たれ、こちらに飛んでこようとしたのが見える。
浩一はフィーリアからの質問に答えることもせず、無理矢理に合図を出す。
アイリスはその場でクルリと前後を反転させ、そのまま目視からの機動で矢を躱す。
矢が、空を切って。後ろへと飛んでいく。
改めて、確認。
勝利条件は、アイリスとフィーリアの離脱。敗北条件は、いずれかの捕縛。
努力目標、賊の撃滅と浩一の離脱。
さあ、戦闘開始だ。