#36
その日の宿で。フィーリアは部屋の中でひとり、大きく息をついていた。
「……驚いた」
フィーリアは、少し前のことを思い出す。
「フィーリア。もし、アルバーマ内で――特にエルストで、だな。うん。そこでコーイチ殿がなんらか許可を求めてきた場合、お前の判断で決めていい」
アムリスから出発するその前に、父から言われていたことだった。
もちろん、フィーリアの手に余るような大きなことであったり、あるいは判断に困る場合は持ち帰ってくるようにとそう言われているものの。そんな裁量権が果たして自分に必要になるのだろうか、と。そう思っていた。
だがしかし、現実には今まさしく必要になっていた。
果たしてこれが、全て見越した上でのことなのか。それとも、もしものときにフィーリアや浩一が困らないようにと便宜を図ったものなのか、どちらなのかはわからない。
だがしかし、その判断にとてつもなく助けられており。そして、それが自分たちの抱えていた問題を解決するかもしれない、というその想定を超えた状況に。フィーリアは驚いていた。
しかし、それと同時にもう一人。自身の想像を遥かに超えてくる人物が。
「でも、コーイチさん。あの人はいったい……」
明日の話には、フィーリアも同席させてもらうことになっている。
その場でまた別途なんらかの許可が必要になるかもしれないし。それを抜きにしても、フィーリア自身、浩一の話に興味があったからだ。
「面白い人だ、と。そう聞いていましたが」
最初、ユーモアのある人だ、と。そういう意味合いだと認識していた。
だがしかし、その評価については改めなければいけなくなった。いや、ユーモアがある、という意味合いも間違っていないのだろうが。
興味深い、という意味合いでの面白い、である、と。
そうして、そのことを父は知っていた。気づいていた。
それを思い返してみると、ちょこっとだけ悔しさを感じてしまう。自分は、気づけなかった、というそのことに。
……ついでに、フィーリア自身が現在持っている裁量権のことも併せて。まだまだ背中が遠い、敵わないなぁ。と。そんなことを感じる。
「……よし。くよくよはここまで。私は、私の仕事をこなさなくっちゃ」
パンッ、と。両の手で自身の頬を軽く叩きつつ、気合を入れ直す。
フィーリアは、視察に来ている浩一たちを案内する、という仕事を行っていた。
そして、それは浩一たちにも知られていることだった。
けれど、
「もうひとつの方も、しっかりと本腰を入れていこう、かな?」
それとは別で、違う仕事を頼まれていた。ただし、これに関しては、フィーリア自身のこれからに関わってくることでもあったため、やるかやらないかは彼女自身が好きに決めていい、と言われていた。
なので、ここまでは「それなりに」のつもりで行っていた。のだが、気が変わった。
「ただ、この仕事。……ライバルが多そうなんですよね」
少なくとも、確認できる範囲で一人。……それ以外にいるかどうかは不明だけれども、正直、これほどの人なのだ。いても不思議ではない。
むむむ、と。フィーリアが悩んでいるうちに。だんだんと、夜も深く沈んでいくのだった。
「お、今日もよく来たな! コーイチくんにアイリスちゃん! それから、フィーリアちゃんも!」
「も、もう! ガストロさん! コーイチさんとアイリス様は大切なお客様なんですよ!?」
「わかってるわかってる! あっはっはっはっ!」
相変わらずの陽気さを見せるガストロに、フィーリアが青い顔をしながら抗議をするが、やはり微塵も気にしていないようではある。
まあ、それに関してはアイリス本人についても、全く気にしている様子がないので大丈夫そう、というか、むしろニコニコとしているくらいだった。
フィーリアの苦心を慮りながらも、とはいえ、浩一になにかができるわけでもなく。
昨日と同じく。ガストロの案内によって、視察が始まる。
どちらかというと、金属の質に関してを中心に見て回った昨日に比べて、今日は、実際の製品についてに重きを置きつつ訪問して回った。
もちろん、昨日もこうした工房なども訪れはしていたものの。注視するところを変えてみると、違った見え方がしてくる。
そして、やはりというべきか。一定以上の大きさのものになると、加工している様子が、ほとんど見られない。
これに関しては、浩一がフィーリアと話していたときに気づいたことではあるが。こうして改めて認識した上で見ると、それが顕著に現れている。
ふと、思い立って。……視察の目的からは少しそれるけれども。浩一はひとりの職人に話しかける。
「その、たとえばなんですけど。人の背丈の倍ほどの大きさの鉄の柱って、作れたりします? 採算とかは度外視で」
浩一が軽く想像していたものは、いわゆる鉄骨のようなもの。まあ、この説明だけではうまくは伝わっていないだろうが。ともかく、大きな金属の加工が可能かどうか、という、それが気になっていた。
浩一の質問に、彼は少し考えてから。少し苦い顔をして、
「可能か不可能かで言えば、いちおう可能かな。でも、俺たちはそういうのはあんまり得意じゃないから。太さとかにも依るけど」
腕の太さか、それより少し太いくらいなら、それなりに作れると思うけどね、と。そんなふうに返されてしまった。
まあ、これについては惜しくはあったが、想定どおり、ではあった。今まで作ってこなかったのだ。それを言われて、それじゃあ今すぐ作って、ということが、とてつもなく難しいことは理解している。
「変な質問をして、すみません。ありがとうございます」
「いやいや、大丈夫大丈夫。わかんないことがあったらすぐに聞いてね! なんせ、あのアイリスの嬢ちゃんと一緒に来たって人だろ? それも、フィーリアちゃんの案内で」
「えっ? あ、はい。そうです!」
認識のされ方に、少し違和感を覚えつつも。しかし、間違っているわけではないので、頷く。
それから、いくつか訪れた先でいろいろと話をしていたのだが。どこにいっても、どうにもアイリスの存在がフランクに捉えられていて。
浩一やアイリスがそれを聞いている分には、問題はなく。強いて言うなら、多少浩一が疑問に持つくらいなのだが。
それがたまたまフィーリアの耳に入っていたときは、彼女の顔面が真っ青になっていたので。浩一は再び、そっと目を伏せ、彼女の胃の無事を願っておいた。
そうして、ひと通りの視察を終えて。商会館の応接間へと戻ってきた。
「いやぁ、エルストはどうだったかい? コーイチくん、アイリスちゃん!」
「とっても、いいところでしたわ!」
元気よく返しているアイリスに、その隣で浩一も賛同する。
満足そうなガストロから、少し視線をずらしてみれば。この視察の中、おそらく一番、ずっと気を揉んでいたであろうフィーリアが、満身創痍といった表情をしていた。
「いろいろと、案内していただいて、ありがとうございます」
「おう、良いように報告してくれるとありがてえな! あっはっはっ!」
それはまあ、仕事なので。と、浩一は落ち着きながらにそう言って。
とはいっても、視察の報告としてはそこそこにいいものになりそうではあるのだが。
そして、浩一は軽くひとつ咳払いをしてから。
さて、と。
ここまでは、アレキサンダーの付き人としての仕事。
ここからは、浩一自身の、個人的な仕事。
「それで、ガストロさん。少し、話したいことが――」
「そいで、コーイチくん。視察のあとに話したいことがあるって聞いているんだが――」
思わぬタイミングで、浩一とガストロの声が重なる。
浩一が少し驚いていると、その隣で、グッと拳を握りしめつつ、自信満々な視線を向けてくるアイリスがいて。
そういえば、昨日話したいことがあると言ってガストロと会っていたな、と。
なるほど、そのときに話していたのか。
そうすると、今日会った人たちからアイリスが尋常じゃないほど受け入れられていたのも、そういう都合か。
……まあ、それにしてはあまりにも受け入れられすぎている気もしなくはないけれど。そのあたりについては、なんとなく、察するものがある。
浩一が今までアイリスと過ごしてきて感じたことのひとつであるのだけれど。アイリスはとてつもなく、人から好かれる才がある。
それは、ただ単に愛嬌があるとか、そういうわけではなく。それこそ、彼女の行動と、対応による賜物だった。
……あとになって知ったことであるが。昨日、ガストロに会いに行ったあと、実際に工房などで作業を手伝わせてもらったのだという。
王女という立場の人間がなにをやっているんだ、と。そう思わなくもないが、それ自体が彼女の武器でもあった。
実際に、間近で関わり合い、そして、話し。感覚を共有することによって、理解を深め。そして、信用を勝ち取る。
アレキサンダーのような、裏の工作によってうまくことを運ぶ、というようなことは苦手だけれども。真正面からぶつかって、味方を増やす、ということについてはとてつもなく長けている。
ついでに、今回については彼女自身のフィジカルの高さもあって、初めてながらにかなりの素養を見せたらしく。そういったこともあり、一晩のうちに「アイリスという、すごい嬢ちゃんが訪れている」という話がエルスト中に広まったのだという。
「……なるほど。エルストに来たときに言っていたことは、これか」
必ず、役に立ってみせる、と。そんなアイリスの言葉を思い出した。実際、浩一としては誤算ではあるものの、とてつもなく助かっている。
なにせ、既にある一定量の信用を勝ち取った状態で話を始めることができるのだ。そんなありがたいことはない。
そういえば、王都から出立するその直前に、アイリスが浩一の同行者として選ばれたのは、護衛や移動役。そして教養があることの他にも理由があると言っていたが。もしもそれがこのことなら、あの王子はいったいどこまで見通しているのやら。
あるはずのなに、老獪な笑いに見つめられているような。そんな奇妙な感覚に包まれながら。しかし、とてつもなく心強く、感じる。
ここまで、アイリスとアレキサンダーにお膳立てしてもらったのだ。必ず、やり通さなければならない。
大きく息を吸って、吐いて。一度、心を落ち着けてから。
ガストロに面を向けて、話す。
「これに関しては、私的な事柄にはなるんですけれど――」
アイリス、フィーリア。そして、ガストロから、視線が向けられる。
怖くないと言えば、嘘になる。注目を浴びながらに話すのは、どうにも慣れない。
けれど、ここで留まるわけにはいかないから。
「作ってもらいたいものがあって。それについての、話をさせていただいてもいいでしょうか」
車輪を前に、進めるために。