#32
その日は、大まかな予定はほぼ予定通りに進行して。そのまま農業地帯に構えてある宿屋にて泊まることになった。
「……大まかには、事前の情報通り。ただ、想定していたよりも、しっかりと整備されている」
手持ちの資料と見比べながら、アレキサンダーに提出するための報告書をまとめつつ、そんなことをひとりつぶやく。
とはいえ、浩一はまだこの国の文字に慣れていないため、一旦は日本語で。後ほど、アイリスやマーシャなんかに手伝ってもらいながら、翻訳して清書、という形を取らざるを得ないのだが。
「いよいよ、明日はエルスト……鉱山帯の方へ行くんだよな」
今回、浩一がこのアルバーマへと視察に来ることになったその一因。そして、浩一が指揮している鉄道事業を進めていく上で、必ず工面しなければいけなくなるコネクション。
鉄道は、どうあがいても金属産業とは関わることになる。
機関車や客車などの艤装や動輪はもちろんのこと。車両が走ることになる鉄路を組み上げるレールそのものも鉄から作ることになる。当然ながら、要求される規模は莫大だ。
だからこそ、お互いにとって好ましい話ができるといいのだけれども。
「そういえば、困ったな。どうしようか」
今となっては遅い、という話なのだけれども。アルバーマ男爵に最低限話を通すのを忘れていた。
……正確には、浩一自身も知らなかったアルコールへの耐性の低さなどと相まって、機会の工面ができなかったということもあるが。
併せて、この場にアルバーマ男爵がいないということを想定していなかったという、浩一の判断ミスなどもあった。
元々の浩一の考えとしては、アルバーマの製鉄等の質を見てからある程度判断したい、という思惑もあったのだけれども。それが完全に裏目に出た。
(……うん、やっぱり俺に酒の類はよろしくないらしい。あのとき、フィーリアさんが同伴すると聞いた時点でアルバーマ男爵に話しに行くべきだった)
自身の失念を今更後悔しながら、しかし過ぎたことはどうにもならないと切り替える。
フィーリアさんにどれほどの裁量権があるのかはわからない、というか、さすがにほとんどないだろうが。しかし、なにも事前に話を通さないよりかはマシだろう。
ひとまず、明日の視察を行って、その後にフィーリアさんに確認。許可が出たら、視察云々を抜きにした、個人の話をさせてもらおう。
それがダメそうなときは、少々遠回りな行程にはなってしまうが、視察をひと通り終えた後にアルバーマ男爵に直接許可を貰ってから再び訪れることにしよう。
とりあえず、明日のことを大まかにまとめた頃合いに。コンコンコン、とドアがノックされる音がする。
フィーリアさんだろうか。そうだとしたら、おそらく明日の行程の再確認だろう。ちょうど、こちらもそのことを考えていたところなので都合がいい。
そんなことを考えながらに浩一がドアを開くと、
「どうしました、フィーリ――」
「こんばんは、コーイチ様!」
「アイリスさ……いや、アイリ。どうしたんだ?」
想定外……だったわけではないが、予想と外れた人物の登場に、浩一は少したじろぐ。
アイリスは「少し遊びに来ましたの」と、そう言いながら、フフッと笑って。
「まあ、半分冗談なんですけれど」
「……半分は本気なのかよ」
まるで我が物顔のようにしながらベッドに腰かけて、そうして彼女はいたずらっぽく、かわいらしく、少し舌を出して見せる。
そんな彼女に、浩一は小さくため息をついて。
まあ、訪ねてきた理由はともかくとして。アイリスの無邪気な態度を見て、浩一はホッと一息をつく。
今日の昼間のことを考えると、随分と機嫌を直してくれたようだった。それこそ、ずっと針で刺されているのではないだろうかと思うような視線を投げかけられていた人間としては。
「けれど、コーイチ様。どうして最初、フィーリア様だと思ったんです?」
「えっ? ああ、それは昨日もこうして彼女が訪ねてきたからで」
あと、アイリスならばノックなどせずにいきなり開けてくると思ったから、ということもある。……が、まさかそんなことを言えるわけもなく。浩一は言葉を飲み込む。
冷静になって考えてみれば、少なくとも廊下にいる間の彼女は公の場での、しっかりとした立ち居振る舞いのアイリスなので、今回の状況が正しくはあるのだけれども。
だがしかし、なぜかアイリスの表情が少し曇る。まさか言葉に出していないはずなのに、表情にでも出ていたのだろうか、と。浩一そんなことを思っていると。
アイリスは、ふん、と。そう鼻を鳴らしながら。
「……それなら、今夜は私が独占しますの」
そんな、小さな嫉妬心を見せる。
あまりに小さなその心は、言葉として浩一の耳に届くよりも先に消えて。
今、なにか言ったか? と、そう尋ねる彼に。アイリスはなんでもありませんわ、と。そう答えた。
「それよりも、本題ですの! 明日、予定ではエルストに行くはずですよね?」
「ああ、そうなるな」
「そこで、視察をしたあとにコーイチ様としては、鉄道事業関連の交渉をしたい、と」
アイリスの言葉に、浩一はコクリと頷く。
正確には、ある程度産業の状態を確認しておきたいとか、浩一の判断ミスによりうまくことが進むか微妙になったとか、そういう事情はありはするものの。とはいえ、大まかな考えとしてはなんら間違ってはいない。
「それなら! ぜひ、私にその――」
アイリスが、なにかそう言おうとしたとき。
コンコンコン、と。再びノックの音がする。
どこか既視感のあるその光景に、ピシャリと時間が止まったかのようにアイリスが固まってしまう。
「あの、えっと……」
浩一は、アイリスに対してラフな言葉遣いで接してはいるが、あくまでこれはアイリスからそうするように言われたからという事情があって、正しく関係を整理するならば平民と王女。
来客があったからといって、なにも確認を取らず、彼女の話を遮ってそちらに応対しにいくというのはよろしくないため。彼女の許可を得ようとしたのだが。
どうにも、半分放心状態という様子で、反応がない。
……ついでに、来客の方も浩一の予想が正しいならばそう長く待たせることはとてつもなく好ましくない相手であるわけで。
仕方ないか、と。そう割り切り、浩一は中座する。
「すみません、お待たせしました、フィーリアさん」
「いえ、大丈夫で――あら、アイリス様もいらっしゃったんですね」
「……え、ええ。明日のことでコーイチ様と話しておきたいことがあったので」
はっ、と。なんとか我を取り戻したらしいアイリスが、少々慌てこそ見えるものの、そう対応する。
ついでに。さっきまで座っていたベッドから、いつの間にか隣にあったイスへと移動していた。
とりあえず、アイリスの体裁は気にしなくても大丈夫そうだ、と。そう判断した浩一はフィーリアの方に向き直り、話を再開しようとして。
(……って、なんでだ!? さっきまで機嫌直ってたんじゃなかったのか?)
チクチクと刺してくる、背後からの視線。当然、その主は自分の背後にいる王女様なわけで。
はたして先程までの自分の判断が間違っていたのか、或いは、今のこの一瞬で彼女の機嫌を損ねてしまうなんらかがあったのか。
いったいそのどちらなんだ、と。そんなことに混乱しつつも。
両脇の女性ふたりが、そんな浩一の事情など、踏まえてくれるわけもなく。
「コーイチさん」
「コーイチ様?」
浩一にとって、長く、そして難しい夜が始まろうとしていた。