#30
浩一は、まだ若干痛む頭を抑えながらに、無理矢理に考えを回す。
ひとまず、確実なことから状況を整理しよう、と。
知らない女性が、浩一の部屋へと訪ねに来ている。
なるほど、なにもわからない。さっぱり、微塵も。
「ええっと、その……?」
浩一の戸惑い気味なその言葉に、女性はポンと手をひとつ打つと、ああ、そうでした、と。
「お初にお目にかかります、コーイチさん。私、フィーリア、という者です。どうぞよろしくお願いします」
「ああ、えっと。浩一、です。よろしくお願いします……?」
どうやら初対面、というその認識で間違っていなかったらしい。少しだけ、安心する。
「それで、その。フィーリア、さん? は、どうしてこの部屋に?」
「それはもちろん、コーイチさんに挨拶してくるように、と。父、エクトルから言いつけられましたので」
曰く、本来ならば今日の夕餉の際に一緒に顔合わせをしようかという予定だったらしいが、浩一の誰も予想だにしなかった下戸っぷりにより、ひとまずその場は流れたのだという。
それを聞くと、どうやら予めあった予定が自分自身が理由で流れてしまったらしい。少し、申し訳なく思う。
「それで、コーイチさん。お加減の方は大丈夫でしょうか?」
「えっ? ……ああ、それなら、いくらかは。もちろん、快復とまではいきませんが」
正直なところでいうと、まだあまり快復はしていないのだけれども。まあ、ぶっ倒れる寸前までいっていたことを加味するならば、相対的には良くなっているだろう。
まだ頭が痛んで、考えもどこかうまく纏まっていないが。
「酒精にはお水を、と聞きます。……あいにく私はまだ口にしたことがないのでどれほど効果的かはわかりませんが」
そう言いながら、フィーリアはコップに水を注いでくれる。
浩一はありがたくそれを受け取ると、ゆっくりとあおる。
特別冷たいというわけではないものの、やや熱を帯びていた身体が冷えて、ちょうど気持ちよく感ぜられた。
慣れない上に弱いことが判明した浩一としては、アルコールの影響もあってか、こうして世話を手伝ってくれるのは少々恥ずかしくもあるがありがたい話ではあった。事実、かなり助かっている。
しかし、改めてこのフィーリアという人物、どういう立場の人なのだろうか、と。ふと、そんなことが頭によぎった。
この場にいるのだからアルバーマ家に関連する人物なのは間違いないのだろう。しかし、最初はこうして手伝いに来てくれているあたり給仕であるとか、そういう立場なのかと思ったが、それにしては服装が華美に見える。
有り体に言えば、侍女が着るには見えない、ドレスを着用している。
(そういえば、さっき、言いつけられて挨拶に来た、と言っていたよな……)
ここまでの事柄について、水を飲み込みながら少しずつ振り返り、解釈していく。
たしか、彼女の父から言いつけられた、と言っていた。たしかその名前も言っていた。エクトル、と。
随分と最近に聞いたような気がする。どこでだ? 忘れてはいけないような、そういう場面で。
ああ、そうだ。たしかあれは――、
「すみませんでしたぁッ!」
自分自身の今の現状、もとい、浩一が現在やらかしてしまっている事柄についての理解が追いついた彼は、流れるように、そして勢いよくその場に土下座した。
その衝撃もあってか、あるいは飲んだ水のおかげか。すっかり酔いは吹き飛んで。その代わりにとてつもない焦りと後悔とが湧き上がってきていた。
父の名がエクトル――エクトル・アルバーマ。
忘れるはずもない、この館の主、どころかこの地方の領主の名前だ。
つまるところがその娘である彼女の前は、フィーリア・アルバーマなわけで。れっきとした貴族令嬢というわけである。
浩一の行動を不思議そうな表情でしばらく見つめていたフィーリアだったが、ふふっと小さく笑って、大丈夫ですよ、と。
そういえば、以前同じようにアレキサンダーやアイリスに謝った際に、この国には土下座という文化がないのだと言われたことを思い出す。とはいえ、反射で出てしまったものは仕方がないし、過程や手段はともあれ、謝意は伝わったようなので問題ないだろう。
「お父様から興味深い人物だと伺っていましたが、噂に違わぬご様子で」
「は、はは。……なんというか、期待に添えたようでよかった、です」
おそらくそういう意味合いでアルバーマ男爵、もといアレキサンダーは言っていないだろうが。だがしかし、それでフィーリアが満足そうにしているので、それでいいだろう。……ということにしておく。
実際、第一印象としては決して悪いものではなくなっただろう。変な勘違いが起こっていそうではあるが。
「ええっと、それで。フィーリアさ……まはどういった用件で」
「わざわざそんな畏まらなくても大丈夫ですよ。なんなら、フィーリア、と」
いたずらっぽく笑って見せながら、フィーリアはそう言ってくる。
だがしかし、じゃあわかりましたとその言葉に従うわけにはいかない。フィーリアは紛うことなき貴族令嬢、浩一はただの一般人。いちおう今はアレキサンダーの代理できているという立場はありはするものの、むしろだからこそ下手な行動をするわけにはいかない。
なぜか愛称で呼ぶように強制されているアイリスのほうがどちらかというとイレギュラーなわけで。そんな彼女も、いちおうは他の人がいない場面でしか強要していないあたり、当たり前だが王族や貴族と馴れ馴れしく接するのは一般的ではない。
「でも、様付けだと少し距離を感じてしまうような。……そうだ、せめて、さん、にしておきませんか? ほら、もうすでに一度呼んでいることですし」
「ええ、しかし……」
「コーイチさんにも立場があるのはわかってます。だから、他に人がいないときだけでもいいですから」
どこぞの王女様にも言われたような言い回しをされる。
この手のやり取りにあまりいい印象がないというか、そのうちにいつの間にか要求がエスカレードしそうというか、そんな予感を感じてしまう。……まあ、主にというか、ほぼ全てアイリスが原因なのだが。
しかし、フィーリアの言うとおり、敬称が距離を感じさせてしまうというのもあながち間違いでもないように感じる浩一もいて。実際、アイリスとの異様な距離の近さを鑑みると……まあ、これに関してはアイリス自身の性格や行動なども関わっているだろうが。
とはいえ、アルバーマ男爵、そしてフィーリアといい関係を築いていくこと自体は浩一にとっても望ましいことであって。
「……では、フィーリアさん、と」
「はい!」
嬉しそうにそう返事をしてみせるフィーリアに。
浩一な、なんだかこういうことになることが多いなあ、と。自分の行動に、若干の呆れを感じながら、小さく息をついた。
「ちなみに、用件は先程も言ったように、挨拶に来たのです」
フィーリアがそう言って。……そういえば、そんなことを言っていたな、と。
それに今更気づいているあたり、やはりさっきの浩一は頭が回っていなかったのだと、そう確信する。
「明日から、よろしくお願いしますね。コーイチさん」
「はい、こちらこそよろしくお願いしま……明日から?」
「ええ! 明日からの視察。私が同行致しますから!」
聞いていない、初耳だ。
いや、もしかしたら夕餉の際に聞かされていたかもしれないが、そのときの浩一は聞いていられる状況ではなかった。
とはいえ、アルバーマ家の関係者が立ち会うのは普通だろうし、その担当がフィーリアだったというわけで。
そういう意味ではなんら問題はない。
……ない、はずなのだけれども。
(なんというか、絶妙に嫌な予感がする……)
この心配が、杞憂で済めばいいのだが。