#29
「お初にお目にかかります、アルバーマ男爵。今回、視察を担当します、北野 浩一という者です」
「アイリス・ヴィンヘルムです。どうかよろしくお願いします」
応接室に通され、浩一とアイリスは館――もとい領地の主であるアルバーマ男爵へと挨拶をする。
待っていてくれたのは、壮年の男性。やや少し白んでいる黒髪、丁寧に整えられた髭。不思議な感覚ではあるが、優しさと威厳とが共存している、というような印象を浩一は受ける。
アルバーマ男爵は少し目を丸くしてから、しかしコホンとひとつ咳払いをしてからすぐに平静を取り戻すと、
「アレキサンダー殿下からは面白い人物を送ると言われていましたが、まさかアイリス殿下だとは」
低く、しかしながら柔らかな声で、そう告げられる。
アルバーマ男爵の驚きも当然だろう。なにせ、まさか視察に王族が来るだなんて思っても見ないわけで。
だがしかし、彼から見えている今の状況と、実際の状況は少し違う。
「いえ、今回の視察の主体は私ではありません」
運輸ギルドでアイリスが見せたような丁寧な所作、言葉遣いでアイリスはそう訂正する。
その言葉に、アルバーマ男爵は驚きと。そしてなにより、興味の声色を漏らす。
「ほう。では、今回の視察を主に行うのは」
「はい。私になります」
アルバーマ男爵から向けられた視線に、浩一はコクリと頷いて。
改めて姿勢を正してから、礼をする。
「挨拶が遅れた。私はエクトル・アルバーマだ。よろしく頼む、コーイチ殿」
差し出された手を、浩一は握り返す。これでよかった、んだよな? と、握手をしながらに考えているが、アルバーマ男爵も特になにかを言うでもなく笑顔のままなので大丈夫……なのだろう。
正直、こんな緊張する場面は初めてな浩一としてはガッチガチに身体が固まってしまいそうなものだったが。曲がりなりにも体裁上はアレキサンダーの代理としてきているわけで。彼の顔に泥を塗るわけにもいかず、なんとか失礼のないようにと身体を動かす。
「コーイチ殿には到着してすぐで申し訳ないのだが、早速今回の視察に関しての行程の確認をしても大丈夫だろうか」
「はい、もちろんです」
アルバーマ男爵に着席を促され、アイリスと並ぶようにして浩一はソファに座る。
対面する位置にアルバーマ男爵が座って。同時、彼からは行程表を手渡される。
もちろん書かれている言語はヴィンヘルム王国のものなので浩一からするとパッと見では内容がわからないのだが。それでもここまで頑張って勉強してきた成果もあってか、最低限、ある程度は読み取れる。
細かな用語などでわからないものはありはするものの、アルバーマ男爵が言葉による説明を交えながらに行程の説明をしてくれていること。また、いざとなったときにはなんとなくを察してくれたアイリスがそれとなく会話に混じるようにしてアシストしてくれたために、行程の擦り合わせ自体は問題なく行うことができた。
大まかには、アルバーマ領内の主要な地域の訪問と、各種収支等の報告――といっても、この報告に関してはこの後でアルバーマ男爵から書類として受け取ることができるとのことで、実際の移動内容としてはほぼ現地への訪問とのことだった。
現地訪問。その行き先の中に、どうやらしっかりと金属産業を主体としている地域があることを確認する。
もちろん、浩一はアレキサンダーから頼まれた仕事なので、この行程の有無に関わらずしっかりと仕事は行うつもりではあったが。それはそれとして、しっかりと自分自身の目的を果たせそうということで少し安心をする。
「どうかしましたかな?」
「あっ、いえ。特になにかってわけでは」
浩一がジッと行程表を確認していたこともあってか、それを不思議に思ったアルバーマ男爵がずいっと身を乗り出してきて、浩一の様子を伺ってきた。
彼はそのまま浩一の視線の先にあったものを確認して、なるほど、と。
「エルスト、ですね。鉱山業、及び金属産業を中心に発展している街です」
浩一が拙いなりに読んでいた内容と大きく違わないようで安心した。街の名前の発音まではわからなかったが、内容についてはしっかり読めていたようだ。
「殿下から金属産業あたりの視察を多めに、という要望があったので。……まあ、そうでなくとも私どもの地域の主産業ではあるので、どのみち行程表には入れる予定でしたが」
そのため、他のところより少し多めに予定を取っている、と。アルバーマ男爵はそう告げた。
どうやら、ある程度はアレキサンダーが口添えをしてくれていたようだった。
アルバーマ男爵は、顎にそっと指を添えながら、じっとなにかを考え込む。
そのまま、浩一の顔やら身体を一度目に通してから、ふむ、なるほど、と。
「……あの、なにか身体についてたりしました?」
「ああ、不躾な真似でしたな。気を悪くされたならすまない。ただ、少し考え事をしていましてね」
浩一のその質問に、アルバーマ男爵はぱっと表情を柔らかにすると、鷹揚に笑いながら、
「殿下から、君がアルバーマに来るのは初めてだと聞いているのでね。仕事だという建前があるのはわかっているが、その上で楽しんでいってくれると嬉しい」
「そう、ですね。ぜひとも、そうさせて貰おうかと思います」
本格的な視察は明日から。時刻としてもいい時間ということもあり、そのまま夕餉を頂いて。
アルバーマ男爵から貸していただいた客室の、そのベッドに身体を預ける。
その様子を客観的に表現するなら、ばたんきゅー、といったところだろうか。
「俺に酒がダメだということが、今回ハッキリわかった」
まだ少し歪んでいる平衡感覚に、若干の気持ち悪さを感じながら。
酒が飲める年齢ではあったものの、これまでそういう機会もなく。ついでにわざわざ自分で買って飲むかというと、その金で別のもの――模型なんかを買うなあ、という当人の性格なども相まって、アルコールの類を身体に入れたことはなかった。
曰く、この近辺の特産品のひとつということで。そういえば飲んだことなかったなあ、などと浩一は思いながら、ならば試しにと口をつけてみたら、これである。
「……まあ、飲みすぎて毒になることはあれど飲まずに毒になることがあるものでもないし。うん、そういうことにしておこう」
半ば自分自身に納得させるかのようなそんな解釈ではあったが。……まあ、浩一自身、どこかちょっとした悔しさのようなものがあったのだろう。
なにに負けたわけではないのだが、なにかよくわからない悔しさが。
「そういえば、アルバーマ男爵……か」
印象としては、物腰の柔らかな男性、というところだろう。
全体としては優しさなどがよく見えるし、もちろんそこには、立場上などのなにがしなども関わってきているのだろうが。
「だが、アレはなにかを考えてる人間の目だよなあ……」
昼間、視察に関しての説明や予定の擦り合わせをしているとき。アルバーマ男爵からの視線を思い出しながら、そんなことをつぶやく。
なにか自分たちに利益のあることがあるのなら、というような。そんな意志が、優しい男性という仮面の奥に見えたような気がする。
まあ、彼は貴族なわけで。つまるところが領地を守る責務がある。そう考えると、アルバーマ男爵のその意図自体は当然といえば当然だ。
「とはいえ、納得がいくかと、それに慣れるかというのは話しが別なんだけどな」
貴族同士の腹の探り合いとでも言おうか。そういったやり取りが、浩一からしてみればなんともやりにくい。
はっきり言ってくれ、と。そう言いたくなるところではあるが、まあ、そういうわけにもいかないのだろう。
とはいえ、浩一自身、アルバーマ男爵と実際に会ってみて、彼の優秀さについてよくわかった。
それこそ、少しでも気を緩めればあっという間に丸め込まれてしまいそうな、そんな雰囲気をどこか伴っている。
ある意味では恐ろしいが、その一方でとてつもなく頼りになるというのも事実で。
「そういう意味では、ありがたいとも言え――」
コンコンコン、と。扉がノックされる。
わざわざこんな時間に訪れるなんて、と。そう一瞬思いながらも、その心当たりを思いついて。
返事をしつつ、まだ少し覚束ない足で立ち上がると、扉へと向かう。
「はい、どうかしましたか、アイ――」
アイリ、と。そう言いかけてそこでピシャリと固まってしまう。
思っていた人物と、違う。
女性ではあった。でも、見知った顔じゃなくて。……って、じゃあ、誰?