#2
数日前。たしかアレは、俺がこのハチロクのNゲージを買った帰りだった。
パアアアンッ! 堤防沿いを対向から高速で走ってくるトラックのクラクションに、俺は思わず怯んでしまう。
夜中、なぜか歩道に乗り上げながら爆走しているトラックは減速する様子を見せず、なんならむしろ加速しているようにも見える。
しかし、直後に理解する。このままでは、死んでしまう。当たり前だがトラックの方が圧倒的に速い。後ろに逃げてもすぐに追いつかれて終わりだ。
サッと横を見る。転落防止用の柵。その先にはそこそこの傾斜の坂道があり、川がある。
柵の高さは腰ほどであり、なんとか乗り越えられそうではある。
「くっそ、背に腹は変えられねえっ!」
決死の思いで、俺は柵を乗り越える。
なんとか足で踏ん張って体勢を保とうとするものの、ただでさえ暗い上に、坂道、足場も悪いとなってはまともに立てるわけもなく。足を取られてしまってそのまま転んでしまう。
「痛っ……」
なんとか、暴走トラックからは逃げ出すことはできたものの、全身を打ち身しながら坂を転げ落ちていく。
痛みをなんとか我慢しながら歯を食いしばっていたが、転げ落ちる時間が妙に長い。ここの坂、こんなにも長かっただろうか。
だがしかし、余計なことを気にしている余裕など正直ありもせず、必死に痛みに耐え忍んでいると。
しばらくして、やっと止まった。
乱れた呼吸を整えながら、ゆっくりと身体を起こす。
身体は、うん、かなり痛むが、動けないほどではない。
が、軽く見える範囲で見回してみたが、実際の怪我はかなり擦りむいているし、血が出ているところもある。
こうして冷静に判断できているのは、おそらくアドレナリンなどが出ている影響で痛みが誤魔化されているからだろう。傷口などを見ると本当の痛みが浮かんできそうで、さっと目を離す。
「……って。金額が高いは高いがただの模型なんだし、こういうときは捨てろよな」
ハハッと、自嘲するようにしながら、転ぶ際に反射的に抱え込んでいたNゲージを見る。箱が少し潰れているものの、大きく凹んでいたりしているわけではないので、おそらく無事である。
「さて、なにはともあれ周囲の確認をしないと。……痛みが復活する前になんとか家に帰りたいし」
ポケットからスマホを取り出す。画面が割れてこそいるものの、こちらも機能はするようだ。
電源をつけ、ライトを起動――しようとしたとき、その画面に違和感を感じる。
「うん? ……圏外?」
アンテナマークが立っていないとかいうレベルではない。長いトンネルとか山奥とかに入り込んだときに起こる、通信が行われていないときのマークが表示されている。
決して地元が都会だとは言わないが、それなりの郊外ではある。ましてや屋外で多少電波が悪くなる程度こそあれど、圏外になる場所など聞いたこともない。
違和感を感じながらもひとまずは周囲の確認。気を取り直してスマホのライトを起動して、周囲を確認――、
「あれ、ここってこんなに木が生えてたっけ?」
まるで森や林といった様相の周囲に首を傾げながら、俺は周囲の確認を続ける。
……前も木、後ろも木。右も左も、木。というか、俺の転げ落ちてきた坂も見当たらない。
そもそも、思い出してみればあの坂の下は河川敷。多少木が生えていることはあれど、こんなに群生している場所はない。
「じゃあ、ここはどこだ――」
「あっ、本当にいましたわ!」
突然声がした。
その方向にバッと顔を向ける。……少し身体が痛むが、今はそれくらいどうだっていい。
女の子だ。綺麗、というか華美なドレスに身を包んだ、金髪の女性。年齢は、俺よりも少し下くらいだろうか。
たしかにかわいらしくて、そして綺麗な女性。だが、しかし。俺の口を突いて出てきたのは「かわいい」でも「綺麗」でもなく。
「なんで箒が空飛んでるんだよ……」
ただひたすらな困惑だった。
どういう理屈かふわふわと浮いている箒に跨った女性は、キラキラとした表情でこちらを見つめていた。
「ねえ、あなたさっきの光に包まれてた人よね!? あなたどこから来たの?」
「えっ、光……?」
興味津々という様子で質問を投げかけてくる彼女に、しかし光と言われても心当たりがない。
いや、唯一あるにしてもトラックのハイビームくらいだが、その話をされているわけではないだろう。
要領を得られず、俺がキョトンとしていると。彼女は「そうだ、忘れていましたわ!」と、慌てた様子で箒から降りて、スタッと、その場に立つ。
……おお、やっぱり箒が浮かんでやがる。どうなってるんだほんとに。
その立ち姿は彼女の見た目にふさわしいほどに凛々しく、彼女の育ちの良さを伺わせる。
そのままドレスの裾を軽く持ち上げ、礼をする。
「はじめまして。私、アイリス・ヴィンヘルムといいます。気軽にアイリ、とお呼びください」
「うぇっ!? あっ、えっと。俺は北野 浩一と言います。えっと、浩一で大丈夫です」
彼女の美しい所作に一瞬見惚れそうになりながら、慌てて立ち上がり、こちらからも自己紹介を返す。「それでは、コーイチ様とお呼びしても?」と聞かれたので、様とかは別につけなくても、と断ったのだが、そこは押し切られてしまった。
……見た目だけならとても大人しそうな人なのだが。その実さてはかなり押しの強い人だな?
彼女の人となりが少しだけ見えてきたところで、話が戻される。
「それで、アイリ、さん? でいいのかな。その、光ってなんのことです?」
俺がそう尋ねると、彼女は不思議そうな顔をしながら、首を傾げる。
「あら、気づいていなかったのですか? 先程、私が脱走……もとい散歩中に適当に箒で飛び回っていたら、この森の方から強い光が発せられまして」
それで、その光を辿ってここまで来たら、そこには俺がいた、ということらしい。
うん、やっぱり光に心当たりはない。
……というか、今さっきしれっと「脱走」とか言ってなかったか? どういう立場でどういう状況なんだこの人。
「まあ、とりあえず光のことは置いておきましょう。コーイチ様にも心当たりがないようですし」
それでは、次に聞きたいことなのですが――。アイリスがそう言って質問を続けようとした、そのとき。
「アイリス様!」
そんな声が聞こえて、ザッザッザッザッと、たくさんの人たちが集まってきた。
暗がりで少しわかりにくいが、揃った服装の彼らはそこままアイリスの周りへと並んでいく。
って、アイリス様?
「ちぇっ、思ったよりも見つかるのが早かったですわ」
「まあ、アイリのことだから。おそらく光を辿ってこっちに来てるんじゃないだろうかなと思ってね」
「あ、お兄様……」
アイリスはバツが悪そうな表情をしながら、力なく、小さく笑った。
その視線の先には声の主。アイリスと同じく金髪で、なおかつ高級そうな服装の男性。
とても落ち着いた声ではあるのだが、その裏に少しばかりの怒りが見え隠れしているのは俺にもわかる。
「さて。勝手に城を抜け出すような悪い妹にはお仕置きをしたいところなのだが。……とはいえ、少し今は状況が複雑そうだ」
お兄様と呼ばれていた彼はチラリとこちらに視線を向けると、そのまま品定めするかのように俺の姿を見て回す。
「……ふむ、君。名前は?」
「コーイチ様ですわ!」
「アイリ。君には聞いていない」
鋭くそう切り返され、アイリスはそのまま黙りこくってしまう。……アイリスもなかなかに強い人だと思ったが、この人はもっと強いな。
アイリスにしたのと同じように、俺は彼に向かって自己紹介をする。彼は「コーイチ、珍しい名前だな」と、
ふむ、と顎に指をあてがってなにか考え込んでいた彼だが。ふと、口を開く。
「そうだ。名を名乗ってもらったのだから、こちらからも名乗り返さないといけないな」
そう言って、彼は自己紹介をしてくれる。
「私はアレキサンダー・ヴィンヘルム。そこにいるアイリスの兄であり、この国の王子だ」
今、なんと?
俺の耳が腐っていなければ、なんか、王子とかそんな言葉が聞こえたような。
そういえば、さっきアイリスが城から抜け出しただとかそんな話があったような。……城?
あれ、もしかして。もしかしなくても目の前のこの方が王子なのであり、その妹がアイリスなのであれば。つまり、その肩書きは。
「アイリさんとか呼んでしまってすみませんでしたあっ!」
俺は思わず、その場で渾身の土下座を披露した。