#18
浩一は頭をぐぐっと捻って、言われた言葉を頭の中で復唱してみる。
聞き間違いでなければ「アイリと、そう呼んでください!」と。そう言われたように思える。
「あの、アイリさん?」
「アイリ、と」
どうやら聞き間違いではないらしい。耳が正常だったのは良いことなのだけれども、それ以上に問題が発生している。
アイリスの視線がジッと浩一を見つめて、逃さない、とでも言わんばかりにしっかりと捉えている。
「その、ですね? さすがに問題があると思うんですけど」
「じゃあ、私ひとりで勝手に行きますわ」
つーん、と。鼻をそっぽに向けながら、アイリスはわざとらしく冷たい態度を取る。
浩一は、なんというか見覚えのあるその光景に小さく息をつく。おそらくこれは、どうにもならないやつだ、と。
現在、浩一が彼女のことをアイリさんと呼んでいる、というか、呼ばされているその原因となったやり取り。その時と同じ雰囲気を催している。
つまりは、仮にここで引き下がったとしても彼女は絶対に諦めない。他の機会にまた同じくして取引を持ちかけてくるだろう。
というか、もはや取引以前に強引に呼ばせに来るかもしれない。
「……わかりました。でも、その前にひとつだけ聞かせてください。どうして、急にそんなことを?」
アイリスへの呼び方を変えなければいけないのが必然であるとするならば、せめてその理由だけでも、と。
浩一がそう問いかけると、アイリスにしては珍しく、口籠って煮えきらないような声を出す。
素直に言うときは言うし、誤魔化そうとするときはわかりやすく誤魔化すアイリスにしては珍しい反応だった。
「マーシャちゃんが、その、ええっと……」
「マーシャ? 彼女がなにかしたのか?」
「な、なんでもありませんの! それよりも早く呼んでみてください!」
カンテラに照らされた顔を真っ赤に染め上げて、アイリスはそう叫んだ。
浩一は慌ててその口を塞いで。……いちおうは今から城を抜け出そうと、そういう話をしているのだから少しは隠密行動を心がけてほしい。
「ええっと、それじゃあ。……アイリ」
「はいっ! コーイチ様!」
「その、ふたりきりのときだけですからね?」
なんともむず痒いような感覚に陥りながら、浩一は目をそらし頬を搔く。
異性を呼び捨てにしたことがないわけではないのだが、正直幼馴染以外ではほとんど経験がなく。加えて返ってくる呼び方に様なんてものがついているから余計に気恥ずかしい。
「そういえば、それを言い始めるとアイリこそ俺のことをコーイチ様って呼んでますけど、それは――」
「そ、そっちはそのままでいいんですの!」
ええ、と。浩一が苦い顔をしながら小さく息をつく。他人には呼び方を強制して、自分は好きに呼ぶのか、と。そう思わなくもなかったが、立場としては圧倒的にアイリスのほうが上である。下手に食ってかからないでおく。
「というか、ふたりきりのときであれば口調も丁寧にしていただかなくって構いませんの! その、ほら、他の方にしているみたいに……」
「他の方?」
浩一はササッと自分の行動を顧みてみる。この国に来てからというもの、基本的にはアレキサンダーとアイリスとばかり話していて。
他の侍女の方なんかとも話したりすることがないわけでなないが、それをアイリス見られたというのはほとんどないし、その可能性は弾いていいだろう。
アレキサンダーと話しているところはよく見られているが、彼女の言う主張とは真逆の、むしろ丁寧な口調になる。
で、あるならば。最近になってよく話すようになってきたマーシャのことだろうか。
つまり、
「もしかして、こういう口調で話せってことか?」
マーシャにしているように、ラフな口調で話しかける。そういえば、マーシャとの初対面のときにも似たようなやり取りをしたな、と。そんなことを考えながら。
そして同時に、浩一はちょっとだけ焦った。もしかしてこれに対して急に不敬だとか言われないだろうか、と。先に元々の口調で確認をとってから変えるべきだったろうか、と。
しかし、そんな浩一の心配はよくも悪くも徒労で終わり、そこにはとても満足そうにしているアイリスの顔があった。
「そう! それです! それですの!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねているアイリスに、浩一はホッと一息をついてから。
そういえば、と。元々の目的を思い出す。
「それで、行くんでしょう……行くんだろう?」
「ええ、行きましょう!」
なんというか、いきなり変えるというのはどこか変な感じがするところがなくもないのだけれども。少しずつ慣らしていくしかないな、と。
浩一はそんなことを思いながら。しかし慣れ過ぎも慣れ過ぎで他の人がいるところでポロッとこぼしそうで怖い。
マーシャがいるところならまだしも。アレキサンダーであっても、まだなんとか誤魔化しが利くかもしれないが。他の人の前では無理がありすぎる。
いろいろと状況が変わったそれに、キュッと気持ちを引き締めて。
「さあ、こっちですわ!」
アイリスに手を引かれながら、浩一は廊下を走り始めた。
深夜の中庭は月明かりだけが差し込み、しんと静まり返っていた。
浩一は以前と同じようにアイリスの跨がる箒の後ろに腰を掛けると、彼女の身体に手を回して。
「それじゃあ、行きますわよ!」
「ああ、頼む!」
アイリスの声とほぼ同時、グンと身体が空中に引き上げられるような感覚と、前から顔に身体に降り注いでくる風。
夜ということも相まってか、前回よりも少しひんやりとしたその空気に浩一が少しだけ目を瞑っていると次第に動きが緩やかになってきて。
「どうです? これが、夜の飛行ですの」
自慢げにそう訊いてくるアイリス。浩一がゆっくりと目を明けて確認すると。昼間とはガラリと雰囲気の変わった王都の様子がそこに広がっていた。
街までが眠り込んだように落ち着いていて。月の淡い光が、それらを優しく見守っていた。
ところどころ明かりがついているのは、まだなにか仕事をしているのか。あるいは酒場でもあるのだろうか。
光からみる、昼間とは全く違う顔をしたそれに、浩一は少しワクワクとしたものを感じながら。
そういえば、夜間の飛行はこれが初めてである。
アイリスの箒に乗せてもらうことはしばしばあったが、それは必要に駆られてということが基本で、そうなれば昼間ばかりになるのは必然であった。
「さて、あんまりこのあたりで飛行してお兄様に見つかっても面白くないんですの!」
「そうだな」
そもそも、今回の目的は件の光の調査である。そのために城を脱走しているので、あまり寄り道をしている場合ではない。
(まあ、アレキサンダーに見つからないうちに、というのは無駄な気がするけど)
ともすれば老獪のような一面を見せるアレキサンダーのことである。これくらいのことは承知な気がする。
そもそも浩一のことをアイリスが見つけたときも、彼はアイリスの脱走に気づいていたわけで。
(まあ、今考えても仕方のないことか)
いざとなったら一緒に怒られるためについてきているのだ。そのあたりについては腹だけ括っておこう。
飛ばしますわよ! というアイリスのその言葉に、浩一はギュッと彼女にしがみつく。
相変わらずアイリスの加速の宣言から実際に実行するまでのラグがなさすぎる。
それでも、最初の頃に比べればマシになったほうなのだが。加速を実行してから、事後報告で言われたりしたときに比べれば。
既に、光は収まっている。だがしかし、浩一もアイリスも。大体の方角と距離は覚えていた。……いや、覚えていたのはそれだけが理由ではないだろう。
街外れの、森の中。なんとも奇妙なことに。そこは、浩一とアイリスの出会った場所だった。