#1
ザクッ、シュッ。ザクッ、シュッ。音が、定まった間隔で繰り返される。
蒸気機関車の運転台の中は狭い上に目の前の窯で火を焚いているため、まだ春だというのにひどく暑い。
流れる汗を腕で拭い、俺は逆転機を握る。
これを回せば、全てが動き出す。そう思うと、握る手に、腕に、身体に。ピリピリとした緊張が走る。
「ついに、走るのですね」
隣でワンスコを振るっている女性が、ニッと笑いながらそう訊いてくる。ナッパ服には不似合いなくらいに綺麗なブロンズの髪を持った彼女だったが、すっかり投炭が板についたその姿は却って似合っているといってもいい。
透き通った白い肌は炭塵に塗れてしまっているが、しかしその純真な笑顔はとてもかわいらしい。
ザクッ、シュッ。石炭がワンスコで火床へと叩きつけられ、燃え始める。
赤々と輝くそれに焚きつけられるように、想いと期待が熱されて、膨れ上がる。
――ただの大学生だったやつが今では機関士なのだから。運命の悪戯とは奇妙なものだ。
ここまで来るのに随分かかった。などと、そんな無粋なことを言うつもりはない。
だがしかし。異世界で鉄道を作り上げるには、やはりというべきか問題は山積みだった。
「大丈夫です。頑張ってきたんですから、きっと成功しますよ」
投炭の手を止めることなく、しかし彼女は声をかけてくれる。緊張をほぐそうとしてくれているのだろう。心遣いに気持ちが安らぐ。
「それに、もし試験走行が失敗しても責任を負うのは指揮を執っている兄なので。万が一があってもなんとかなりますって」
「そこが一番怖いんだけどね!?」
思わずそう叫んでしまう。そんな反応を面白がるように、彼女は楽しげに笑っていた。
せめてこれが自分の責任になるのであれば幾ばくか楽だったろう。
己の失敗が他人に降りかかる。それだけでも気が気でないのに、機関助士のこの女性が王女だというから余計にたちが悪い。
王女の兄なのだから、つまりその肩書は王子なわけで。
彼からは失敗に対して処罰がないと言われているが、だとしても怖い。なにせ、かかった金額を俺はよく知っているから。
つまり、失敗はあり得ない。あり得てはいけない。
改めて気を引き締め、己のするべきことに向き合う。
各種計器、問題無し。自弁も単弁も運転位置。丁寧な投炭のおかげで窯の状態も良い。
走れる、はずだ。
逆転機を握る手に力を込め、回す。
「逆転機、前進フルギア!」
逆転機が前進に入ったことにより、蒸気が機関へと流入。同時、バイパス弁とドレンコックを封鎖することでシリンダが蒸気に動かされる。
シリンダに入った蒸気が冷やされて水になるため、ドレンコックを開き、排水。次第にシリンダが温まり、蒸気による駆動が始まる。
息づき始めた蒸気の鼓動が全身を通して伝わってくる。回転を始めた機関に突き動かされるように、言い表せぬほどの感動と、確かな実感とが込み上げてくる。
シュッシュッシュッシュッ、音が鳴る。動輪が、回り始める。
ゆっくりと、重々しく、そして少しずつ。けれど、たしかに前へと。
わあっ、という歓声がすぐ隣から聞こえてくる。
動いた。走り始めた。蒸気機関車が。
せっかくだ。こんなタイミングだし言ってもバチは当たらないだろう。
これは試験走行であり、車両はこれしかない。走る区間もとても狭いこともあり、出発信号機なんてものは現在存在しない。無いものを確認して指差喚呼など、できはしないのだが。
けれど、言いたい。子供の頃、間違って使っていた、その言葉を。もう一度、間違った使い方で。
存在しないそれを確認したふりをして。腕を伸ばし、指で差し、喚呼する。
「――出発、進行ッ!」
* * *
幸運と呼ぶべきか、あるいは悪運と呼ぶべきか。
気づいたときには見たこともない景色。結論から言うなれば異世界に飛ばされていた俺だったが、それから一週間、問題なく生存できていた。
そして、今なにをしているのかというと――、
目がチカチカしそうなほどの絢爛な装飾が施された廊下に全身が萎縮しそうになりながら、目の前の人物の後に続いていた。
高貴。容姿から立ち居振る舞い、そして服飾に至るまでがそのひとことに尽きる。そんな青年の後ろを歩きながら、本当になぜ俺がここにいるのかと疑問に思い続ける。
「入ってくれ」
個室の中に入った青年は振り返ると俺に向かってそう声をかける。俺は一礼をしてから部屋の中に入る。
重々しい音を立てながら扉が閉まる。部屋の中には青年と俺のふたりだけ。彼はソファに座ると、俺に近くの椅子に座るように指示する。緊張せず楽にしてくれ、とも言われる。
緊張しないでいられるわけないでしょうが! という文句は胸の中で押し潰しておく。
「それでコーイチ。生活に於いてなにか問題が起こったりはしていないかい?」
「いえ、大丈夫です。行く宛もない俺……私に、こんなによくしてもらえて。というか、むしろ私なんかがこんなところにいていいんですか? その、立場とか」
「ふたりきりだから俺で構わない。立場云々については安心してくれ。揉めはしたが、無理やり君を私の抱えの付き人にできたから」
ハッハッハッと笑う青年に、俺は苦笑しかできなかった。
そう。異世界にひとり放り出された俺を拾ってくれたのがこの青年。手間はかかったらしいが、俺に衣食住と仕事を用意してくれたのもこの青年。ありがたいことこの上ない。
ありがたいんだけども。
どうしてそんな人に、王子なんていう称号がついちゃってるのかなあ!
ヴィンヘルム王国王太子、アレキサンダー・ヴィンヘルム。それが、目の前の青年の名前だった。
「些細なことでも構わない。なにか思うことがあれば伝えてくれ」
「些細なこと、ですか」
「ほう。その反応ということは、あるのだな?」
彼にそう詰められ、俺は少しまごつきながら答える。
不満というほどではないにせよ日本に住んでいた身としては気になってしまったこと。
「食事が、少しばかり味が薄いかなと。ええと、私の元いた場所ではもう少し塩味の強い味付けだったので」
少し、というのは嘘だ。正直物凄く味が薄い。もちろん日本という国が食塩をかなり使う国ではあるが、それにしてもここの食事は味が薄い。物足りない。
「塩、か。いや、その指摘はそのとおりだ」
アレキサンダーはそう言うと、顎に手を当てて考え込んでしまう。
「この国のひとつの問題なのだよ。塩――食塩は」
彼がそう切り出したのはこの国の食卓事情。塩の採れる海浜部や山岳部はあるものの、今いるこの王都からはかなり離れてしまっており、価格が高騰しているとのことだった。
それでも生活必需品なため補助金を出しながら無理やりに価格を抑えているが、しかし供給が間に合っていないのだとか。
「そういえばお……れは、あまり知らないんですが、この国の運輸ってどんな形態で行われてるんです?」
私ではなく俺を自称したことに彼は満足そうに笑いながら、質問に答えてくれる。
「この国における最大の交通は君も知ってのとおり箒だ。だから箒を利用した輸送が基本になる」
箒。それは俺が想像した箒と同じものであり、しかし性能は全く違う。もちろん同じ用途にも使えるが、それとは別に跨り飛ぶことができる。
ちなみに俺はできなかった。解せぬ。俺だって飛びたかった。
「だが、箒での輸送は重量と距離に制約がつく。重いものは馬車での輸送になるし、距離が遠いと関わる人が増え費用が嵩む」
聞けば食塩以外にも高騰している品目は少なくないようで、経済に小さくない影響を与えているとのことだった。
「自動車か、あるいは列車があれば……」
思わずそんな言葉が口を突いて出ていた。同時にそれは本音でもあった。
特に列車は大量貨物の長距離高速輸送という意味では非常に強い力を持つ。これがあれば解決しそうなものだが。
しかし、やはり彼はそれらを知らない様子で、どんなものかと尋ねられる。
「えっと、自動車は馬無しで走る馬車みたいなもので、それから列車は――」
「おっにいっさまー!」
説明していると、快活な声とともにあの重々しい扉がとんでもない勢いで開け放たれる。
そこにいたのはこれまた高貴な見た目の女性。ただ、立ち居振る舞いまでもが高貴だったアレキサンダーに対して、こちらはお転婆という言葉が似合う。
「あら、コーイチ様もいらしたのね!」
「アイリ、部屋に入る前にはまずノックしなさいと言っているだろう」
「はっ、忘れていました」
そう言うと彼女は開ききった扉を勢いよく閉め、改めてノックする。ため息混じりに彼が返事をすると、やはり物凄い勢いで扉が開かれる。
うん、そういう意味じゃないと思う。あとあの扉、結構重いはずなんだけど。
「それよりコーイチ様、私またあの黒いやつが見たいのです!」
「アイリ、今は大切な話をしているから、後で」
アイリと呼ばれた彼女はアイリス・ヴィンヘルム。この国の王女であり、アレキサンダーの妹にあたる。
「ああ、でもアレは関係するのです」
「ほう。つまり、アレが列車ということか」
俺はコクリと頷くと許可を得て中座する。そして貸し与えられている自室からそれを持ってくる。
「これが列車、その模型です」
そうやって見せたものは国鉄8620形蒸気機関車、そのNゲージであり。
俺がここに召し抱えられることになったきっかけでもあった。