おまえのせいだ
その女が姿を現す様になったのは何の前触れもなく、唐突だった。
少なくとも、僕にはそう感じられたし、付きまとわれるようになった心当たりは全くなかった。
ある日突然出てくるようになったのである。
とは言ったものの、最初からそれが女だと分かっていたわけではなかったのだ。
最初はなんだかよくわからないモノ、としか思えなかった。
視界の隅に何かが映り込むのである。
視角と死角の間に何かいるのだ。
横切るというか、直ぐにいなくなるのではっきりと分からない。
でも、気配は感じる。
そして、ふと気づくと映り込む。
唐突に、時間も場所を選ばず。
朝でも、昼でも、勿論夜でも。
会社で、帰り道で、居酒屋で、そして時には自宅の中で。
時も場所もバラバラで、しかも周りに人がいても。
いきなりこんなことが始まって、しかもよく分からないモノで、最初は困惑しかなかった。
まあ、この後困惑に恐怖が追加されるわけだが。
こんなことが始まって、大体1週間くらい経ったあたりだろうか。
それが何か分かってきたのは。
それが女だと、それもどうにも、この世のモノではなさそうだと分かってきたのは――。
だんだんと、視界に映り込む時間が、長くなっていったようだった。
最初は横切るように映り込んで、直ぐいなくなっていたのに、じっとしているようになったのだ。
そうすると、そちらに視線も向ければ、はっきりとそれを見ることができるようになっていき――。
認識してしまった。
女だ。
明らかにまともなモノではない。
この世のモノでは、ないのがわかった。
服装は普通である。
僕は服飾に詳しくないので、描写がうまくできないが、街で女の子が着ていても違和感の無いような、大学生くらいの子が着ていることが多そうな、そんなありきたりの印象の服装で。
でも、その女から醸し出される雰囲気は、全然ありきたりではなかった。
肌が白い。
色白とか、そんなものじゃない。
生物的な、白さではないのだ。
例えるなら蝋とか、それも色のこけた、非生物的な色。
命の無い色。
その瞳は昏く、女までの距離がまだ遠かったころは、顔に洞穴が二つ並んでいるようにしか見えなかった。
静かに佇むその姿は、まるでそこだけ世界の描き方が異なるような、その女だけを、汚い色合いの油絵の具で描き出したような、そんな圧迫感を持っていて。
本能的に、これはまともなモノではないと、生きているモノではないということが、霊感など全くない僕でも分からせられた。
そうして、女だと分かった後も相変わらず、時間と場所を選ばず出てくるのだ。
朝、通勤途中の道で。
昼、会社のデスクの脇で。
夜、自宅の部屋の中で。
幽霊には時間も場所も関係ないのだろう。
唐突に、前触れなく、そこに女は佇んでおり。
特に何かをしてくる様子はないものの、出てこられれば僕としては緊張を強いられ。
恐怖と、そして何故自分がこんなことに、という理不尽に対する憤りが湧きあがった。
その上、女は、だんだんと近づいてくるようになっていった。
正確には今までより距離が近い場所に佇むようになってきたということである。
最初は3、4メートルくらい離れた場所に佇んでいたのに。
だんだんと、1週間かけて2メートルほどの距離に、もう1週間で1メートルと、少しづつ、徐々に、迫ってくるように――。
僕への距離を詰めてきたのだ。
そうすると、女はより鮮明に見え、様子がはっきりとわかってきた。
昏い穴のような目は、目を限界まで広げて、黒目がちな瞳で、僕を一心に睨み据えており。
小刻みに口を動かし、聞き取れない声でずっとブツブツ何かを呟いていることがわかった。
何を呟いているのかは、女から僕への距離が1メートルを切ったあたりで聞こえてくるようになった。
「おまえのせいだ」
「おまえのせいだ」
僕を一心に睨み据えて、そんな風に。
「おまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだ」
ずっとずっと、呟き続けているのであった。
もう、限界だった。
その女が出てきてから、たった数週間で僕の私生活はめちゃめちゃだった。
時間も場所も関係なく、唐突に出てくるその女に対し、常に緊張を強いられる中で、僕は眠れなくなり、集中も欠くようになり、仕事でも通常しないであろうミスを連発した。
女の影に怯え、人との会話は上の空になった。あるいは会話中でもお構いなしに出てくる女のお陰で、会話中に急に怯え始める僕の姿が奇異に映るためか、腫物扱いされるようになった。
頬はこけ、眼光は淀み、まるで僕自身が幽霊のようであった。
その上で女は出てくるたびに徐々に近づいてくる。
ふざけるな。
何が「おまえのせいだ」だ。
唐突に何の前触れもなく出てきた方こそそちらだろう。
僕が今、こんな風に苦しむ羽目になった原因こそ、おまえではないか。
おまえのせいではないか――。
そんな中での出来事だった。
僕がその女を、実際に見たのは。
つまり――生きている彼女を見つけたのだ。
もうその時には、女が出てくるときには目と鼻の先という時分だった。
振り向くと目の前にいるということさえあった。
なので、女の顔は嫌でも目に入っていた。
だから、彼女を見たとき、直ぐにあの女だと分かったのだった。
いつも会社への通勤・退勤に使う駅。
憔悴しきった僕は家へ帰るべく電車に乗るため、ホームに出た。
そのホームで、僕は彼女を見つける。
こちらに向かってくる彼女。
友達だろうか、数人の、本人と同年代の大学生くらいの若い女性たちと、楽しそうに談笑しながら歩いてくる彼女は、紛れもなく僕の元に出てくる女だとすぐに分かった。
服装が全く同じだったし、顔も嫌でも記憶していた。
もっとも、出てくる女の方はもっと生気のない、恨めしそうな、化物染みた形相ではあるが。
顔の作り自体は、全く一緒だった。
違うのは、こちらに歩いてくる彼女が、生き生きと、楽しそうにしている点。
つまり彼女は幽霊ではなく生きた生身の人間であった。
そして、人生を満喫している最中であるように見えたのだ。
僕は彼女を初めて見つけた時、まずは衝撃を受けた。
当然である。化けて出てきていた当人が目の前に生きて出てきたのだから。
そして、次に来たのは当惑である。
こちらに向かってくる際、僕の姿は彼女にも目に入ったはずだが、彼女は僕のことを知らないようだった。
目もあったが、通行人を見た時のような、何の感慨もない様子で、直ぐに視線は外れたのだ。
その後もこちらには一切注意を向ける様子はなかった。
あんなに化けて出てきていた彼女なのに、いざ実物とくれば、僕のことを全く知らない赤の他人なのであった。
電車を待つ間の時間を利用し、彼女を密かに観察した。
彼女は、ホームの電車を待つ、その最前列に友人たちと並んでおり、僕はその少し後ろに並んでいた。
彼女は幸せそうに――僕と違って何の苦悩もなさそうに、友人たちと姦しく会話に興じていた。
誰かが冗談でも言ったのか、楽しそうにけらけらと笑っている。
僕は、それを見て、怒りを――先ほどまでの当惑の後に、最後に怒りを覚えたのであった。
彼女は、僕をこんな目に――毎日しつこく化けて出てきたうえで、私生活をめちゃくちゃにしておきながら、本人はのうのうと生きて、幸せそうにしているのだ。
その上、僕のことなど全く知らないようなのである。
全く知らない相手に、何の前触れもなく化けて出てきて、ずっと粘着しているのである。
僕が何をしたと言うのだ。
何もしてはいないだろう。
君は僕のことなど知らないようであるし。
見ず知らずの相手に、何故こんなことをしてくるのか。
そして、そんなことを、僕の人生を滅茶苦茶にするようなことをしておきながら、君は何故そんな楽しそうに笑っていられるのか。
何が可笑しい? 僕がこんな目に遭っているのが、そんなに可笑しいのか――。
怒りが憎しみに変わってからは早かった。
僕の体は、僕が良く考えも纏まらないうちに動き始めていた。まるで何かに憑りつかれていたように。
電車が直にホームに侵入するという時に、僕は駆け始め、そして――。
電車を待つ彼女の背を、両手で力一杯、前に向けて押し出した。
バランスを崩し、ふわりと投げ出される彼女の体。
そのまま線路に転がり落ちた彼女は、落下の衝撃に震えつつ、何とかこちらに顔を向ける。
驚愕に満ちた、何が起きているか分かっていないような表情。
僕は愉快だった。
ずっと自分を苦しめていた存在が、それと同じ顔が、驚きと痛みに満ちた顔でこちらを見上げている。
そしてこれからそいつが、消えてなくなるのだ!
こいつがいなくなれば、僕を苦しめる元凶がなくなれば、きっと僕は解放されるはず――。
電車が入ってくる。
周囲の驚き、ざわめき、怒号や悲鳴など最早僕の耳には入ってこなかった。
彼女は、最期に、もう間に合わないことを悟ったのだろう、僕に目を向けてきた。
目を限界まで広げて、黒目がちな瞳で、僕を一心に睨み据える。
いつも出てくるときと同じ表情だ。
そうして彼女は一言呟いた。
「おまえのせいだ」
電車が彼女を攫って行ったように見えた。
何かが飛び散るような――他に例えようのない音が一瞬聞こえた。
僕は唐突に理解した。
どちらが先かなんていうのは、どうでもいい話なのだ。
幽霊がどう出てくるかなんて、僕自身が何度も体験してきたことじゃないか。
唐突に、脈絡なく、時間も場所も選ばず出てくる。
そう、幽霊には時間も場所も関係ないのだ。
この世のモノでないのだから。
この世の法則で動くとも限らないわけだ。
だから、それこそ、よくある『幽霊』という過去に亡くなった存在が、そこからの未来を生きる存在に対して、化けて出て脅かすのと同様に。
逆に。
未来から過去へ。
それが化けて出ることだってあるのだろう。
なにせ、この世のモノではない、この世の法則で動かないモノなのだから。
であれば、彼女が僕の元に、何の縁も所縁もないにもかかわらず、化けて出てきていた理由もわかるというものだ。
縁も所縁もあったのだ。
今ここで結ばれた縁が。
今こうなったことこそが、彼女が僕の元に化けて出てきていた理由なのだ。
詰まるところ、僕がこうなったのが彼女のせいであるように。
彼女がああなったのは、どうしようもなく僕のせいなのだろう。
どちらが先かは知らないが。
どちらが先でも、もう片方はそうなったのだろう。
どちらが先かなんて、きっとあまり意味のない事なのだ。
ある意味で、僕と彼女は運命の相手同士なのかもしれない。
そんなことを、つらつらと考える。
乾いた笑いが浮かんでくる。
こんなことも、最早どうでもいいことだ。
喧騒と怒号が響く中、僕はぼんやりと突っ立っていた。
どちらにしても、今の事態の全ては。
おまえのせい、なのだろう。