新生活と長電話
2023.01.04 文言修正
就職したのは東京の広告代理店。上京して三週間ほど経つが田舎者の私は未だに人の多さに目を回している。
「沖田さん、こっち」
始業時間が過ぎてすぐに職場の先輩である大矢さんに声を掛けられて後をついて行った。
高い位置で結ばれたポニーテールを靡かせて振り返ることなく早足で歩いている。
もう一人、同期で各務さんという男性も一緒だった。大学院卒と言う事で同期入社だけど二歳年上だ。彼が一緒なのかと僅かに顔を強張らせてしまった。一瞬だったので気付かれていないと願いたい。
そんな私の気持ちとは裏腹に、私に気が付くとにこりと微笑んで近付いてきた彼からは、ムスク系の甘い香りがした。
各務さんは背が高くくせ毛で少し垂れ目なのが印象的だ。目鼻立ちがはっきりしていて社内ではイケメンと言われているけど、大学時代の友達である克己の方がずっと整った顔立ちをしていた為、そう言われればそうなのかというのが本音である。
顔に関しては克己を見慣れてしまったので基準が厳しくなっているのかもしれないが、各務さんは身長が高くてスラッとしているのも魅力なのかもしれない。
それに愛想がとても良く誰にでも親切だ。今も大矢さんの手から重そうなダンボールを引き受けていた。
私自身、人の気持ちに疎いところがあるので、いち早く気付いてそういう気遣いが出来るところはスゴいと思う。
大矢さんの向かった先は社内で一番小さな会議室だった。各務さんが運んだダンボール箱の中には、メモ用紙のような大きさの紙が無造作に入れられていた。
それは記入済みのアンケート用紙だった。いくつかの五段階評価の質問と最後にご要望欄があった。
大矢さんから指示された仕事はアンケート集計だ。
私と各務さんの二人で明日の終業時間までに終わらせる必要がある。
「じゃあ頼んだわよ」
そう言って大矢さんが時間を気にしながら小会議室を出ていくと同時に各務さんが寄ってきた。
「ミナツちゃん、今晩いっしょにご飯行かない?」
「行かないです」
二人きりだと勝手に名前呼びしてきて不快を感じる。私が各務さんの姿を見るだけで緊張してしまう要因の一つだ。
何度か指摘した事もあるが、暖簾に腕押し、糠に釘、というやつだ。止めてくれる気配は無い。
大矢さんが居たさっきまではそんな素振りは無かったのに、二人になった途端に絡み付くような視線を向けてくるところが苦手だった。
私に恋愛経験なんていうものは無い。唯一、侑士の部屋に泊まった時がそれらしい出来事だった。
だからどうしても、侑士のあの優しい視線と比べてしまうのだ。各務さんの視線は好意に思えないのは、私の気の所為なのだろうか。
他に人がいる時の各務さんは、身に纏うムスクの香りのように甘くて爽やかな好青年といった感じで、その細やかな気遣いに尊敬の念を抱きさえするのだが、二人でいる時の各務さんは、ネットリと見てくるので落ち着かないし、何故か恐怖心を煽られる。
私は特に人によって接し方を変えているとか、特定の人だけ冷たくしているとか、そういった事はしたことが無いと思うのだが、無意識に避けているのが傍から見ると分かってしまうのかもしれない。
入社してしばらく経った頃から頻繁に「せっかくの同期なんだから仲良くした方がいいよ」とか「各務はいいやつだからもっと優しくしてあげたら」とか、先輩方から声を掛けられるようになった。部屋の違う部署の上司にまで言われて、他の同期と変わらない接し方なのになぜ各務さんとだけ、諭されてしまうのか正直な話全く理解出来ない。
「その敬語止めない?」
「癖ですので」
癖というのは嘘だ。
ただ、普段の私はぶっきらぼうであまり女性らしく無い話し方をしている自覚はある。タメ口になると今より素っ気無い話し方になると思う。
会社に入ってからは意識して敬語を使うようにしていた。あまり器用ではない私は、一度タメ口を使うと他の人にもポロポロと出て来てしまうことが目に見えていたので、例外を作りたくなかった。
「アンケートの集計をしましょう」
私のどこを気に入ったのか知らないけど、隙きあらば誘い文句を口にするので、いつも仕事中である事を盾にして会話を打ち切るようにしている。
出来るだけ仕事の話以外は返事をしない。そう心に誓っていた。
アンケートを読んでホワイトボードに集計を書き込んでいく。要望欄は後で別にまとめるので、五段階評価の結果を書き出したら、未記入・うちの会社に関係する内容・アンケートの設置場所に関する内容・その他に分けながら束ねておく。
仕事に関する話以外は各務さんのおしゃべりは聞き流し、この単純作業を黙々と続けた。
お昼休みにはランチのお誘いもあったが、私はお弁当を作ってきているので、勿論お断りさせてもらった。
「もう就業時間が終わったから良いでしょ?」
その日、会社を出ようとして再び各務さんに食事に誘われた。
「同期とは仲良くしていた方がいいって」
進捗の報告の為、側にいた大矢さんがそう言って肩を軽くポンと叩いてくる。そうは言っても、今は爽やかな各務さんだ。大矢さんは二人になった時の各務さんを知らないから言えるのだ。
「いえ…」
「あ、じゃあ大矢さんも一緒に行きませんか?」
折角の大矢さんのアドバイスを無碍にしてしまうのは心苦しいが、ここは逃げの一手しかない、と、お断りしようとしたら、各務さんが遮る様に提案してきた。
「あー…でも、しばらく残業なんだよね」
この会社は残業が多いことで有名らしい。入ってから知って愚痴っていた同僚も居たけど、仕事が無いよりはずっといいと思う。
季節物で納期厳しめの依頼が多いから、年中繁忙期だ。今年は特に忙しく、いつもはもう少し新人教育に時間が取れるらしいが、それもままならないようで大した指導も無く、今のうちに定時退社を楽しんでおいて、と放置気味なのだ。
私は広告というよりも空間コーディネーターに憧れて、この会社を希望した。大学で造形デザインを選択したのも同じ理由だ。
子供の時から大通りに面したガラス張りの空間の中にある季節や物語を感じさせるディスプレイを観るのが好きなのだ。
この会社は、私がいつも楽しみにしている百貨店のショーウィンドウをずっと請け負っていると聞いて志望した。
みんな忙しくしているが団結しているように見えるので、社内の雰囲気は良いと思う。
早くあの中に入って一線で働けるようになりたい。誰かの心に届く世界をショーウィンドウの中で創り出したい、と切に願う。
結局、大矢さんの仕事が落ち着く来週のどこかで、三人で晩御飯へ行く約束をした。ランチにしたかったが、それは二人に反対された。
夜でも三人でなら大丈夫だろうと思うけど、約束した後の各務さんのニコニコ顔に一抹の不安を感じながら、その日は帰宅した。
「ただいま」
誰もいない真っ暗な部屋に惰性のように挨拶をしながら電気をつけた。
家具の入っていない状態ではそこそこ広く見えたワンルームも家具を配置するとあっという間に狭くなった。
ベッドとハンガーラック、小さな棚を置くと、辛うじてシングルの布団が敷けるくらいのスペースしか残らない。
スーツから部屋着に着替えると、早々とメイクを落とす。トイレとお風呂が同じ空間にあるのは未だに違和感を感じる。だけど、お金の無い新卒には精一杯の我が家だ。
住めば都と言うし、いずれ慣れるだろう。
この狭い我が家の中で一番気に入っているのはキッチンスペースだ。
冷蔵庫とその上に乗っている電子レンジ。食器棚代わりの小さな棚とその上にはトースター。シンクの横の炊飯器。棚を除いてすべて侑士から譲ってもらったものばっかりだった。
その場所に立ってご飯を用意していると、侑士をはじめ、大学時代の友達もそれぞれ頑張っているだろうと思えて元気を分けてもらえるのだ。
とは言っても、特に仲が良かった卒制グループのメンバーの中では一人暮らしをしているのは、私だけだ。
大学時代は一人暮らしだった侑士は実家に戻っている。だからこそ、これだけの家電が譲ってもらえたのだが。
侑士は本当に凄い。一度しか部屋に行った事は無かったけど、突然行ったのにも関わらず部屋は片付いており埃も見当たらなかった。普段から掃除していないとそうはならない。
昼は大学、夜は家業のアルバイト、それで家事も一人でしていたのだ。今の私より忙しい毎日だったに違いない。
一度だけ上がり込んだ侑士のマンションでの事を思い出すと、ちりりと胸が痛んだ。
グループメンバーのチャットは今でも残っていて、展示終了後の作品を持って帰った克己が「機能追加した」と写真を送ってきたのを皮切りにみんなで近況報告をし合ったのが最後の履歴になっている。
一人暮らしにはまだ慣れない。
実家では両親と妹と弟の五人家族だったのでいつも誰かが喋っていたから、会話が無くなった事が一番慣れない。
家事は実家でもしていたのでそんなに苦労しないと思っていた。五人分が一人分になるのだから、片付けも含め量の少なさは確かに楽だ。
けれど、五人分作るのに慣れてしまっていて料理はついつい作り過ぎてしまう。まぁそれがお弁当になっているのだが、三食同じメニューということも度々あった。
洗濯機は侑士の言う通り乾燥機付きにしておいて正解だ。
今は定時で帰れても、これからどんどん帰宅が遅くなるだろう。防犯的な意味でも、外に干す事は出来ない。
室内洗濯機置き場はそんなに広く無いので、一番小さなものでも置けるのかとヒヤヒヤした。
そんな感じでまだ戸惑いや小さな失敗もあるが、一人暮らしはそのうち慣れるだろう。
問題は職場の方だ。
各務さんは何で私に構ってくるのだろう?
私は何で苦手に感じているのだろう?
どこかに違和感を覚えているから苦手だと思うのだけど、それがどこなのか分からないのだ。
恐怖心を感じたのは、視線に気付く前だったから、あのねっとりとした視線だけに理由があるとは思えない。
得体が知れないからこそ、会社に行って各務さんに声を掛けられることが怖い。
教育期間が終わってしまえば各務さんとは違う部署に配属されるかもしれない。そうなれば生活ももう少し落ち着くだろう、と自分を奮い立たせている。
いつもはご飯が出来る頃にはこれで元気になれるのだが、今日は中々上手く行かなかった。
職場は何だか周りが全部敵のように思えて味方をしてくれる誰かの声が無性に聞きたくなった。
簡素な夕食を終えると、スマホの中の連絡先をスライドさせる。
家族には弱音を吐きたくないし、吐くことはできない。あの家の中では強いお姉ちゃんで居なければならなかったから。
弱音を吐けるとしたら…指先が侑士の名前の上で止まる。
彼ならきっとどうしたらいいのか一緒に考えてくれる。
だけど…。無意識に指が唇を撫でていた。
私は自分の足で立てなくなるのを恐れて、自ら甘えたくないと言ったのだ。あれからまだふた月も経っていない。
まさに舌の根も乾かぬうちに、だ。
やはり彼に甘えるなんてするべきでは無い。
もう、スマホを見るのは止めようとした時、コール音が響いた。
通話相手も確認する事もなく慌てて電話に出てしまう。
『水奈都聞いて〜』
電話の相手は由恵だった。
あの卒展が終わった後のお泊りで由恵はこれまで心に溜めていた事を全部話してくれた。
私と同じ人を好きになってしまった、と随分と悩んでいた由恵の話を聞くと、本当に申し訳なく思う。
付き合い始めたばかりの時の花火大会の電話や由恵も貰っていないのに克己からアメリカ土産のデカTをせしめた事、私は本当に心の機微に気付かなくてデリカシーが無い。
お互い誤解が溶けてからはよく喋るようになった。話題はいつも克己の事だ。克己は好奇心が強く色々な事にすぐ目移りするので、喧嘩したり不安になったりする度に誰かに話したくなるそうだ。
その気持ちはよく分かる。今、私は各務さんの事で不安を抱えていて、周りの人は各務さんの味方をするだけなので、自分が悪いのだろうかと思考が停滞してしまうのだ。
その話を誰かに聞いてもらいたくてどうしようもなくなっていたところなので、由恵の電話は渡りに舟だった。
いつもは聞くばかりだったけど、今日は聞くだけ聞いたら私の話も聞いてもらうことにした。
『その各務さんて言う人水奈都的にはナシなの?』
「ん?」
『鈍感な水奈都が気付くくらいアプローチしてくれているんでしょ?』
「……確かに。でも、私が気付くくらいだから不自然なんだよ」
由恵が指摘したように、自分は恋愛とは無縁だと思っているのに中学、高校、大学と気付かぬうちに三角関係の一角として噂されてしまった経験がある。
私は、本当に色恋沙汰に鈍いし、無頓着なのだろう。
世間一般的に見れば各務さんはとてもモテると思うのだ。顔は整っているし、高学歴、高身長で誰にでも親切なのだ。
それでも私は得たいのしれない何かに怯えてしまう。
「ナシだ」
『ふぅん。じゃあ、彼氏が居ることにしたら?』
「え?」
『その各務さんって人も流石に相手がいるならちょっかいかけないんじゃないかな』
「そうかも知れないな。でも、彼氏の事を詳しく聞かれたら……」
『彼氏の設定に困るなら侑士は?侑士をモデルにしちゃえばいいよ』
私は、克己との噂を信じ込んでいた由恵を安心させる為に、中性的な克己よりも男らしい侑士の方が見た目も性格もタイプなのだと伝えていた。
だから由恵は、侑士をモデルになんて思い付いたのだろう。
侑士の名前を思わぬタイミングで聞いてしまって顔が熱くなった。これが電話で良かった。顔に熱を感じながら思わず由恵の提案を否定してしまう。
「万が一、大学時代の知り合いにバレたら侑士に迷惑がかかるかも」
『ん〜。離れているし本人には伝わらないと思うけど。ま、本当に彼氏作っちゃうのもいいんじゃない?』
「いや、そんな気にはなれない」
まずは自立する事。それが私の目標だ。目標達成までは恋愛なんていらない。
由恵との長電話を終えると、解決策こそ見付からなかったが、なんとか明日も頑張ろうという気持ちになっていた。
今は与えられた仕事を真摯にこなしていく。ただそれだけだ。各務さんの事で冷たい人と思われているみたいだけど、誤解を溶いて回るのもおかしな話だ。それなら仕事で評価してもらうしかない。
閲覧ありがとうございます。
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不定期更新になります。