海辺とバイク
克己の運転で駅に向かう間、会話は無かった。
わたしが喋らなければ会話が無いということに今更ながら気付いた。
いつからこんな事になっているのだろうと思ったけれど、よく考えてみたら初めからだったかもしれない。
告白には「いいよ」と返して貰えたけれど、克己と気持ちが通じ合ったわけでは無かった。
助手席で克己の運転に身を委ねながらそんなことをツラツラと考えていた。
「あっ」
車を駅前の駐車場に停めて電車に乗ろうと駅に向かっている途中で友久と偶然出会った。
軽く挨拶を交わして今から海に行くんだ、と何気なく会話してすぐに別れたけど、それがきっかけでいつものように克己との間に他愛も無いおしゃべりが戻ってきた。
海水浴シーズンにまだ入っていない砂浜は閑散としている。二人並んで波止に座り、ザザァーんという波の音をBGMに、告白してから今までの想い出話に花を咲かせた。
今日は風もあまり無くて海は凪いでいたけど、シーズン手前の今の時期はまだ海水温が冷たい。それでも海に入りたい衝動に駆られた。すぐに泳げない事を思い出してクスクスと声を出して笑ってしまう。
「何?」
不意に笑いだしたわたしに克己が呼ばれたと勘違いしたのか、聞き返してきた。
「ねぇ。わたしとお姉ちゃんが同時に溺れていたらどっちを助ける?」
「人を呼ぶ。僕も泳げない」
特に話すことがあったわけでは無いけど、ふいに心の中のつっかえが言葉になった。しまった、と思ったけど克己はその質問に即答で答えた。そういえば、克己も泳げないんだった、と思わずフフッと小さく笑ってしまう。
質問の意図には気付いていないみたいなので、胸を撫で下ろしたのに、わたしは愚かにもまた質問を重ねてしまった。
「じゃあ、山にしよう。わたしとお姉ちゃんが崖から落ちそうになっていたらどっちを助ける?」
「由恵」
即答に驚いたと共に胸の中に熱いものが込み上げてくる。
ああ、また独りよがりに嫉妬していたのか。
と思ったのも束の間で、続けられた言葉に頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
「沙恵さんは自分だけ助かっても喜ばないから」
「……どういう意味」
「由恵はさ、沙恵さんがいなくなって泣く事があってもその内笑える様になると思うけど、沙恵さんは絶対『由恵を助けろ』って言うだろうし、自分だけ助かってもずっと自分を責め続けるよ。そうなったらどっちも助けられていないから」
もっと気軽な質問のはずだった。
でも、克己の答えはもっと深くって…その通りだと思った。お姉ちゃんの心を守る為に、わたしを助けるんだ。それって…克己の心にあるのは誰?
「それに、沙恵さん体力あるから、由恵が先の方が両方助けられる可能性が高いよ」
確かに、我が家の力仕事はずっとお姉ちゃんが担っていた。今も飼育員をしているし、運動音痴のわたしと比べるべくもなく、お姉ちゃんの方が体力はあるだろう。
理論的な結論だったとしても、「沙恵さんは凄いよな〜」とおそらくお姉ちゃんを思い浮かべて語っている克己は今自分がどんな顔をしているのか自覚があるのだろうか?
わたしはうっとりとした目をしている克己に耐えられなくなってそっと視線を海に向けた。
「そんな顔するんだね」
「顔?なんか変?」
「ううん。ちょっと一人になりたくなっちゃった。先に帰ってて」
「うん。帰る時、連絡頂戴」
わたしが差し出した車のキーを受け取って克己が立ち去った。克己はいつもわたしの気持ちに踏み込まない。
素直で優しくて…そして、残酷だ。
まだお姉ちゃんに恋した自覚は無さそうだ。もしかしたらまだ憧れみたいなものかもしれない。だけど、確実に惹かれてる。
別れよう、そう言った方がお互いのためかもしれない。
でも、わたしにはその一言が言えなかった。
波止に座ったまま一体どれくらい時間が経ったのだろうか。
ぐるぐると取り留めもなく同じ事を繰り返す思考に、段々と腹が立ってくる。なんでわたしばっかりこんなに辛い気持ちにならなければならないのか。
そう思うと、克己から切り出すまでは絶対に別れてあげない!という意地みたいなものが出てきた。
もうすぐしたら昨年約束していた花火大会がある。あのナンパ師たちが言っていた穴場に行って押し倒してやる。
きっといつものように「いいよ」と受け入れるに違いない。逃してなんかあげないんだから。
もしかしたら「結婚しよう」と言っても簡単に「いいよ」と返すかもしれない。そうなったら足掻いても絶対手放さないんだから。克己が他の人に恋しても絶対…。
ザザァーんと一際大きく波の音が聞こえて、ビクッと肩が震えた。
ザザァーん、ザザァーんと繰り返す波の音が、悔しくて、情けなくて、羨ましくて、どす黒くなっていく気持ちをまるで洗い流すかのように、波が打ち寄せる。
嫌だ、手放したくない。もう別れた方がいい。
頭の中で幼い子供のように駄々っ子をしているわたしと、もう振り回されるのに疲れたわたしがお互い主張していて、疲れているわたしの心にも、冷静になれと言わんばかりにザザァーんと響き渡る。
もうすぐ初夏だとはいえまだ海水浴には早いけど、少しだけ海の水に触れたくなった。
波止から砂浜に移って、波打ち際より少し離れた砂浜に靴を脱ぎ、その隣に鞄も並べておく。スカートは膝丈なので少し足を濡らすくらいなら問題ない。
パンストは脱ぐのが面倒なのでそのまま。濡れても材質的にすぐに乾くだろうし、破れたりした場合は、まぁ帰るだけだから生足でも問題ないだろう。
ポチャン、ポチャンと音を立てて海に入ると、思っていたよりも冷たい感触が足を包む。
穏やかに打ち寄せる波が、足首を撫でていくのが気持ちいい。少し冷たすぎるのが逆に良かった。
海の先を見る様に辺りを見回すと、ふと視線の端に綺麗な巻き貝が見えた。昨年の海で克己がくれたものに似ている。
拾ってみようとチャポチャポと足を進める。少し深くなってきたが遠浅の海はまだ膝には満たない。
ただ貝を拾うには洋服が濡れてしまうだろう。
「由恵っ!」
しゃがんで貝を拾うか思案していたら、急に自分の名前が呼ばれた。
振り返ると、長身で眼鏡を掛けている男性が妙に慌てた様子でこっちに向かって走ってくるのが見えた。
あまりにも必死な様子に何事かと立ちすくむ。
「…友久?」
すぐ近くに来てようやくその男性の名前が口から出てきた。
「戻ろう」
砂浜を一気に駆け抜けて来たため、顔を伝う汗を左手で拭いながら、友久が右手をこちらに差し出した。
お手と言われた犬の様に思わず左手をその手に乗せると、友久は随分と緊張していたみたいで、強張った顔の目元が緩んだ。
友久に手を引かれるままに浜に戻る。克己と違って大きく骨張った手が、苦手な男の人のものだったけど、嫌悪感は全く感じなかった。わたしも成長したもんだ。
友久が砂浜に置いてあった鞄と靴を空いている手で拾い上げたところで、わたしは首をひねって海を見る。
視界に入った打ち寄せる波に、もしかしたら友久から見たらそのまま海に入って行こうとしていたように見えたんじゃないか、という事に気付いた。だからあんなに必死になっていたんだ、と。
「違うから」
「うん?」
「貝を拾いたかっただけだから」
「……うん」
わたしの言い訳に友久は肯いたけれど、信じていない気がする。立ち止まった友久の視線がわたしの足元を見る。
つられる様に自分の体を見下ろすと、スカートの裾がいつの間にか海に浸かっていたようでポタボタと絶え間無く水滴が落ちていた。
パンストには砂がいっぱい張り付いて、破れてしまっている。これはまずい。わたしでも友久の立場なら信じないだろう。
慌てて繋いでいた手を離してスカートを絞る。水が出なくなるまで絞ると今度は、パンパンと払いながら皺を伸ばした。
「本当に違うから」
誤魔化す様に笑ってみたが、友久は眉間に皺を寄せていた。思い出した様に車道の方へ行く。
見覚えのある黒と赤のバイクが道端に停めてあった。リアに固定してあるバッグを外して、中からタオルを出して渡してくる。
濡れた足をパンストの上から拭かせて貰って砂を払うと靴を履く。
「家まで送るから」
「そういえばなんで友久はここに居るの?」
まだ克己と顔を合わせたくなくて、思わず時間稼ぎの質問をしてしまった。
海に来るときに駅前で会ったけど、その時のわたしの様子がおかしかったから気になっていたそうだ。しばらくして克己が一人で戻って来たので心配して探しに来た、という経緯らしい。
「克己と何かあった?」
「……まだ帰りたくないのだけど」
友久の質問に返答はしなかったが、これでは「何かあった」と言ったのも同然だ。
「とにかくその服なんとかしないと。オレの家でいい?」
戸惑いはあったけど肯いたわたしに、バッグから取り出した予備のヘルメットを渡して、代わりに使ったタオルとわたしのバッグをそこに入れた。
友久がバッグがお腹側に来るように肩に掛けるとバイクに跨がってリアに座るように促す。側面に足を掛けて何とか跨がると膝丈のスカートが引っ張られて太腿の半分以上が露わになってしまった。あられもない姿にかぁーと顔が熱くなるが、どうしようもない。
克己に何度言っても乗せてもらえなかったバイクにまさかこういう形で乗る事になるなんて思いもしなかった。
だけど、わたしは何でもいいからバイクに乗りたかったわけでは無い。克己のバイクに乗せてほしかったのだ。そう考えると今の状況に泣きたくなった。
友久は出来るだけスピードを出さずに丁寧に運転してくれたけど、小刻みに揺れる振動や直接風を切って肌に感じる風圧やカーブする毎に傾いて近くなる道路に、ハラハラして落ち着かなかった。
割と最初の方に、友久の腰に手を回して背中に顔を押し付け両目を固く瞑ってしまった。
目的地に着いて降りる様に言われた時も体が強張っていて降りるどころか友久から体を離すのも一苦労で、結局、腰に回した手を肩に移動しておんぶの様な体勢で降ろして貰った。
わたしという重しを背中に乗せながら、バイクを支えているのだから、友久も相当大変だったと思うけど、何とか無事地に足をつける事が出来た。
普段使わない筋肉が悲鳴をあげて、プルプルと震えている。まだ、振動に揺られている感じがする。
友久の家があるのは、普段使っている駅の反対側なのでわたしにはあまり縁のない場所で、建ち並ぶ住宅を見回しても知らない風景だ。
アイボリーの壁に茶色い屋根の落ち着いた色あいの家がどうやら友久の家らしい。
玄関から廊下を抜けて、脱衣所に案内される。
塩水と砂で体がベタついていたので、遠慮なくシャワーと着替えを借りる事にした。
家には友久のお母さんが居て、そのお母さんの服を貸してもらった。友久の親なだけあって長身な人でチビの私には、五分丈のズボンが七分丈になる。
母親の前で友久は酷くぶっきらぼうだった。事情を聞きたがる母親に、とにかく後で、と押し切って二階にある友久の部屋に通してもらった。
棚とパソコンデスクとベッドと座卓のある部屋は、機能性を重視したシンプルな雰囲気で友久らしいと思った。
なにか飲むかと聞かれて、酷く喉が渇いている事に気付いた。時間は昼御飯時だったが昼御飯どころか朝御飯も食べて居なかった事を思い出した。
でも食欲はあまり無かったので、冷たい飲み物だけお願いする。
座卓の前に座って待っている間、ぐるりと部屋の中を見回すと、本棚の後ろに何か板のようなものが挟まっているのが見えた。壁に向かって裏向きに置かれたキャンバスが本棚と壁の隙間に落ちているようだった。
妙にそのキャンバスが気になって、わたしはそっと隙間から引き出した。
長く放置されていたのかホコリを被っているキャンバスをひっくり返して表を上にする。
透き通るような青から朝焼けの朱色のグラデーションの中に浮かぶ橋のシルエット。キャンバスの下側にはキラキラと空を反射した川があり鳥の影もあった。空と川の境界は朝靄で包まれている。
凸凹とした表面はその絵が油絵の具で描かれている事を示していた。だけど、その繊細な色使いがまるで水彩画の様な透明感だ。
残念ながら、管理が悪かったその絵はホコリで薄汚れてくすんでいたけれど、それでもキラキラと輝く水面は綺麗だと思った。
わたしにはその絵に見覚えがあった。
高校三年生の二学期に、家の近くの河川敷公園でこの絵を描いていた人が居て、完成を見てみたくてほとんど毎日公園へ散歩に行っていた。
なぜここにあるのだろう?
しかも、隠されるように棚の後ろに押し込まれて。
「あっ、それ…」
いつの間にか友久が戻ってきていた。
座卓の上には、アイスミルクティーとサンドイッチが並べられた。
「この絵、どうしたの?」
そう聞くわたしの声は震えていた。知りたいけど知りたくない矛盾した気持ちが心のなかに渦巻く。
「見つかっちゃったか」
友久はそう小さく呟くと、座卓の向かい側に胡座をかいて座った。
「大学、最初は絵画専攻へ行くつもりだったんだ」
子供の時から絵を描くのが好きだった友久は絵画教室に通っていた事もあり、推薦枠で受験したそうだ。
「自分でも自信作でさ、絶対受かると思っていた」
だけど結果は不合格。ショックで絵が描けなくなって、でも一般の大学の受験勉強はしていなくって、専攻を造形に変えて受験したそうだ。
絵画教室も辞めて、画材も全部捨てちゃって、でも……。
「その絵を楽しそうに見に来る女の子が居たんだ。大きな目をキラキラさせて…声を掛けようとするとさっと逃げちゃってさ、だから、見に来ても気付かないフリをずっとしていた」
トクンと心臓が大きな音を立てた。それ、絶対わたしだ。
この絵はわたしが受験勉強を頑張れた源の絵なのだ。
男の人が描いていた事は分かっていた。でも、あの時のわたしは今よりももっと男性に恐怖心があって描いている人には見つからないようにしていたから、大学で友久に会ってもあの河原で絵を描いていた人とは繋がらなかった。
気付かれていないと思っていたのに、しっかり見られていたらしい。
「絵が完成した時のその女の子の笑顔が忘れられなくて、その絵だけは捨てれなかったんだ……」
友久は寂しそうにそう言ってわたしの手からキャンバスを抜き取った。
「せめて新聞紙で包んで保管して置くべきだったな」
友久は、捨てれなかったけど、見る事も出来ず隠してしまった、色褪せた絵を後悔の目で見ている。
すっかり存在を忘れていたのに見付けられるなんて、失敗した、と、二重に後悔していた。