第7楽章 「失われた懐紙への焦り」
黄土色の矢絣に海老茶袴を身に付け、畳の上の座布団に正座致しました私。
そんな私の眼前には、黒い漆塗りの菓子器が据えられているのです。
「ほう…」
菓子器を覗き込んだ私は、はしたない事ですが、小さく感嘆の声を漏らしてしまったのでした。
菓子器の中にあったのは、別段珍しい物では御座いませんでした。
-宮内庁御用達の銘菓とは言え、たかが栗羊羮に逐一驚くとは何と物好きな。
そのような謗りは、甘んじて受けましょう。
しかしながら、栗羊羮は私にとって、忘れ難い思い出の品なのです。
あれは今を去る事4年前、私が特命遊撃士養成コース編入と相成った、小学6年生の4月の事でした。
第2支局で開講されていた、基礎教練と座学の間の休み時間。
漫画雑誌の御伴としてワインボンボンを摘まんでいた私に、御菓子の交換をキッカケに話し掛けて下さった方。
その方こそが、後に私の親友と呼べる間柄として、今日に至るお付き合いをして下さっている、吹田千里さんなのでした。
千里さんを皮切りに、マリナさんや京花さんを始め、沢山の方と懇意な御付き合いをさせて頂く運びとなり、今日の私がこうしてある次第なのです。
そして、その際に千里さんが交換用の御菓子として御持ちだったのが、栗羊羮なので御座います。
言うなれば栗羊羮は、今日の私の人付き合いを決定せしめた、運命の和菓子という事になりますね。
そうなりますと、襟と姿勢とを正さずにはいられないのでした。
「御先に。」
「あっ…はい…」
羊羮を取り分け、小さく目礼した私に、件の殿方も落ち着かない様子で応じるのでした。
落ち着かないと言うよりは、絶望しきったと形容した方が正しいでしょうか。
-まさか、自爆テロ…?
特命遊撃士という職業柄、このような剣呑な考えが私の脳裏をよぎりました。
しかし、政財界の大物が集まる会談や各国首脳によるサミットならばいざ知らず、20人程度の茶席を吹き飛ばした所で、どれ程の意味がありましょうか。
強いて言うなれば、牙城大社の時期大巫女である美里亜さんを狙う可能性が挙げられるでしょう。
しかしながら、そのような凶行を働けば最後、京洛牙城衆による厳しい報復が行われるのは確実の事。
そのような芸当、余程の覚悟と自信がなくては、伊達や酔狂で出来る真似では御座いません。
それに爆弾には有りがちな、時計の作動音や機械音が、一向に聞こえては来ないのです。
化学反応で起爆するタイプにしても、生体改造手術を受けた私達の超感覚ならば、微細な薬品の有無など難なく捉えられます。
それに件の若き殿方は、テロリストや軍関係者に特有の、洗練された立ち振舞いに欠けているのです。
そうかと言って、そうした無駄のない挙動を無理に押し殺し、隙だらけの民間人を装っているとも思えません。
この隙だらけの動きは、単なる純朴な民間人のそれですね。
しかしながら、油断は禁物です。
菓子器を隣へ回した私は、気取られないように細心の注意を払いながら、件の殿方の動向を探る事に致しました。
「はあ…」
苦悩しきった面持ちの殿方は、観念しきった御様子でスラックスの右ポケットに手をやりました。
「むっ…!」
私の手が自然に、矢絣の懐に忍ばされた自動拳銃へと動くのです。
正直に申せば、和楽庵の落ち着いた和の佇まいを血で汚すのは、誠に忍びない事でした。
しかしながら、茶会に御出席の方々の御命を守るためならば、これも止むを得ない犠牲でしょう。
ところが、自動拳銃の安全装置を外した私の目の前で、件の殿方は思いがけない行動に出るのでした。
「ううむ…」
スラックスのポケットから苦渋に満ちた表情で取り出されたのは、爆弾や拳銃といった危険な代物とは正反対の代物でした。
それはパソコン教室の割引広告が入った、真新しい未開封のティッシュでした。
駅前や繁華街などで時折配布されている、ありふれたポケットティッシュです。
「はあ…」
すっかり諦めきった若い殿方は、パソコン教室の広告が入った包装を引き裂くと、取り出したティッシュを畳に敷いたのでした。
「あの…よろしければ、こちらを御使い下さい。」
より平和的な可能性に思い至った私は、予備として持たされた楊枝と懐紙を取り出すと、苦渋の表情を浮かべる殿方に差し出したのです。
「えっ…!よろしいのですか?」
不意に話し掛けて些か戸惑っているものの、件の若き殿方の顔には、先程までとは異なる表情が浮かんでいるのでした。
一言で言い表すならば、それは「期待」でしょう。
「お気になさらないで下さいませ。予備として持参した物ですから。」
このような場合、勿体つけずに然り気無く御渡しするのが、心遣いですね。
然り気無く微笑を浮かべた積もりなのですが、私の意図は正しく伝わっているのでしょうか。
「よろしいのですか…ありがとうございます…!本当に、助かりました!」
恐縮しながら何度も頭を下げる殿方の顔と声には、歓喜と安堵の感情が、隠しきれずに滲み出ているのでした。
もっとも、安堵に胸を撫で下ろしているのは、私も同様です。
正しく、幽霊の正体見たり枯れ尾花。
件の殿方が、自爆テロを前にした過激派ではなく、単に懐紙と楊枝を忘れた青年である事が分かって、私もホッと致しましたよ。
年格好は、上に見積もっても20代後半が精々。
世間擦れしていない純朴そうな素振りから、大学院生か老け顔の学部生といった所でしょう。
大方、茶道と言えば大学祭で催される茶道部のそれしか知らず、楊枝と懐紙の用意を怠ったという所でしょうか。
嬉々とした面持ちで栗羊羮を切り崩しているのは結構ですが、ティッシュペーパーだけでどう乗り切るお積もりだったのでしょう。
周囲の方の目を盗んで手掴みで茶菓子を食べ、気付かれていやしまいかと、おっかなびっくりで閉会の時を待つのでしょうか。
そうした動揺を抱えていては、薄茶の御碗を取り落としたり、正座の姿勢から立ち上がろうとして転んだりと、様々な失態を連鎖しないとも限りません。
情けは人のためならず。
お困りの方に手を差し伸べる事で、その後に起きるやも知れないトラブルを未然に防ぐ。
そうする事で、その場を何事もなく円滑に進行させて、トラブルを回避するのも、大切な処世術なのではないでしょうか。