第5楽章 「転調~御色直しは海老茶式部~」
二条城の清流園に建つ和楽庵は、江戸初期における京の豪商である角倉了以の屋敷を、大正末期である1965年に移築する事で誕生した、数寄屋造りの庵だそうです。
どうやら今回の茶会にあたって、茶室以外の数室も、更衣室やクロークの用途で押さえてあるらしく、大きな三面鏡の据えられた和室へと、私は案内されたのでした。
「こちらが、姉様が御召しになる御着物でございます。私の御古で恐縮ですが、サイズは手頃かと…」
美里亜さんが示した先では、巫女装束の絹掛さんが、専用のハンガーに掛けられた御着物と袴を胸元に抱えて、さながら呉服屋の手代のような笑顔を浮かべているのでした。
「はあ…」
絹掛さんが御持ちの御着物は、黄土色の矢絣柄。
これに赤紫色の袴を合わせるのですから、明治から大正初期にかけての女学生か、成人式や卒業式の女子大生のような装いになりそうですね。
「それでは姉様、御召し替えを。」
促す美里亜さんの声に小さく頷いた私は、遊撃服の襟元に手をやると、黒いセーラーカラーを飾る真紅のネクタイの結び目を緩めるのでした。
「流石ですわね、姉様。『防人の乙女』が誇る速脱ぎと速着付け。その双璧が1つを、しかと見定めさせて頂きましたよ。」
美里亜さんが驚嘆の声を上げるのも、無理からぬ事です。
ネクタイを緩めてから間髪を入れず、私は強化繊維製の下着姿で三面鏡の前に直立していたのですから。
軍事作戦に従事する「防人の乙女」たる者、身支度に手間取っているようでは御話になりませんからね。
小学生の時に編入させて頂いた養成コースでは、機敏な身支度を叩き込まれた物でしたよ。
あられもない姿の私の傍らには、折り畳んだ遊撃服一式の収められたスーツケースが鎮座しております。
一見すると、高鳥屋等の百貨店で販売されている民生品に似ておりますが、こちらも人類防衛機構謹製の軍用スーツケース。
対象者の遺伝子と生体強化ナノマシンをチェックリストに盛り込んだ生体認証キーが採用されているので、当人か人類防衛機構関係者でない限りは、ロックの解除は不可能。
加えて、内部に搭載されたGPSによって、スーツケースの現在位置は支局のオペレータールームは勿論、私のスマホからでも逐次確認可能。
その上、有事の際には防弾楯や鈍器としても運用出来る堅牢さをも備えているのです。
ここまで厳重なスーツケースを用いているのも、遊撃服や個人兵装の悪用を防ぐためと考えて頂ければ、御理解頂けるでしょう。
「姉様。御茶と御花の習い事は、小学3年生への進級以前に止してしまわれたのでしょう?」
過密な習い事のスケジュールと、厳格な教育方針。
これらが裏目に出てしまったのか、低学年だった私は、人様と満足に御話する事もままならない状態となってしまったのでした。
心療内科系の御医者様の御叱りで、ようやく両親の態度は軟化し、私は習い事の掛け持ちから解放されたのです。
「その後、御着物を御召しになる機会は御座いまして?」
美里亜さんの問い掛けに、私は小さく首を横に振るのでした。
「いえ…何しろ、特命遊撃士の養成コースがございましたから…」
小学5年生の3学期に行われた健康診断で、私は適性検査に合格し、6年生の4月からの特命遊撃士養成コース編入というお定まりのルートを辿ったのです。
養成コースで開講される軍事訓練の受講に時間を割かれるので、習い事による過密スケジュールが復活する事はありませんでした。
「それでは、御着物の着付けに関しては私と絹掛さんが御手伝いする事に致しましょうか。」
こうして美里亜さんが目配せすると、襦袢と足袋を手にした絹掛さんが、ソッと私の側へとお越しになるのでした。
白足袋を履いて立ち上がり、肌着と裾除の上下に分かれた襦袢を手早く身に付けると、若くして牙城大社の要職に就いた2人の少女が、私の左右を阿吽の仁王像のように固めるのです。
「んっ…」
そして、絹掛さんの手が私の胸元に、美里亜さんの手が私の腰回りへと、それぞれ伸ばされるのでした。
肌着の微調整と長襦袢の着付けのためと、頭では重々承知しております。
加えて、相手は自分と同世代の少女で、そのうち片方は血を分けた妹なのですから、妙に意識をする方が不自然なのでしょう。
しかしながら、こうして他人に身体を撫で回されるというのは、どうにも落ち着かない気分にさせられますね。
「おや、これは面妖な…?一見した所では、美里亜御嬢様と変わらぬ体格ですのに…存外に引き締まった御身体ですのね、英里奈御嬢様は。」
「くうっ…!」
黄土色の矢絣が双肩に掛けられた時、私は電気ショックでも浴びせられたようにピクッと身体を震わせ、はしたなくも声を上げてしまったのでした。
絹掛さんの白魚を思わせる細指が、私の肩を和服の生地越しにソッと撫でたのです。
「嫋やかで華奢な御肩にしても、これ程硬くなって…」
「くっ…はっ…!」
矢絣の前を合わせ、胸元の微調整を行ってくれる絹掛さんの顔は、私の肩越しです。
絹掛さんの吐息と人肌の温もりに、白粉と石鹸の入り交じった芳香。
間近に感じられる、同世代の少女の艶かしさを象徴するそれら諸々の要素に、身体の芯が熱く疼いてくるのを実感しないではいられません。
「そ…それは、きっと…ナノマシンによる改造手術の影響と、人類防衛機構式の軍事訓練の賜物だと、私は存じます…」
そうした劣情を抑え込みしながら、私は極力平静を装って答えるのでした。
「成る程…美里亜御嬢様も京洛牙城衆の一員として、超神術の修行に日夜勤しんでおいでですが、鍛練の仕方次第で、かくも差が出る物なのですね。」
私の煩悶を見透かしているのかいないのか。
絹掛さんは私の腰を帯でギュウッと締め上げると、仕上げとばかりにポンポンと軽く触れるのでした。
「うくっ…!」
そのソフトで艶かしい指使いに、私はまたしても、はしたない声を上げてしまうのでした。
「あんまり姉様をからかうのは感心しませんね、絹掛さん。」
巫女装束の少女をたしなめる声は、私の下腹の辺りから響いてきます。
海老茶袴の着付けは、美里亜さんが買って出たのでした。
それにしても…
いくら相手が血を分けた姉妹で、襦袢と袴を隔てているとは言えども、下腹部をまじまじと眺めるのは、御遠慮頂きたいのですが。
「もっとも、御身体の強張りの原因は、そればかりで片付けられるとも存じませんが…」
「なっ…!」
赤紫の女袴が腰の辺りで正しく着付けられたタイミングで、私の口から漏れたのは、悲鳴にも似た小さい叫びでした。
先程までは平面だったはずの鏡像が、立体的な厚みを備えて三面鏡から抜け出し、オマケに、自信に満ちた面持ちで私に語りかけてくるのですから。
「おや…?いかがなさいましたか、姉様?」
怪訝そうに問い掛ける細面は私と瓜二つでしたが、纏った和服は黄土の矢絣ではなく、満開の花々を散らした赤地の振袖でした。
「み…美里亜さん…」
声の主が妹と分かっても、私の声の震えは、不思議と治まってはくれないのでした。
「おかしな姉様…しかし、着付けの仕上がりは上々のようですわね。」
呆れたような呟きも束の間、ツツッと背後に回り込んだ美里亜さんは、満足そうな微笑を浮かべて、三面鏡を覗き込むのでした。
確かに、牙城大社の次代を担う少女達による着付けは、日頃から和装に慣れ親しんでいる事もあり、それは見事な物でした。
しかしながら美里亜さんが御召しの、赤地に花模様をあしらった振袖に比べると、私に宛がわれた黄土の矢絣は、何処と無く華やかさに欠けているように思われるのです。
今の私が大正期の女学生ならば、美里亜さんは御武家や御公家の姫君に例えられるでしょうね。
主従の序列がどちらが上かなど、言うまでもございません。
もっとも、仮に衣装を交換したとしても、結果は変わらないでしょう。
それは、美里亜さんに備わっていて私には欠けている、自信と覇気に起因するのではないでしょうか。
「さて…姉様の着付けも済んだ事ですし、茶会の手続きと移りましょうか。」
「承知しました!御供します、美里亜御嬢様!」
クルリと優雅に踵を返した美里亜さんを、自信に満ちた足取りで悠然と追うのは、巫女装束を美しく着こなした絹掛さんです。
「はっ…はい…美里亜さん…」
私はそんな御2方の後を、おずおずと3歩下がって付き従うのでした。