プロローグ1 アキは素麺を300g食べる
「食べ終わったら支度をして。すぐに出発します」
他人行儀も慣れたものだが、今日の母はいつにもまして血が通っていなかった。
「衣類とかは、どうするの?」
妹のアキは2ℓペットの麦茶をコップに注ぎながら母に尋ねた。
「これから必要ないようなものは全て置いていきなさい。服や娯楽はまた買えばいい。本当に必要な物だけまとめたら、すぐに出て行きます。」
母は食器を洗い終えると、自室に駆けて行った。今すぐにでもこの家から出て行きたいのだろう。
「兄さんは知っていましたか?離婚の事。引っ越しの事。」
向かいに座るアキは不自然すぎるほど落ち着いた様子で僕に言う。
「いや、知らなかったよ。知ってたならアキにも教えているよ。」
「そうですよね。友達と会えなくなるのは嫌なので、できれば市内がいいです。」
「アキは本当に落ち着いているな。」
虫の知らせも起きる事無く唐突に引っ越しが決まるのだ。普通の中学一年生なら取り乱してもなんら可笑しくない。
「もう慣れましたよ。母さんの愚行には。新しい父親と新しい苗字には慣れるまで時間がかかってしまいますけどね。それよりも兄さんの方が心配です。私は私立なので県内なら通えますが。」
「僕の場合どこだっていいよ。卒業まであと半年しかないし、義務教育が終わったら家を出るつもりだから。」
始めて言った家を出るという発言にもアキは顔色一つ変えず素麺を啜っていた。
「私も出たいなぁ。。家。」
「アキは女の子なんだし、もう少しゆっくりでいいんじゃない?たぶん友里恵さん、アキが家を出ることは許してくれないと思うし。」
友里恵というのは母の名で僕は母を呼ぶときは名前にさん付けで呼ぶ。
「それもそうかなぁ。でも万が一、私が家出したくなったら、迷わず兄さんの家に向かいますね。その時は一日くらいは泊めてください。」
「もちろん。」
グラスの氷が溶けたのかカランと高い音が鳴った。汗をかいたような水滴が流れ布製のコースターが濃い色に変わる。
「ご馳走様でした―—そろそろ行きましょうか。」
「そうだな。」
僕とアキは、荷物をまとめ、最後に家の中を見て回った。
リビング、浴槽、トイレ、ベランダ、庭、全てが生活感に溢れていて、この家に帰ってくることが金輪際無いなんて、全く考えられなかった。
アキはどう思っているかはわからないが、少なくとも僕は名残惜しかった。
父の姿は見当たらなかった。