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独白文

作者: 小野篁

人に触れることは恐ろしく、日々を生きるだけで死ぬ思いをする。

私は人を愛しました。私は人を信じました。私は人を裏切りました。私は人を殺めました。

年初めの頃でございます。私は昔から馴染みのあったお方とお付き合いする事になりました。お互い長い付き合いだったゆえ、変に気を使う事もなく穏やかにゆるりと愛を育んでおりました。私が『明日は何処に出かけましょう』と、聞けば

『天気が良ければ汽車で隣町に着物を買いに行こう』

などと他愛もない話をするばかりでした。それだけ私達は日々を穏やかに静かに過ごしておりました。

一つ穏やかではないこともございました。私は時折、何もかも捨てて消えてしまいたいと泣く事がありました。哀しくなるのです。お庭に咲く小さい花を見た時、お箸を置いたとき、朝日の眩しさに目を細めた時、哀しくなるのです。涙が止まらずお医者様にお世話にさえなりました。

私は狂人なのかも知れません。でも、あのお方は優しく背中を撫でてくれました。私はこの世で一番幸せ者だとこの時ばかりは思ってしまうのでございます。

私達に陰を落とした事件も記しましょう。


水無月の頃でした。紫陽花が道端の小さな小さな花壇に窮屈そうに咲いていたのを覚えております。

ちょうど、二人で買い物を終えて帰っていたときです。壊れかけの塀の脇から見るも卑しい犬が出てきました。目は血走り、めくれた皮膚からはウジ虫が湧き、舌からは泡と唾液とも分からぬ液体が流れており、形容し難い悪臭を放っておりました。(犬は好きですが、これは何ともどうしようもない)近頃『狂犬病』などという病気があることは噂程度には聞いておりましたが、見るのは初めてでございました。私が悪かったのでございます。私が醜悪な獣をまじまじと眺めたからです。獣は私の足に噛みつき、その鋭利な牙を突き立てました。何が何だか分かりませんでした。よく覚えておりません。その後あのお方が犬を落ちていた棒か何かで追い払い、お医者様に連れていかれたのは覚えております。

私は酷く情けなくなりました。幸い『狂犬病』にかかることもなく、化膿してはならぬから安静にするように言われました。

あのお方はいつものように私に優しくしてくださいました。私には辛くて仕方ありませんでした。外は雨が降っていて、叩く音が私を責めているようでした。

あのお方は私を責めているのではないか。それは不遜な考えの小さな火種でした。それは私の狂人の目覚めでした。

人間とは弱い生き物であるようで、好きな人でも平気で裏切るようです。私は初めから愛されていなかったのだ。私は必要などないのだ。止まりませんでした。理屈なんてどうでも良かったのです。ただ、私の哀しみを埋める事が出来ればそれが憎しみでも何でも良かったのです。それから私達の生活は変わりました。

あのお方は優しくなくなりました。いえ、私がそう思わなくなったからです。あのお方は何をするにもおっかなびっくり行動いたします。毎日空気が重く濁るのを肌で感じておりました。

神無月の頃です。あのお方が自殺をしました。何の前触れもなく死にました。家の近くの川に入水したらしく、警察の方も自殺で間違いないとおっしゃられました。そして、私に遺書を一枚申し訳なさそうに渡しました。

私は震える手で受けとると、小走りに家に帰り読みました。ビニイル袋に入っていたらしく水で濡れていなかったそうでした。私は何度も遺書を読み返しました。何度も何度も読み返しました。

涙は出ませんでした。狂人になってしまったようです。

これ以上は書けません。後はこれを読んだ誰かが解釈してくれれば幸いです。私は人を殺めました。これだけは確かです。

最後にあのお方の遺書を綴ります。



『死にたいから死ねる人は幸せだと思います。死にたくても死ねない事ほど辛い事はありません。僕には大切な人がいます。彼女は昔から優しくて僕は彼女を恨んだことはありません。彼女も僕を好きでした。僕は僕が嫌いでした。鏡なんて嫌いでした。気づいてましたか?僕の家に鏡が一枚もないこと。彼女はよく泣きました。だから優しくしました。彼女が僕を愛してくれている限りの僕は死のうなんて思わずにすみました。いつからでしょうか。彼女が愛さなくなったのは。僕は怖くて怖くてたまりませんでした。いえ、もういいんです。死ぬのだから。以前、ある作家が入水自殺をしたようです。僕も真似してみようか。

僕は自由です。人間に生きる権利があるなら死ぬ権利もあるはずです。僕は死にたい。僕は自由です。僕は自由です。彼女からも、愛さなくなった。生きる意味はなくなった。

どうやら僕は狂ったみたいだ。今ものうのうと惨めな文を書いている。デカダンなんて言わないでくれよ。本当に疲れたんだ。最後は自由に生きます。彼女に悪いと思うが仕方ない。僕は愛さなくなった。僕は愛されたくなかった。僕は自由だ。』


彼の遺書の真意は良く分からない。彼女の遺書の真意も分からない。もしも分からないのであればそれは本懐だ。ただ、一つ言いたい事があるから申したい。

正しい愛などない。間違った愛などない。もし、間違った愛があるとすればそれは秘め事である。

蛇足。

もし、愛があるならば私は文で表したい

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