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■1:母親代わりの兄とブラコンの妹の日常

 走って校門を抜けたところで始業の鐘が無情にも鳴り響いた。もうどう足掻いても間に合わない時間だ。……こういう場合は素直に妥協してなんとしても授業にまでに間に合わせる。HRを犠牲にして、だ。

 担任ならまだしも他の先生ならどれだけ叱られるか分からん。


 頑張ったら、なんとかHR中に間に合うことに成功した。人間やればできるものだ。


ガラリ


 教室の戸を開けたら、一斉に皆の視線が俺に集まる。……俺を見ていながら、俺という存在を認識していない……そんなような、気持ち悪い視線だ。実際、彼等が俺、綾倉皐あやくらさつきを見る視線は大抵反好意的なものばかりだ。畏怖、呆れ、苛立ち、嫌悪……俺はクラスにおいて厄介者以上の何者でもないのだ。

 ……母さんが亡くなった二週間前から、俺を取り巻くありとあらゆる環境ががらりと音をたてて変化してしまった。……まあ、ほとんど俺のせいである要素が多分にあるから文句をたれる気にはならないけれど。


「おい、綾倉っ」


 クラスの担任である榊先生に呼び止められる。


「…………」


 言葉なく教壇の方を振り向くと、榊先生は怖い顔をして俺を睨んでいた。


「お前、今日で遅刻何日目だか分かってんのかっ!?」


 先生はまだ若いのに血管が切れるんじゃあないかと心配になるくらいの勢いで怒鳴り散らしていた。……毎度ながらよくやる。称賛に値するといっても過言ではない。


「……すいません」


 とりあえず謝ってみる。


「なんで遅刻した。わけを言ってみろ」


「電車に乗り遅れました」


 嘘ではない。俺はいつも電車に乗るのがギリギリになる。見事に滑り込みに失敗し、乗り遅れた際には今日のように遅刻が確定する。あの時間の電車に乗ってHRに出席できれば、実はかなり頑張っている方である。


「また、電車か! もっと早い時間のに乗れんのかっ! だいたいお前はっ──」


きーんこーんかーんこーん……


 天の助けか、鐘がなり先生の怒鳴り声は止む。


「ふぅ……時間か。仕方ない、綾倉……お前は昼休みに職員室までこい。わかっ

たな」


 時間が来て榊先生が少しホッとしたような顔をしたのはきっと俺の見間違いではないだろう。俺は「はい」とだけ短く返事し、自分の席に座る。窓側の一番後ろ……俺のような厄介者にはうってつけの場所だ。眠れるし、早弁できるし、窓から空見放題だし……。


「…………はぁ」


 窓の外を眺め、溜め息を吐く。一週間休んで、一週間の内5日遅刻。……さすがに普通の先生なら怒りもしないとおかしいわなぁ……。今まで無遅刻無欠席だっただけまだマシなのだが。


「……ふあ」


 欠伸を噛み殺す。……む、いかんな……昨日ほとんど寝てないせいか、眠くなってきた…………。しょうがない……少しだけ寝るか。……こんな調子じゃ、授業の内容が頭に入らないもんな。


 俺は、背に腹は変えられんのじゃ〜とか心の中で呟きながら机に突っ伏す。

 …………そのとき見た夢は、まだ母さんが生きているときの夢だった……。



 昼休みになる。

 結局、俺の瞼は昼休みになるまで開かれることはなかった。むしろ、それどころか友人に起こされなければ永眠していたかもしれない。これから眠るときには気をつけよう。


 そんなこんなで俺は榊先生の席に向かう。榊先生の席は廊下側から入ってすぐの場所にあった。榊先生はそこでいそいそと弁当を食べて噎せていた。そんな急がんでも誰もとりはしないというのに……。


「おう、きたな」


 榊先生が俺の顔を確認して箸を置く。


「説教長くなるからな……覚悟しろよ」


「はい」


 職員室に残っている先生は榊先生を合わせて三人だ。仕事を片付けたら食堂へ向かうのだろう。どうせまともに説教聞く気なんかないし、どうせなので先生がいつ職員室からいなくなるかでも眺めていようか。


「だから──お前は──」


くどくどくどくどくどくど


 ……坂本教諭退室……。意外と早かったな。


「綾倉聴いとるのか!?──たく、お前みたいな──」


くどくどくどくどくどくど


 それから数分……おっと、加藤教諭も退室。……榊先生の話はまだ続いていた。


「だから遅刻ばっかりでは──……行ったか?」


 先生は急に話すのを止め、片目を開けて、小声で俺に聞いてくる。


「行ったよ」


「ふぃ〜……ったく、かったりぃ」


 職員室に俺と自分しかいないことが分かった偉大なる榊大先生はあれだけ続けていた説教をあっさり止めた。教師の顔から、年相応の爽やかな青年の顔に戻る。


「全く、説教も楽じゃあないよ」


「ご苦労様」


 労ってみる。


「お前が、遅刻なんかしなきゃこんなことはしなくていいんだけどなぁー」


 お、嫌味をたれて来やがったぞ。


「榊先生──いや、浩ちゃん……でも、それは……」


「……ああ、分かってるよ。妹を学校まで送ってっていたら電車の時間がギリギリになるって……。俺はお前の事情を知ってるから強くは言えないし、応援だってしているけどぁ……」


 今となっては俺の唯一の肉親である小学校低学年の妹の「こころ」。僕は彼女と二人だけで暮らしていた。……母さんが死んでからは僕が母親代わりをしている。


「それにしても、だ。もっと妹さんと家を出る時間を早くしたりとか……あるだ

ろ」


 浩ちゃんが言いにくそうに言う。


「……母さんがいなくなって、俺はこころにかなり不自由な気持ちを味合わせている。理想は母さんが居たときとなんら変わらない生活を送らせることなんだ……だから出来る範囲のことからは……」


 俺はお世辞にも妹をしっかりと面倒みているとは言えない程、駄目な母親代わりだ。それでも、妹に苦しい生活を強いたくはなかった。


「それでお前が遅刻しまくってたら仕方ないだろうに……。はあ……強情な奴だ……」


 榊浩司さかきこうじ先生。言わずもがな俺の担任である。俺には自分のことを「浩ちゃん」と呼ぶように言ったりとかなり気さくな先生だ。実はこの学園の卒業生なのだとか。年齢は25歳と若く、生徒の中でも人気の高い先生である。

 俺とはある事件を期に仲良くなった。だが先生としての立場上、俺のような素行不良な生徒は叱らなければいけない、というわけだ。

 内緒だが、浩ちゃんは俺が尊敬する数少ない大人の一人だ。実際俺は、いつか彼のようになりたいと思っていたりする。


「ごめん、色々迷惑かけて」


「全くだ。お前のような厄介な生徒は初めてだね」


 こういう歯に衣着せぬ態度とかはとても好感を持てる。


「なぁ……皐」


「……ん?」


 急に浩ちゃんが真剣な表情をする。浩ちゃんがこういう顔をするのは珍しい。


「お前はもっと人に頼るべきだ。なんでも一人で肩肘はってないでもっと人を頼れ。親戚でもいいし、友人でもいい、俺だって構わん」


「…………頼ってるよ。皆には物凄く。……頼り過ぎで悪いと思っているくらいだ」


 俺は何にも出来ない人間だ。母さんが死んで、よりそのことが如実に感じられるようになった。周りの皆には多大な迷惑をかけた。……だから、俺はこれ以上皆を頼らないためにも独りで生きていかなければならないのだ。


「……まあ、本人の自覚次第だからあんまり俺からは何も言えんがな。いいか……あんまり一人で抱え込むなよ?」


「…………」


 最後に念を押すように助言する先生。だがしかし、俺は浩ちゃんの言葉には答えなかった。だって俺はこれ以上誰かに迷惑をかけたくなんてなかったから。そもそも、これは俺の事情なのだから誰かに頼るのはお角違いなのだ。


 だけど浩ちゃんが俺を凄く心配してくれていることだけは痛いほど分った。だから早く俺は「自立」して、誰にも心配されないくらい大人にならなければと改めて決意をした。



 昼休みも後半に差し掛かった辺りで俺は教室に戻ってきた。正直今から購買へ行っても大した物は売ってないし、売っていたとしても食べる時間がないか。


くー


 お腹がなる。お腹が鳴るのは健康の証しだ、恥ずかしいことはない、とお祖母ちゃんが昔言ってたが、やはり恥ずかしい。静かな教室でチョイ悪っぽく思われている俺のお腹が盛大に鳴ったら赤面ものだ。明日から学校へ行くの嫌になりそうだ……。いっそのこと登校拒否して家事に専念するというのも悪い話じゃないような気がしてきた……それにしても腹減った……。


 空腹のせいか、そんな思考がぐるぐると巡っていると、何故だか空からメロンパンが降ってきて俺の机に不時着した。


「あん……?」


 視線を机に置かれたメロンパンから上に上げると、見慣れた顔があった。


「説教お疲れ様。お腹空いてるかなーってパン買っておいたんだよー」


 窓から差し込む光に反射する長い黒髪の少女。少し垂れ気味の目尻と小さめの身長のせいで否応に子供っぽい女の子だ。


「…………サンキュ、時枝」


 メロンパンと時枝の顔を交互に眺めながら、お礼を言う。別に、俺が頼んだわけではないが彼女が俺のために買ってきたのだからお礼を言うのが筋だろうし。


「うんっ! どういたしましてー」


 時枝は満面の笑みで返事をする。……駄目だなぁ。俺はこういう顔をされるのがとても苦手である。


「……って、おい」


ドサッ


 何かが背中から伸し掛かってきたせいで俺は前屈みになり、メロンパンが俺の鼻先で少しだけ潰れた。


「オレのこと忘れて二人だけでいい雰囲気醸し出してるんじゃねーよ!!」


「あはは、久住くん、ごめんー」


 俺の頭上で時枝と男の声が飛び交っていた。……いい加減邪魔なので「久住」と呼ばれたソレをどかす。


「……ふぅ」


 顔を上げると如何にも頭の弱そうな男が視界に入った。


「そのメロンパンはオレが購買で並んで買ってきてやったんだぜ、感謝しろよ!」


「えー……あー……ありがとう」


 とりあえず礼を言う。


「なんだその不承不承言いましたみたいな返事は? 先生になんか言われたんか、ああ? ホレ、この久住さんが悩み聞いてやるから言いにくいこと、なんでも言ってみんしゃい」


 久住がそこまで捲し立てたあと、俺はひとつ「それじゃあ」と呟いた。


「おう、なんでもこいや! アイキャンノットアンサー、オールモンダイ〜」


 お前は拷問を受けている敵兵か、とツッコミをいれたくなった。頭が弱いのはどうやら正解らしい。

 それはさておき、悩みを聞いてもらおうか。


「……えっと言いにくいんだけど……お前……誰?」


 …………………………………………………………。


 ときがタップリ三秒は流れたくらいだろうというときに、ついに久住が口を開けた。


「ええええええ!!? え、って、ええええええ!!? あんだけ親しげに話しといて今更!!? って、ええええええ!!?」


 久住は盛大に驚いていた。全く騒がしい男だ。


「や、ほら、親しげに話されたら知り合いかなぁって思うじゃん、普通。知り合いにいきなりシカトは失礼かなぁって思ってとりあえずノッてみた」


「いや、知り合いに「あんた誰?」の方がよっぽど失礼だろっ!!? てか、オレだよ、オレ、久住!!」


「オレオレ詐欺?」


「お前にオレオレ言ってなんの得があんのっ!!?」


「もれなく俺の友達になれる、とか?」


「んな特典いらんわーっ!!」


「あはは、その特典だったら私も私私詐欺するかも」


「ええええええっ!!?」


 時枝が便乗してきたことにより、より一層久住の叫びがでかくなる。うるさくて仕方ない。


「なあ、時枝はこいつのこと知ってるか……?」


 埒が明かないので時枝に振ってみる。


「………………さぁ……詳しくは……」


「ええええええっ!!?」


 予想に反して時枝も首を傾げた。


「ほら、皆知らないってさ」


「──!!?」


 ……俺の言葉を最後に久住はがっくりとうなだれ悲しい旋律を奏で始めた。


「るるるー……どうせ影薄いですよーだ……皆忘れますよーだ……折角メロンパン買ってきたのに、忘れさられますよーだ……」


 久住(仮)が膝を抱えて更に鬱陶しいことになっていた。正直、どうにかしてほしい……。


「……ん?」


 そこではたと気付く。この哀れな背中……何処かで見た記憶が…………。


「何してるの、皐くん?」


 俺が筆箱を漁り始めたことに疑問を持ったのか、時枝が首を傾げる。…………あったあった。


「マジック?」


 俺は取り出したマジックで紙に「私はゾウリムシの生まれ変わりです。皆様、今日から私のことはゾウリムシと呼んでください」と記し、それを久住の背中に張り付ける。


……そう、この哀れな感じ……こいつは……。


「ああ、やっぱり恭一か、お前! ゾウリムシが世界一似合う男で有名な、あの!」


「やっと思い出してくれたのかっ、って何、その最高に嫌な思い出し方!!?」


 久住(仮)改め恭一はいきなり元気を取り戻した。


「すまん、瞬間的に記憶障害が起きた」


「どんなピンポイントな記憶障害だそれ!!?」


「…………実は俺、お前の名字を知らなかった。むしろ半永久的に知りたくなかった」


「名前だけでオレを認識してたの!!? ってか、もっとオレのこと知ろうとしてよ!! ショウミー!!」


 私を見て、とでも言いたいんだろうが用法が間違っている。頭の弱さは筋金入りか。


 バカの相手を止めた俺はもう一度二人の顔を見る。

 時枝紗苗ときえださなえ。クラスが一緒になってから話す機会はあまりなかった。むしろ仲良くなったのは最近と言っても過言ではない。……あんな事件を起こしたのにも変わらず俺と友達やってくれている……きっとアホの子だ。

 久住恭一くずみきょういち。茶髪で制服も着崩していて、真面目とは無縁のバカだ。恭一とは割りと付き合いは長く、時枝同様あんな事件が起きた後にも変わらずに付きまとう真性のバカだ。


「……はぁ」


 溜め息を吐く。全く、俺がわざと人が近寄らないように反抗的な態度をとっていると言うのに、こいつらと来たら……。


「なあなあ、久々にカラオケいかね? 電波ソング歌いたくてたまらねぇ気分なんだよなー」


 急に恭一がそんな提案をした。言っている内容はだいぶ末期だが。

 恭一はジッとしているのが苦手なタイプというか、何かと言うと遊びに行こうと誘ってくる。母さんがいなくなる前は良く二人してゲーセンなどに言ったりして、月末には小遣いがなくなっていたっけ。


「と、ゾウリムシ恭一が無茶苦茶カオスこと言っていますが、どうするの時枝?」


 俺はなんとなく時枝に振ってみる。


「う〜ん、皐くんが行くなら行こっかなー。ゾウリムシ久住くんと二人だけは絶対にやだし」


 と、なかなか俺任せな解答を述べた。確かに恭一と二人っきりだと何をされるかわからんし……。


「って何気に名前の前にゾウリムシつけるの止めてよ!? 新手のイジメ!!? てか、さり気に紗苗ちゃんもひどっ!!?」


「お前が呼べって言ったんだろーが」


「いってないよねっっ!!?」


 …………ああ、そうか。あれは俺が書いたんだったっけ。


 まあ、そんなことはさておき。


「悪い……用事があるから、今日は遠慮しとくよ」


 帰って妹の世話をする、という、今俺の中では何を差し置いてでも最優先な大事な用事だ。


「お前最近付き合いわりーぞ。お前、今、親戚のおじさん達と暮らしてるんだろ……? 上手くいってないのか……?」


「え、そうなの……?」


 恭一の邪推に時枝までもが心配そうな声を上げる。

 二人共、俺の母親が死んだことは知っていた。……だが、彼らは母さんの葬式の後から俺が従兄弟のおじさんと一緒に暮らしていると勘違いしている。……当たり前だ。俺は学生でつい二週間前までは口を開けていれば餌を運んでもらえる被保護者だったのだ。いきなり独立出来るはずはない。

 ……だけど俺は保護を被るのを止めた。今度は俺が、雛鳥に餌を与える番なのだ。

 彼等がそれを知らないのも当然だ。だって教えていないから。しかも勘違いするように差し向けてさえいる。唯一、俺の家庭の事情を知っている浩ちゃんにも俺の我が儘で上手いこと隠していてくれるので、俺は今でも呑気な学生を偽っていられた。それが俺の、誰にも知られたくない秘密だ。


「全然、そんなことはない、むしろ叔父さん達とは仲良しなくらいだ。けど、さすがに何もせずにボーっとはしてられない。最低、妹の世話と買い物くらいは、俺がしないとな……」


 俺は用意していた答えを口にする。妹の世話、夕飯の買い物……二つとも勿論真実だ。嘘を吐くときはなるべく本当のことを混ぜながら吐くべし。そうすれば咄嗟にボロが出ることはない。いつかテレビで見たワンポイントアドバイスだ。


「そっか……大変なんだねー、皐くん」


「じゃあ、また誘うから次は絶対に行こうなっ!」


「…………ああ」


 俺は短く返事をするが、勿論遊びに行く気なんて毛ほどもなかった。違う、遊びに行く余裕なんてありはしなかった。それくらい必死に日々を過ごしているのだ。


「ほら昼休み終わったぞゾウリムシ」


「だからゾウリムシって言うなー!!」


 余談だが、その日恭一がクラスの皆からゾウリムシと呼ばれ続けたのは、特筆する点のない日常茶飯事の為に省かしてもらう。



「ただいまー」


 俺は帰りがけにスーパーで買い物を適当に済ませて帰宅する。洗剤が特価で80円になっていたが、正直数十円違うだけで何故そこまで騒ぎ立てるのか不思議でならなかった……。奇妙な世界だ。だが、母さんもきっとこういう数十円をやりくりしていたのか、と思うと俺もそういう僅かな値下がりにも食いつかないといけないんだなぁと思う。母さんが折角残してくれたお金だし、出来るだけ節約しようとは思ってはいるのだが。どうにも感性というのか、そういうのが未だに沸かなかったり。


「……お兄ちゃん」


 俺が靴を脱ぐために玄関に座ると、リビングの方から小鳥の囀りの様な弱々しい声がした。少し帰りが遅くなったから心配していたのかな……?


「……ただいま、こころ」


「おかえり、お兄ちゃん」


トサッ


 リビングからパタパタパタと小走りで走ってきてそのままの勢いで俺の背中側から首元に抱き付く。軽々しい衝撃を受け止め、こころの頭の上に自分の後頭部をこつんと当てて、留守番に待ちくたびれたであろう妹に声をかける。


「どうした、こころ? 一人で寂しかったか?」


「ううん、別に寂しくなかったよ……」


 そう言う口調とは裏腹に抱き付く手は一層強くなる。表情は見えないが、こころの顔がありありと不安だったと告げている様が目に浮かんだ。


「お兄ちゃん、お買い物してきたの?」


 こころが俺の荷物に指をさして聞いてきたので、


「今度はこころも一緒に行こうか?」


 と聞くと、少し嬉しそうに「うん」と返事をした。こころを一人で家に留守番させとくのもなんか不安だし、今度からは面倒だけど一度帰宅してから買い物に行くことにしよう。何よりこころに悲しげな顔をされるのは堪えるしな……。


 綾倉こころ。俺とは違いとても可愛らしい美少女だが、こころは間違うことなき我が妹である。

 くりくりの大きな瞳に、母さん譲りのサラサラの髪。華奢な身体に、俺の胸辺りまでしかない小さな背。こころは身内贔屓を抜きにしてもかなりの美少女なのだ。確かに母さんは綺麗な人だったので、その血を継いでいるならば納得だ。逆に俺はというと、疑う余地なく平々凡々な父さんの血を全面に受け継いでしまったが故にこんな平々凡々な顔生まれてしまったらしい。万分の一でもいいので母さんの美人の血が流れていればと悲観してならない。


「ねぇ、お兄ちゃん。今日のご飯はどうする……?」


 小動物を彷彿とさせる仕草で首を傾げるこころ。


「ふふふ……よく聞いてくれたな、我が妹よ」


 俺は、こころを首にぶら下げたまま立上がり、意気揚揚に語りかける。


「さすがにもう出前ばかりは飽きてきた頃だろう?」


 母さんがいなくなってからのこの家の夕食と言えば大抵出前だった。最初はいいけど、さすがに二週間も出前ばっかりだと経済費もかかるし、何より飽きがくるものだ。実質俺は飽きた。


 だがしかし、こころはふるふると首を横に振って「別に」と、某ツンツン女優を彷彿とさせる二文字を呟いた。……どうやらこころは別に飽きてなかったらしい。


「……が、いかんせん母さんが残してくれた額にも限度があり、我々は節約を強制しなければならない。つまり、今日からは俺が自炊することをここに決意する!!」


 声高らかに宣言する自炊布告。そのとき歴史が動いた気がしたよ、俺。背中ではこころが「おー」と声だけの歓声をくれていた。


「で、こころはお兄ちゃんの料理と、出前、どっちがいい?」


「お兄ちゃんの料理……」


 ほうと頬を染め、迷うことなく選択するその潔さ。さすが我が妹。将来が心配な程ブラコンに余念がない。そして俺はそんなこころが可愛くてしょうがない。我ながらこころの嫁入りに殺戮が起きそうな程のシスコンだ。ここ、笑うところ。


「ちなみに明日は土曜で半日授業だし、明日からは家事全般の方にも力を入れてみようかなぁ、とか思っています」


 再び背中からこころの歓声。

 またしても母さんがいなくなってからだが、色々とドタバタとし過ぎていて洗濯も掃除もほぼ手付かずな状況だった。さすがに2週間も洗濯してないと女の子のこころでさえも着るもがなくなってしまう。まあ、俺の服は4日で使い果たしたけど。


「まあ、それはさておき早速作るか」


 買い物袋の中から米を取り出す。さすがに米を炊くくらいは出来るはずだ。炊いたことなんてないけど。


「えーと……米なんて適当に入れて適当に水いれて適当にスイッチ押しときゃできるだろう」


 今の世の中には全自動炊飯器という文明の利器があるのだ。これさえあればすぐさま美味しいご飯が炊けるという便利な道具。

 早速、適量の米と水を入れ炊飯器にセットしようとしたのだが……


「あ、お兄ちゃん待って」


 背中に乗っていたこころが急に降りてきて制止の声をかける。


「ん、どうした?」


 俺の炊飯は完璧なはずなのに、何を止めることがある?


「お兄ちゃん、お米研がないと……」


「米を研ぐ? え、だって母さんはいっつも研いでなんかいなかったぞ?」


 母さんの後ろ姿を思い出すが……米を研いでいる姿にまるで心当たりがない。


「お母さんは無洗米を使ってたんだよ」


「むせんまい?」


 自分の辞書にない言葉が出てきて俺は目を丸くする。


「無洗米っていうのはね、水洗いしなくて、お水入れて炊くだけでご飯が出来るように加工されたお米のことなの」


 こころが珍しく饒舌に喋る。……そうか、こころ母さんが生きてた頃は母さんにベッタリだったからそう言うことも知っているのか。


「じゃあ、俺が買ってきた米は?」


「無洗米じゃないお米だから、お米を研ぐ必要があるの」


 ……知らなかった。というか不便だ。詐欺だ。そんなのだったら皆無洗米にすればいいのに。


「でもでも、やっぱり無洗米のお米より、普通のお米の方が美味しいんだよってお母さん言ってたの」


 そうなのか……驚きだ。いや、むしろこころの博識さに驚きだ。それ以上に自分の無知さに驚愕だ。……しかし、お米を毎回研ぐのは非常に面倒だ。予期せぬ手間だ。無洗米を買ってくればよかった。


「でも、使い切らないと勿体ないよ……」


「うん。次はよく見て無洗米を買うことにするよ」


 買ってしまったものはしょうがない。このお米を使いきるまでは甘んじて米研ぎでもなんでもしてやろうではないか。


「…………せや!」


 米を研いでみるがこれが意外と難しい。混ぜるのに意外と力を使うし、水を捨てるときに米が何粒も流れて行ってしまう。


「……なんか飯盒炊飯を思い出すなぁ」


「はんごうすいはん……?」


「うん。こころももう少ししたら野外学習的なのがあると思うから習うと思うけど、皆でキャンプに行ってカレーを作るんだ」


 まあ、俺は米を流しまくるって文句言われたので野菜切りしかさせてもらえなかったんだけど。


「大抵ご飯がビショビショになるから気をつけた方がいいよ」


「いやぁ……」


 こころが何とも言えない顔をした辺りで俺は米研ぎを終える。どのくらい洗えばいいのか分からなかったし、長くやればいいというものでもないだろうし。


 研ぎ終えた米に大体の目分量で水を張り、炊飯器にセットしてボタンを押す。


「これでよし」


 色々と苦労したが、なんとか炊飯はクリア出来たみたいだ。あとは炊き上がるのを待つのみだ。


「さて、俺はご飯が炊き上がる前に風呂掃除をしてくるか」


 ほとんどの家事をしていなかった俺だが、比較的手間にならない家事くらいは母さんが亡くなった直後からしていた。風呂掃除はそんな内のひとつだ。風呂に関しては毎日使うわけだし、こればっかりは誰かがやらないと。


「こころもお手伝いする」


 こころが進んでお手伝いをすると言ってくれるが、俺はそれをやんわり断る。


「こころはご飯が炊けるまでテレビでも見ながら待ってて。風呂場は狭いから二人も入ったら危ないしね」


 狭いは狭いが二人くらい入ったって問題はない。こころがお手伝いしてくれると言うのはとても嬉しいのだが、俺は最低限出来ることは一人でやりたかったのだ。少なくとも俺は母さんの手伝いをしたことなんて数える程しかなかったというのに、母さんは文句ひとつ言わず家事をしてくれていた。そして俺はそんな母さんを目指しているのだ。


「うん、わかった」


 こころは素直に頷いてくれた。よし、俺もサクッと終わらせるか。俺は腕まくりをして風呂掃除を始めた。



ピー


「おっ」


 俺が風呂掃除を終えてリビングに戻ってきたとほぼ同時くらいに待ちわびた炊飯器のお知らせコールが響く。


「炊けたか?」


 早速蓋を開けてみる。モワッと熱いくらいの蒸気を顔面に受けながら、その中ではご飯が炊けていた。


「おお、すげぇ、ちゃんと炊けたぞっ!」


「おおっ……」


 こころと二人して手を取り合う。ただご飯を炊いただけだと言うのに物凄い達成感だ。まあ、料理なんてまともに作ったことないしさ俺。ご飯炊くのが料理と呼べるのかはこの際おいておくとしてさ。


「とりあえず試食してみよう」


 早速炊き上がり具合を確かめるために茶碗によそう。


「こころ、食べてみて」


「うん。いただきます」


モグ


 こころは箸でご飯を少しだけつまみ口の中に入れる。こころの小さなあごが数回もくもくと動き……停止した。とても微妙な表情をしていた。


「ま、まずかったか……?」


 自分も食べてみる。ぱくり。


「う……なんだこれ、凄く柔らかい……水入れ過ぎたか……」


 ご飯はぐじぐじで、食べられるものには程遠かった。


「……そう言えばお母さんが確か、お米に張る水は、お米の上に人差し指を立てて大体第一関節くらいまでの量入れるといいっていって気がする……」


「…………へぇ」


 飯盒炊飯のときにご飯には触れさせてもらえなかったので初耳だ。調理実習のときもしかりだし。


「あとね、ご飯が炊けてすぐに蓋を開けるのも駄目だって言ってた気がする……。蓋を開けずに30分くらい待ってから開けるんだって。あ、そのときに蓋についた水滴を落とさないようにって言ってた気もする……」


「……へぇ……ほぉ……」


 こころはこの年にしては物知りだ。……いや、俺が何にも知らないだけか。学校ではいつ使うかも分からない微分積分なんて習ってるくせに、今すぐ生活に必要な最低限の知識すら何にも知らないんだから世話ない。これでは母親代わりどころか、兄としても終わっている。


「ごめんな、こころ。こんな駄目なお兄ちゃんで。全自動炊飯ジャーを使ってもご飯すら満足に炊けない兄でごめんな……」


 自分の自活能力のなさに絶望した。もうこのまま死んでしまいたいくらいだ……。いや、こころを残して死ねるわけないけどさ。

 で、飯どうしような……。やはり今日も出前か……。てか第一俺は米だけ炊いて何する気だっだんだろうか……、おかずも作らずに。バカか。実はバカなんだな俺は。俺のバカめ! バカめってちょっとワカメに似ているとか思っちゃた俺のバカな脳みそくたばれっー!


「お、お兄ちゃんっ、お兄ちゃんっ」


「……なに、こころ? お兄ちゃん今猛省&自己嫌悪&自己罵声モードなのですが」


 こころにしては強い口調で俺のシャツを引っ張って俺の気を向かせようとしていた。


「お、お兄ちゃん、こころね、これが食べたいな……」


「それは……」


 こころが俺に見せたのは今日スーパーで米と一緒に買ってきたホットケーキミックスだった。確かにこころはホットケーキが大好きだが……。


「あんまりお腹膨れないかもしれないぞ……?」


「なら、二人でいっぱい作ろうよ」


 にこりと微笑むこころ。落ち込んでいる俺を励まそうとして目にとまったホットケーキをしたのか。しかもこれならあんまり調理に手間がかかるものでもないし……。本当に良く出来妹だよ。……それに比べて本当に駄目な兄貴だな、俺は。


「……うん、そうしよう」


 そんなこんなで自炊生活一日目の夕飯はホットケーキになったのだった。

 二人でたくさん焼いて、メープルシロップをたんまり塗ったホットケーキは、少し歪な形をしていたけれど、出前のものよりはるかに美味しくて驚いた。


 まあ、とりあえず今言えることは、今日の歯磨きは念入りにしないとな、と言うことだけだった。



「……ふぁ」


 こころが小さな欠伸をする。ご飯を食べて、お風呂に入ったらすぐ眠たくなる辺りはやはり年相応の子供なのだなぁと思う。


「……もう、寝るか?」


 俺はリビングでこころの勉強を見ていたのだが、時計を見る限りそろそろこころが眠る時間なのだ。


「……うん」


 瞼を擦りながら頷くこころ。


「……抱っこ」


 しかもそんな甘えたことを上目遣いで言ってくるし。


「……仕方ないな。……おいで」


 手を広げお姫様抱っこをする。こころの身体はそれこそ羽根のように軽かった


(こころも大概ブラコンだけど、俺も相当甘いよなぁ……)


 こころは、俺がこころのそういう仕草でのお願いを断れないことを知っててやってるのか、否か。……いやまあ、正直甘えられると嬉しくて堪らないからついつい甘やかしまくってしまう自分が悪いんだけどさ。


 階段を登り、二階のこころの部屋の扉を手の空いているこころに開けさせて、お姫様をベッドに寝かせる。


「おやすみ」


 彼女の肩上まで布団を被し、電気を切って部屋から退室しようとしたのだが、


「……待ってお兄ちゃん」


 しかし、こころは俺の袖を掴んで、俺の退室を拒否した。


「……どうした?」


「……こころが眠るまで……手を握ってて欲しいの……」


 きゅっ、と小さくて暖かい手のひらが重ねられる。その手は少し震えていた。


 こころは、本当はこんなにもお兄ちゃんっ子ではなかった。仲が悪かったわけではないが、こころは母さんにベッタリだったのだ。だから、母さんがいなくなったときはどうしようかと心配したのだが、こころは母さんの代わりに俺を心のよりどころにしてくれたのだ。


 本当だったらまだまだお母さんに甘えたい盛りなのだ。だから、俺はこころの甘えなら全てを受け止めてやりたいと考えている。


 こんなに不安そうな瞳をして、俺を出来るだけ近くに置いておきたがるのは、きっと無意識の内に、いつか母さんみたいに俺が急にいなくならないかが、心配なのだろう。

 だから、俺は、そんなこころの不安を少しでも和らげることが出来るんだったら─


「……絶対にこころの手を放さないから、安心しておやすみ」


「うん…………」


 しばらく経つと規則正しい寝息が聞こえてくる。

 こころの安らかな妹の寝顔を眺めながら、俺は、改めて、思う。俺は彼女の、この安らかな表情を、この小さな命を守っていかないといけないんだなぁということを。

 命を責任を持って守る、だなんて、口に出して言うのは簡単だけれども、実際はとてもじゃないがそんなに簡単なものじゃない。守る側になって、初めて気づく、責任感の重さ、事の重大さ、重要さ。今の俺は、決して軽い気持ちでこころを守るだなんて言えない。例え、言ったとしても、それは単なるかっこいいセリフなんかじゃなくて、それは自分を戒めるための呪文のようなものなのだ。俺は、何があってもこころを守る。それを、何時如何なる時でも忘れないようにするための戒め。


 再度、こころの可愛らしい寝顔を眺め、呟く。


「俺が、守るから」


 繋いでいた手をそっと布団の中に戻し、部屋を後にする。


「こころ……おやすみ」


 俺がこころを守れるようになるまでにするべきことは山ほどある。だがとりあえずは目の前のことから片づけていこうと思う。まずは、堪りに堪った皿洗いからか……。


 俺が眠るのはもう少し夜がふけてからになりそうだった。




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