闇の滴(やみのしずく)とアズハの決意
<これまでのあらすじ>
ごく普通の少年アズハと、血の繋がらない妹のココネは、カズリの祭儀を執り行う山へとたどり着いた。
時間を共に過ごすうち、ふたりの距離は少しずつ縮まってゆく。
しかし、ココネが旧世界を滅ぼした「悪魔の燃水」を使う一族という告白に、アズハは言葉を失う。
ココネを置き去りにするようにその場を後にしたアズハは、ココネの悲鳴を聞き、踵を返す。
だが、そこで目にしたものは、世界を腐らせる『闇の滴』だった。
消化液を撒き散らす食腕がココネに迫ろうとしていた。
『闇の滴』(やみのしずく)――スライムともアメーバとも呼称されるそれは、不気味な黒い塊となってココネの方へと向かってきていた。
その大きさは大型の犬か、それ以上だ。
それは感覚的なもので、正確な大きさはもっと大きいのかもしれない。
全体が粘液質で覆われて、不定形であり、ぐねぐねと全体が波打っている。伸びては縮む食腕がヌメヌメと幾本も伸びては縮むを繰り返す。
初めて目の当たりにした化け物に、アズハは全身が総毛だった。
それが黒く濡れたロープの塊のように、ココネが座り込んだ場所を目指して、坂道の上からずるり、ずるちと近づいてくる。
その距離はもう5メルテ(※5メートル)も無いだろう。
アズハは弾かれるようにココネの傍に駆け寄った。
「何やってるんだよ!? 立って! 逃げるんだよ!」
「アズハ! あ……足が」
恐怖と、驚きと、嬉しさと、全部がごちゃ混ぜになった表情でココネがアズハを見つめた。
「立てないの!?」
その問いかけにココネが頷いた。目が涙で潤んでいる。見ると足首が赤くはれ上がり、血がにじんでいる。
――僕が、置いてけぼりにしたせいだ。
自責の念に駆られながらも、アズハはこの場から逃げようとココネの腕を引っ張りあげる。立たせようと踏ん張っても、ココネはまるで腰が抜けたかのよう動けなかった。
「もう……いいの、逃げて……」
ココネがアズハの手を押しのけた。
「なっ!?」
「アズハだけなら逃げられるから」
アズハ言葉を失った。
暗い瞳を伏せ、ぎゅっと身をじじめるココネと、背後に迫る化け物に視線をめぐらす。
坂道の上から迫る『闇の滴』は僅か3メルテも無い距離まで近づいていた。時折その足元で、ジュッ、と酸で溶かされた草木が白煙を上げる。
ここにいては生きながら骨になるまでしゃぶられてしまう。アズハの全身からどっと汗が吹き出した。
「なんで……だよ」
震える拳をアズハは握りしめる。
「……もういいってなんだよ!? どうして転んだ時呼ばないんだよ! どうしてたすけてって……言わないんだよっ!」
物凄い剣幕で、アズハはココネを怒鳴りつけた。
その剣幕に、ココネは思わず目を丸くして、
「だ、だって……わたし、呪われた一族の……一人なの」
「――違う!」
それは、今まで声を荒げたことの無いアズハの初めて聞く怒鳴り声だった。
自分の感情をぶちまけるように叫ぶアズハを、ココネはじっと見つめた。
「違うんだ。ごめん。僕がどうかしてた。悪魔の力とか、そんなのどうだっていいんだ。僕は今……ココネの兄貴なんだから!」
その渾身の叫びに、ココネの瞳に光が戻った。
「名前……初めて呼んでくれたね」
「……は!? ば、ばか! こんな時に何言って……」
「ありがと……アズハ」
アズハの頬がぼっと朱に染まった。
――絶対に助ける。
決意の宿ったアズハの視線と、涙を浮かべたココネの瞳が交差した。
だが――すぐ背後でびちゅる、と気味の悪い音が響いた。
盲目の魔物の獲物を探る食腕が、じゅるりと手を伸ばせば届く距離まで迫ってた。
「……嫌! 怖い」
悲鳴を上げるココネの手をアズハが掴む。
「心配するな! 置いて逃げるとか、そんなのは――無いんだからなあッ!」
アズハは次の瞬間、ココネをがっしりと両腕で抱き抱え、全身で、全力で、渾身の力を籠めて持ち上げた。
いわゆる――お姫様抱っこ。少年の両腕には重すぎる体重を気合いだけで地面から引きはがした。一人の少女の命の重さを全身に感じながら、憤然と立ち上がる。
「うおおおお――――――――――ッ!」
「え、うそ!? 無理だよ、こんな」
「黙ってろ! 大丈夫だってば。今朝だってパンを余分に……もらったんだから!」
アズハが不敵に口角を吊り上げた。額には青筋が浮かんでいる。
粘液の塊が足元に絡みついた。冷たく、濡れた死神に心臓を鷲づかみにされたかのような感覚だった。同時に、ぶちゅぶちゅと泡立つ不気味な音が聞こえた。
「逃げるんだよぉおッッッ!」
気合いの雄たけびと共に、足に絡みつく粘液を蹴飛ばし、坂道を一気に駆け降りた。
木の根を飛び越え、決して早くはない足取りだが、確実に距離を離す。
一歩地面を踏みしめるたびに、全身の骨と筋肉が悲鳴を上げた。
闇の滴は目の前から獲物が消えたことに気がつかないのか、ココネが座り込んでいたあたりで丸く固まると、ぶるぶると身を揺らした。ジュウ――という、植物が酸で焼け落ちる音が背後から響いた。
「ふんぬぅうううううッ!」
「アズハ……!」
「いいからつかまって」
「ん……」
ココネは細い腕をアズハの首に回し、ぎゅっとしがみついた。
甘い香りと、暖かく柔らかい身体の感触に、アズハは思わずはっと息を飲む。だが、今はそれどころではなかった。
自分に出来ることは可能な限り遠く、早く、ここから逃げる事だけだ。
――戦える相手じゃない!
本能と直感が叫んでいた。
自分は伝説の勇者でも、装備を持った戦士でもないのだ。
『闇の滴』――それは図書館の本で見た、おとぎ話の化け物ではなかった。
――盲目に手当たり次第に喰らいつくす、本能で動くだけの獰猛で巨大な原初の化け物だ。
ココネを支えるアズハの手のひらは汗ばみ、熱を帯びていた。
(つづく)