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肆 桜の大樹が涙する春

 暗闇に閉ざされた世界の中で漂っていた。大河の流れに浮かんだ木の葉となって、ゆらりゆらりと満ち足りた平安に身を委ねていた。もし、胎児の記憶があるのならば、羊水に浮かぶ感覚と比較できるかもしれない。

 そんな心地良さに、死とは、生まれることかもしれない。などと夢見心地に考える。

「二人、聞、える? も、だ、……ぶ」

 聞いたことがあるような声。空耳かもしれないと思いながら、耳を澄ます。

 もしかして、ここは賽の河原か? だったら、三途の川の渡し守って奴は、随分と優しそうな声をしているんだな。

「那智! 起きて……」

 船が揺れた。大波が来て沈没しそうな勢いに、船酔いしそうになる。三半規管が耐え切れなくなって、全身が眩暈に苛まれる。

 これは、もしかして、天国ではなくて地獄に来てしまったのか。寂寥感に襲われて、思わず手を握った。すると、柔らかさが伝わってきた。温かで優しい質感が、一人ではないことを教えてくれる。

 その質感が不安から解放してくれることを悟り、ゆっくりと引き寄せた。感じるはずが無いのに、桃のような甘い匂いを感じて、反射的に甘噛みした。

 少し苦くてちょっとしょっぱかった。

 それでいて、懐かしさがあった。遠い昔を思い出して……。いると、再び頬に痛みを感じた。今度は、鉄砲塚に殴られた左頬だけではない。両方の頬がズンズンと痛くなり、目を見開いた。

 大量の光が飛び込んできた。照明が故障したトンネルから出てきたときのように眩しくて、視力を失った。が、すぐに、回復していく。

 と、目の前に、桜菜がいた。彼女の瞳に僕の姿が映っている。一体、何が起こっているのか理解できない。だから、声を出そうとした。そして、気づいた。

 桜菜の指を咥えていることに。

 でも、何で指を咥えているのか、さっぱり理解できない。だから、もう一度、甘噛みしてみた。だって、そうしてみたら、大事なことを思い出せるような気がしたから。

 しかし、当たり前のことだが、何も思い出すことが出来ない。いや、正しく言うならば、何も考えずに噛んでいたことにだけ気づいた。けれども、どうすればいいのか、混乱の魔法が解けない状態では、チェーンがぶちきれた自転車のように頭が回転しない。とりあえず、もう一度だけ噛んでみようか悩んでいると、桜菜が目を吊り上げた。

「みんな、見てるから。止めてよ」

 強めの口調で言われて、言葉を失ったかのように口を丸く開けた。

 指を解放された桜菜は、体をずらした。だから、僕は身を起こした。そして、桜菜が白っぽいブラウスを着ていることに、自分が家を出た時と同じジャケットを着ていることに気づいた。


 さっきまで上空に立ち込めていた雨雲は、食べ残した綿飴のように薄く白くなっていた。所々、日差しが漏れてスポットライトのように照らしている。

 僕はエクトゲートを探そうとした。しかし、その必要はない。不気味な気配を漂わせる核を無意識のうちに見つけていた。

 本体は、相変わらず禍々しい(あな)だった。人々から全てのものを奪い去ってしまいそうな闇が蠢いている。

 パンドラの箱に残ったものが希望であるなら、その真逆、希望以外のもの全てを飲み込もうと欲するものがエクトゲートだった。

 相変わらず、最悪で災厄の存在であることは間違いない。けれども、周囲の環境は異なっていた。

 僕が座っている場所、ここは数分前までは、膨張したエクトゲートの影響下だった。だが、既に霧のような闇は無い。闇が消滅したのは、僕たちの努力の結果なのか、エクトゲートがトリプルタワーからのビームで固定されているからか、は解らない。けど、一つだけ言えることがある。どうやら、停止していたユグドラシステムが稼動している。

「これで、もう安心だね」

 僕が話しかけると、桜菜は顔を逸らした。

「エクトゲートは、ね。でも……、後ろ」

 体を捻るとタワーが見えた。特別展望台の上に人がいる。多分、委員長と鉄砲塚、そして……、母と父らしき人物が見えた。

「何も心配することなんか無いじゃない。それとも、僕の両親を紹介した方がいい?」

「ば、馬鹿っ! 何を訳解らないこと言ってんの」

 桜菜は、唾が飛びそうな勢いだ。赤い顔で両手を握りながら文句を言って……、脈絡も無しに噴出した。

「? どうしたの?」

「だって、那智の顔……。酷いことになってる。左の頬は赤いモミジのような手形があって、右の頬はグレーチングの痕がついて、オセロのマスのようになってる」

「それは、酷い。でも、オセロをやるときは便利かもよ?」

「無理無理。マジックで書いたら、全部黒になっちゃうから」

 桜菜がカンラカンラと笑ったので、僕も思わず微笑んだ。

「じゃあ、行こうか」

 何処へ? なんて訊かれなかった。僕らは、下を見ないように通路を歩いて、出入り口に辿り着いた。

 先程まで通せんぼをしていた生体科学省の人間はいなかった。その代わりに官房長官が、委員長が、鉄砲塚が、そして両親がいた。医師や看護師は脇でいつでも飛び出せそうな体勢でこちらを伺っている。

 展望台から瞬間移動したわけではない。僕らの歩みがあまりにも遅かっただけだ。でも、仕方が無かろう。生きているのが不思議なくらい体がボロボロだったんだから。

 ガラス戸を開いてタワーに入った。

「おかえりなさい」

 委員長が手を差し出してきた。僕らはお互いに目を合わせてから、握手をするべく手を出した時、前のめりに倒れてきた。僕は一歩前に出て受け止める。と同時に、医師が看護師に指示を出す。二人で抱きかかえ、そのために用意していたような長椅子に寝かせた。

「待ってください」

 捻りだすような委員長の声に、医師は眉をしかめ眉間にしわを寄せる。それでも、看護師に体を起こさせる。

「二人とも、利用してごめんね」

「別に、利用するとか、されるとか、そんなんじゃないと思うんだ。私、みんなを守りたかったそれだけだから」

「そうそう。すっごく大変だったけど……」

 僕が桜菜を見ると、顔を背けた。耳が赤くなっている。いや、耳だけじゃない。茶碗いっぱいの唐辛子でも食べたかのように、顔全体が真っ赤になっている。

「忘れられないような経験だったと思う」

 って言ったら、顔が赤いままの桜菜が僕の頭を両手でつかまれ、

「えーい、忘れてしまえ。綺麗さっぱり忘れちゃえ」

 と頭を左右にシェイクされた。

「やめやめ、ボロボロなんだからぁ」

「これで、全部忘れてくれた?」

「無茶言うなって。桜菜だって覚えているんだろ」

「あったりまえ。ぜーったいに忘れてあげないから。一生」

 顔を斜めに上げて鼻をツーンと伸ばした。そして、こちらを観察するように一瞬だけ流し目。

「それにしても、委員長、無理しすぎ。今すぐ、病院に行かないと駄目だよ」

「そうだよ。どうして来たの? こうなるって判っていたのに」

「だって、人に命かけさせといて、自分だけ高みの見物ってわけにはいかないでしょ。学級委員長だし」

 ふふふ、と笑い、苦しそうな表情を見せた。と、看護師に無理矢理寝かされる。

 全く、どこまで本音を見せているのやら。真面目に聞いていたら、この学級委員長は、日本を救う気かもしれないって勘違いしちゃうぞ。

「君たち、本当によく頑張ってくれた」

 横で微笑ましく見ていた官房長官が、頼んでもいないのに勝手に僕と桜菜と握手をした。

 その様子が気さくに感じられ、こんな偉い人は踏ん反り返っているのだけが仕事だと思っていたから、僕も桜菜も意外に感じた。だから、二人で顔を見合わせながら目を丸くする。

「私が、娘に無理矢理に君たちを連れてきてもらったせいで、重大な現象に巻き込まれることになり、真に遺憾に感じている。しかしながら、霊資源管理省と霊資源エネルギー研究所の協力で、エクトゲートを再び、管理・制御できることになった。改めて御礼申し上げる。詳しいことは主幹研究員、説明を」

 官房長官が、父に向かって掌を上にして指し示すと、父は一歩前に出た。

「本来は暴走するはずでなかったエクトゲートだったが、生体科学省が法律の不備を突き故意に暴走させた。しかし、君たちの活躍のおかげで、ゲートのエネルギー吸収が十秒程度停止してくれた。その間に、新しいシステムでゲートを押さえ込むことが出来た」

「新しいシステム?」

「人間の生命力ではない動物性プランクトンを利用するシステムだ。ただ、今回は、完全には生命力が足りなかったから、一部の純人間に協力してもらったけどな」

「ふーん」

「何か訊きたいことでも?」

「研究は、一段落ついたってこと?」

「まあ、そうだな」

「それじゃあ、旅行でも連れてってもらわないと。散々、迷惑をかけっぱなしだったんだから、それくらいオッケーだよね。もし、嫌だって言うなら……。エクトゲートを消滅させてやる」

 無論、消滅させることなんかできるわけない。でも、こんなことでも言わなければ、強情な父が首を縦に振るはず無い。こんだけ言っても渋い顔だ。母は、とても嬉しそうな表情になっているって言うのに……。

 その父親の表情が和らいだ。

「何を言っているんだ? お前には学校があるだろ。しばらく、一人暮らしになるが、学生は黙って勉強を頑張りなさい」

「ごめんね、那智。夏休みはみんなで出かけましょうね」

 にんまりした母が嬉しそうならば、それでいいや。

 そもそも、こんな家族団らん、タワーの中でする話じゃない。

 横向いて長椅子に寝ている委員長は、目を閉じながらも耳をピクピクと動かしているし。

 それに、鉄砲塚、どうしてお前が恥ずかしそうに頭を掻いている。おかしいだろ。

「ねぇ、だったらさあ……、こんなのどう?」

 桜菜は桜菜で、さっきまで死にかけていたのを忘れたのか、メチャクチャ元気でホント、ワケガワカラナイヨ。

 でも、そんな空気も悪くない。僕は振り返って、安全な状態に移行したエクトゲートを見つめていた。


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