参 ユグドラシステムの下で
ユグドラシステムは三つのタワーから出来ている。一つ一つはエッフェル塔や東京タワーと同じような形状だが、高さが段違いで、七百七十七メートルある。と言っても世界で一番高い建築物は、三千メートルを超えるから、それと比較すれば小さいほうだ。しかし、地震の多いこの国では、トリプルタワー以上の建築物は存在しない。お互いを監視するかのように、正三角形の頂点の位置に配置されたタワーは、それだけで威圧感があった。そんな大きなタワーが三つあるなんて無駄のようにも感じられる。しかし、電波塔ではないトリプルタワーがエクトゲートを制御するためには、最低限の設備である。
エクトゲートは、平面状で見ると、トリプルタワーの重心地点、高さは、約六百六十六メートルの位置にある。外殻は、通常直径五十メートルほどで、夕暮れの日陰のような暗さだが、科学的には無害で霊的現象を発しない。本質は中心部に現出している核で、直径十センチメートルにも満たない黒色球状の存在だが、それこそ、エネルギー事情と人間を多大に変化させてしまった源である。
エクトゲートから発散される霊気場は、タワー地下に埋められた霊気変換装置に働きかけ、関東一円をまかなうことの出来る電気を発生させる。と同時に、人間を霊化した。
エネルギーサイクルを無視した魔法。良いことだけしかないように思われたエクトゲートだったが、人々は、すぐにそんなものが幻想だということに気づいた。
霊気場を発生させる分、いや、その倍以上とでも言うべき生命力を吸い取ることがすぐに確認された。特に、霊化人間の方が影響を受けた。死ぬ人間こそ多くは無かったが、体調を崩し病院に運ばれた人間が続出した。
しかし、消滅させることはできなかった。その時、既にエネルギーインフラをエクトゲート・ユグドラシステムに頼ることになっていたからだ。
そんな奇妙なバランスによって成立していたユグドラシステムの塔の下に、僕は立っていた。真下にいると、あまり大きいとは感じられない。近すぎると逆に見えなくなる物ってあるんだ。なんて考えながら、呆然と見上げていた。
「田舎ものくせーなー」
鉄砲塚が馬鹿にしたような口調で言う。けど、お前だって数分前には同じような反応をしていたじゃないか。
目は口ほどにものを言う。
きっと、僕の瞳は不平不満を映していたのだろう。察知したのか、鉄砲塚に睨みつけられた。
しかし、引く気にもなれない。と言うのも、どうして鉄砲塚、お前までここにいるの? 僕は文句を言いたかったからだ。
事は、二時間前に、委員長の車に乗ったときのことだ。
委員長の車――正確に言えば、委員長の父の車――は、私設秘書がハンドルを握っていた。助手席側の後部座席にシートベルトを着用した委員長が座っていた。眼鏡はしていないが、いつもと同じポニーテールだ。ピンクのフリルブラウスにベージュのカーディガン、ブルーのデニムのストレートパンツで足を組んでいた。
僕が運転席側の後部座席でシャツのボタンを留めていると、助手席にガードマンがこちらを向いた。と、思ったら、ガードマンなどではなく、鉄砲塚だった。
そのことを含めて委員長に説明を求めたが、到着すれば解るから、と言ったきり携帯電話と睨めっこを続けていた。時々、はい、と言い続ける罰ゲームのような電話がかかってくる。それ以外は、隣に座っているにもかかわらず、僕のことなど忘れてしまったかのようだった。
今もそうだ。
僕と鉄砲塚を無視して電話をしている。
運転をしてくれた私設秘書は、別の指示が与えられたとのことで、僕たちを降ろしたら走り去ってしまった。
タワーに入ろうとしても、自衛官が入り口を封鎖している。だから、昇ろうとしても無理だ。どうせ、他のタワーも同じような状況だろう。
入り口に近寄っただけで追っ払われる可能性もあるし。
だから、暇だったんだ。僕も鉄砲塚も。
手持ち無沙汰だったから、僕らは、退屈しのぎにからかいあうくらいのことしか遊びを思いつかなかったんだ。些細な言い争いをすることで、ストレスが解消されるなら、安いものだ。
ただ、どんどんとエスカレートしてくると、笑えなくなってくる。
「和知、何で昨日、謝んなかったんだ!」
「別に、僕は悪いことしていないって。そもそも、あれは、不可抗力だし」
「不可抗力でも何でもいいんだよ。おめーが悪いことをしたんだから、そのことに対して謝れっつーの」
「何でそんなに桜菜の肩を持つ。純人間は嫌いだったんじゃないの?」
「うっせ、馬鹿」
いつ掴み合いに変化したとしても不思議ではない。
鉄砲塚は僕との空間を消滅させるべく一歩前に進み、崩れ落ちた。肩膝をついて、焦点がずれたような目つきで、コンクリートの地面を見つめている。
「大丈夫?」
「ああ、何とか。これが、エクトプラズムショックか。結構、きついもんだな」
「エクトプラズムショックは、アレルギー反応だからちょっと違う。けど、エクトゲートの強力な影響下にあるから、生命力を吸われているし、霊的バランスも相当、崩れていると思う」
「そっかー。あいつは、これよりもっと辛い体験をしたんだな」
貧血になって倒れるんじゃないか? って思うくらい顔の紅みが失われている。それでも鉄砲塚は口を開いて大きな呼吸をしながら仁王立ちをする。
「家系的にエクトゲートの影響を受けやすいんじゃない? だったら、無理をしないでユグドラシル半径外に出たほうが……」
「黙ってろ。これくれーベンチプレス百キロに比べりゃカスみたいなもんだ。それより、和知はどうして平然としてられるんだ」
「多分、大丈夫な家系なんじゃない? 母親は純人間だし」
そう言いながら、委員長を見た。気になったんだ。生命力を吸収されて倒れそうになっていないかと。
委員長は、丁度電話が終わったようだった。ゆっくり歩いてきて、僕に抱きついてきた。と、勘違いしたのは一瞬だ。マネキンを抱えるように、力の抜けた委員長を両手で支える。
「何やってんだ!」
鉄砲塚の罵声が飛んでくるが、不可抗力だ。僕は何もしてない。でも、そんなことを言う余力など無い。バランスを崩した状態で、力の抜けている人間を支えるのは、思ったより大変だ。
このまま、コンクリート作りの地面に寝かしたほうがいいのか。なんて考えが頭をよぎる。ポニーテールから漂うシトラスの匂いに判断力を奪われながらも、僕はベストアンサーを模索する。
「一度、ユグドラシル半径から出よう」
僕は鉄砲塚に言った。だが、低い唸り声が返ってきただけ。相当厳しそうな様子の鉄砲塚と意識が朦朧としている委員長がここにいてもメリットは無い。
しかし、それが判っていても、どうすることも出来ない。普段ならばいるかもしれないタクシーが見当たらない。いや、タクシーだけじゃない。普通車もバスもトラックも、あらゆる車両が走っていない。
どうしようかと迷っていると、マネキンと化していた委員長に掴まれた。意識を取り戻したらしい。僕は支え棒代わりにされ、もたれかかられる。
「ありがとう。那智君」
「こんなんじゃ、委員長も鉄砲塚も倒れちゃうよ。ゲートの影響は、指数関数的だから、これからもっと悪化するかもしれない。そもそも、エクトゲートが落ち着いた状態ならまだしも、暴走状態だし」
「心配しないで。もうすぐ、父が到着するから。薬を持ってきてくれるまで、ちょっとの我慢」
「でも、予定より遅れすぎじゃない? 何らかのトラブルがあったなら、これ以上、ここにいるのはとても危険だよ」
「リスクはある。判っている。けど、計画通り待つしか……」
目を細めている委員長は苦しそう。顔を僅かに下に傾け、肩で息をしている。
その息遣いが僕の胸に当たり跳ね返る。どうすることも出来なくて、背中を擦る。咳込む病人を看護するように、柔らかな背中をゆっくりと上下させて撫でる。
効果があるのか無いのかは判らない。でも、首下を撫でられた猫のように目を閉じて全身を預けてくる。
ホントに大丈夫なのだろうか? 今すぐ、救急車を呼ぶべきだろうか。
委員長も心配だが、先程まであれほど元気そうだった鉄砲塚の調子もかなり酷そうだし。仁王立ちし続けることも出来ず、腰を曲げて両手を膝について固まっている。背中が大きく上下していなければ、タワーのために飾られている彫像と勘違いしてしまうほど大人しい。
僕は、救いの主が現れないかと、タワーの前を走る道路を真剣に観察していた。すると、願いが通じたのか、パトカーが先導した黒塗りのセダンが現れた。
委員長がいなければ駆け寄っていただろう。
僕が注視していると、スーツ姿のボディーガードと一緒に、委員長の父が……降りてこなかった。その代わりに、何故か桜菜が現れた。
「委員長……」
「えっ? 来た?」
「うん、桜菜が」
「そう。じゃあ、いかないと」
「駄目だよ。警備の人とか沢山いるから」
桜菜は、まるで犯罪者のように俯いていて僕たちに気づかない。と思ったら、すぐにボディーガードに囲まれて見えなくなった。スーツ姿のボディーガードは短髪で肩幅が広い。近づいたら瞬時に吹き飛ばされそうだ。
テレビで見れば、均質的な工業製品かよ。って突っ込みたくなるだろうが、目の前の彼らを見てそんな冗談を言う余裕など無い。
さらに、警察官が数人、周囲の警戒と一団の先導をしている。
閣僚並みの警備状況に、驚くと共に、ただ、邪魔にならないように道を空けるくらいしか僕には出来そうも無い。
呆然と見ていると、委員長がモソモソと動き出した。
「那智君、観音寺さんを止めるの。今が最後のチャンスかも」
「でも、車内の計画の通り、委員長のお父さ……いや、官房長官の指示で……」
「そんな時間無い。失われてからじゃ、取り戻せないものだってある。昨日のこと、わだかまりがあるのも解るけど、そんなことどうでもいいじゃない」
「そんなつもりじゃないんだけど……」
「っっつっだらねーことぐちゃぐちゃ悩んでんじゃねーよ。おめーがやらねーんなら、俺がやってやるよ」
モニュメントが突如、魔法の息吹を吹き込まれたかのように立ち上がった。血の気の引いた様はさながらゾンビ。それでいて、神社の門番のように迫力がある。
そんな鉄砲塚だが、二、三歩近寄ったところで固まった。
恰幅のいい中年の警察官が、明らかに発砲することも辞さず、とばかりに、拳銃を構えたからだ。
「それ以上、近づくと霊資源生体法第十四条に基づき逮捕する」
警察官に威圧的に言われて、委員長が後ろを向いた。そして、弱弱しい力で僕は押しのけられた。
「こちらは、武装もしていない民間人なのに銃を向けるのですか?」
ゆっくりと歩き出す委員長に複数の警察官が狙いを定める。それでも委員長は背筋を伸ばして近づいていく。
周囲に緊張感が走った。いつ本当に撃たれたとしても不思議ではない。
僕は、委員長を止めるべきだ。と、頭の中で理解していた。それなのに、動くことが出来ない。解っていても、足がすくんだ。
鉄砲塚も同じ、電気を失ったベルトコンベアのように停止している。
「再度警告します。停止命令に従えない場合は、テロリストとみなして身の安全は保証しません」
ボディーガードの先頭に立っていた若いスーツ姿の男が、委員長に向かって柔らかだが、事務的な口調で言い放った。
「私たちは、観音寺さんと話がしたいだけ。それなのに、テロリスト呼ばわりするのですか?」
委員長は自分の意志を曲げる気はないらしい。警告を無視して、一歩、一歩、魂を削りながら進んでいる。
「それ以上の接近は重犯罪として処分する」
中年の警察官が大きな声で言うと、委員長に狙いを定めていた若い警察官が地面に向かって発砲した。よくある威嚇射撃……に思われたが、風船が割れるような発砲音と共に委員長がふらついた。
頬にカッターで斬りつけたような傷が走り、つららのように所々に血が滴る。
後から聞いた話によると、跳弾がかすったのでは? との話だった。
だが、そんなこと知らない僕も鉄砲塚も体が熱くなった。僕らを動けなくしていた魔法は、一瞬で融ける。
急いで駆け寄ろうとしたら、委員長は両腕を広げて立ち止まった。
その姿が、慈悲深い十字架に空目する(デジャブする)。不吉な予感が心をよぎり、動きが鈍る。まだ、警察官の銃口は僕らに向いたままだ。いつ火を噴いたとしても不思議ではない。
祈りながら、委員長の横に駆け寄る。が、委員長は、僕のことなど気にしていないようで、ずっとボディーガードの塊を睥睨している。
「観音寺さん。どうして逃げるの?」
「身柄を確保する。抵抗せずに、その場にしゃがみこみなさい」
「どうして、そんなことを」
「許可されていない人間を近づけるわけにはいかない。自爆テロの可能性もある。もし、命令に従わないならば、足を打ち抜くことになる。我々もそんなことはしたくない。だから、離れなさい」
「出てこいよ桜菜。話くらいしてもいいだろ」
「あのー、皆さんすいません。一分だけ、話していいですか?」
塊の中から声が聞こえてきた。と同時にボディーガードの囲いが解かれた。僅かな隙間だった。それでも、桜菜の表情が少しだけ見えた。
「昨日のことなんだけど……」
僕が話しかけようとした。すると、桜菜は自分のことを話し始める。
「焼肉、ホント美味しかったよ。いやー、あんな風に焼肉パーティーなんてしたこと無かったから、いい思い出になったよ。やっぱり、一人で食べるより、みんなで食べたほうが、凄く楽しいよね。百倍位時間に余裕があれば、トランプやりたかったんだけどね。大貧民。ネットでかなり鍛えたから強いよ私。那智じゃ相手にならないかも。でも、そうなっちゃうと面白くないかな。ばば抜きの方が、バランスがいいかもね。って、トランプはどうでもいいんだった。私、みんなに言わなきゃいけないことがあったんだ。昨日、言いそびれたからね。短い間だったけど、親切にしてもらって嬉しかった。みんな、ホント、ありがと。でも、ね……。ここからは、私の問題で、みんなと関係ないから。つきまとわないんで欲しいんだよね。いい加減、迷惑だし、ウ・ザ・イ。だから、ここで、みんなとは、さよなら。バイバイ」
桜菜は僕らから顔を背けた。目を細めてエクトゲートを睨みつける。
釣られて、僕もエクトゲートを見上げた。墨汁が染みこんだ綿を敷き詰めたような空、それが真っ白に感じられるほど黒いエクトゲート、あるはずの無いものが存在していた。まるで、物理法則を超越した存在が、巨大な針で世界に穴でも開けたかのようだった。あんなものが無ければ、誰も苦しまないのに……。
「ちょっと、待って観音寺さん。話は終わっていない」
僕がエクトゲートを気にしていると、隣で委員長が枯れた声で叫んだ。
エクトゲートから、桜菜に視線を戻そうとした。しかし、ボディーガードに囲まれて姿は見えない。しかも、ボディーガードの固まりはタワーに向かって動き出している。
「そうだよ。まだ、話は……」
「既に、約束の一分は経過した。それに本来、民間人は、この区域への立ち入りも制限されている。抵抗せずに命令に従い、その場にしゃがみこみ、両手を地面につけ」
中年の警察官は、命令してきた。他の警察官も、まだ、こちらを警戒したままだ。
「みんなは、私の友達です。だから、手荒なことは、絶対に止めてください!」
桜菜の金切り声が聞こえてきた。気づくと、離れかけていたボディーガードの集団が動きを停止している。
「申し訳ございませんが、ご友人の方は、厳しい指導程度にしていただけませんか?」
先程の若いスーツ姿の男が警察官に言うと、中年の警察官はあからさまに顔を歪めた。
「わかりました」
一部の警察官たちが、拳銃を腰のホルスターにしまってから、僕たちに近づいてきた。先程のように、発砲される恐怖は無い。しかし、威圧的な態度は変わらない。僕は抵抗をしなかったにもかかわらず、後ろ手に手錠をかけられた。
数分前まで気丈な対応をしていた委員長も、桜菜がタワーに入ってしまったのを機に、力が抜けてしまったようだ。うなだれたまま、手錠をかけられている。
鉄砲塚などは、地面に両手両膝をついている。命令に従ったと言うより、エクトゲートの影響で、立っていられないのだろう。
何とかしなければならない。体調が万全なのは、僕だけだ。つまり、冷静な判断が出来る僕が二人を守らなければいけない。
「二人を病院に連れて行っていただけませんか?」
「それは駄目だ。まず、署に連行し、事情聴取を行う。しかるべき後に、必要ならば病院に行くことになるだろう」
「それは、明らかに無理です」
「無理かどうかは我々が判断する。署まで戻れば、霊力安定化剤が常備されているから問題ない」
僕は抵抗を試みるが、警察官は意にも介していない。まずい。このままでは、警察の意のまま連行されてしまう。助けを求めたわけではなかった。が、ふと、委員長を見ると、虚ろな目をしていた。意識を失っているのかと危惧したが、かはっ、と小さくまとまった息を吐き、目を細めて眉間にしわを寄せた。
「そ、もそも、どんな容疑で私たちを逮捕するのですか? 不当逮捕で、は?」
「霊資源生体法に基づいて……」
「あなた、たち、生体、科学省の特、別司法、警察職員で、すか?」
「いえ、これは、現行犯として……」
「要件を、満たして、ない。弁護、士へ、電話して、い……」
委員長は崩れ落ちた。まずい。想像しているより、症状の進行が早い。
最悪だ。桜菜と話も出来ず、委員長と鉄砲塚が倒れている。
何て、自分は無力なんだ。嫌気がさしていた。このまま二人と同じように倒れてしまいたかった。しかし、耐性がある。多少のだるさはあるものの、問題はない。
ならば、委員長の抵抗を無駄にはしない。
「今すぐ、拘束を解いて病院に連れて行ってください。若しくは、署から、至急、薬を持ってきてください。その後で事情聴取でも逮捕でもなんでも受けますから。もし、ここで二人にもしものことがあれば、大問題になりますよ。彼女は、官房長官の娘なんですから」
警察官に動揺が走った。今までの横柄な態度が、一瞬にして変化したと感じたのは気のせいだろうか?
「適当なことを言うのはよせ。何らかの証拠でもあるのか」
「証拠とかどうでもいいじゃないですか。後から困ったことになってあああの時に言っていたことは正しかったんだ。なんて言っても意味ないじゃないですか。もし嘘だったらその時に僕はどうされても構わない。だから今すぐ何とかしてください!」
唾を飛ばしながら、一呼吸の早口でまくし立てる。時間が無い。どうしようもないほど時間が無い。
僕が焦るのとは逆に、警察官も別の意味で慌てだした。相談を始めると同時に、数人がパトカーに向かって走り出す。
一分がこんなに長いなんて感じたのは、初めてかもしれない。でも、僕にできることは祈ることだけ。
警官たちは怒鳴りあっている。お互いに手の届く距離で唾を飛ばしあっている。パトカーでドアを開けながら無線連絡をしている警官も大声を上げている。
そんなことしていても問題の解決にならないのに。僕は手錠を嵌められたまま、委員長に近づく。不意に、春風が通り抜けた。まだ、肌寒い冬の気配を残した風が、冷蔵庫を開けた時と同等の冷気で世界を包み込む。体中が鮫肌に占領されそうなくらい震えながら、今にも雨が降り出しそうな空を見上げた。
すると、僕が見るのを待っていたかのように、閃光が瞬いた。数秒ほど遅れて落雷の音が響きわたる。光と音の時間差を考慮した結果、距離はある。
でも、すぐにでもこの場所を離れるべきだ。と判った。それが解らずに揉めている大人たちの何て愚かなこと。
二人を担いででも逃げ出したかった。しかし、手錠がある限り両手の自由は奪われている。判断を迷っているなら、これだけでも外してもらいたいものだ。委員長が倒れている横にしゃがみこんだ。顔色を見るとマネキンのように生命力が失われている。
「大丈夫?」
小声で委員長に話しかけると、微妙に眉が動いた。ように見えた。さすがに、これ以上は待てない。
「何をやっているんですか! 今すぐ病院へ連れて行ってください!」
僕が叫んでも、警察官たちは、困惑の表情を浮かべているだけ。
何を考えているのか全く理解できない。自分で決定できないならば、権限を持っている人間に許可を取ればいいだけじゃないのか。
「何とかしてください!」
僕の必死の叫びと同時にクラクションが鳴り響いた。
何事? と思い音のほうを見ると、国旗のついた政府公用車が、歩道を乗り上げ強引にこちらに向かって突っ込んでくる。線香花火が飛び散るように警察官がその場を離れると、車は目の前で停止した。後部座席のドアが開き、白衣姿の老年の男が降りるやいなや、駆け寄ってきて委員長の前でしゃがみこむ。
「状態は?」
「五分前くらいから症状が悪化し、一、二分前に倒れました。呼吸は浅く少なくなっています。脈は、……」
手錠を見せようとしたが、白衣姿の男は興味無さそうに鞄から注射器とアンプルを取り出す。
「教授、容態はいかがですか?」
声のほうを向くと、白衣姿の中年の男性と女性が一人ずつ駆け寄ってきた。どうやら、目の前で停止した車とは、別の車に乗っていたのだろう。
「大丈夫だ。見た目ほど悪化していない。フェネチルアミン系のガルゴイルを静注したからすぐに改善するだろう」
教授と呼ばれた男は、中年の男に委員長を預け、鉄砲塚に取り掛かる。
「こちらも問題ない。正確なところは病院に戻って検査しないと保証できないが」
僕は一安心すると力が抜けた。貧血になったときのように周囲が暗くなり、気がついたらその場に座り込んでいた。
冷たいコンクリートに胡坐をかいていると、大きな声が聞こえた。
「この場の責任者は誰だ?」
「私ですが……」
「どのような権限で、この若者たちを逮捕したのか?」
「それは、霊資源生体法に抵触する可能性が……」
「可能性? あなた方は、可能性で若者たちに手錠をかけるような真似をしたとでも、言うのか?」
「い、いえ、あくまでも警備業務に支障をきたす怖れがありましたので……」
「先程と話が変わっているじゃないか! そんな一貫性が無い状態で逮捕したとでも言うのか。どうなっている。長官に報告するから所属を明示しろ」
「申し訳ございません。単なる補導ですが、行き過ぎた指導があったかもしれません」
「私に謝らなくてもいい。若者たちに謝りなさい」
話し声が途切れると、僕の手錠が外された。開放感と爽快感で思わず尻尾をピーンと伸ばしてしまった。少しだけ恥ずかしく感じながら見上げると、官房長官が目の前に立っていた。少しやつれた表情をしている。オールバックの官房長官は、グレーの作業着が似合っている。もう少し痩せていれば、俳優と名乗っても違和感が無い。そんな官房長官は何を着ても似合いそうだ。そんなことを考えながら、立ち上がった。
委員長と鉄砲塚も立ち上がる。フラフラとしているが、今すぐ病院に行けば、重篤化することはないだろう。
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
横で委員長が答えている。しかし、足元はおぼつかない。
「無理だ。病院に行ったほうがいい」
僕は委員長に向かって強い勢いで言った。しかし、冷たい視線が返ってきただけだった。それでいて、口元のえくぼには不思議な優しさがあった。その薄い紅色の唇が、柔らかそうに動いて言葉を紡ぎだそうとしていた。
「観音寺さんを見捨てて?」
「見捨てるも何も、桜菜は、僕たちが迷惑だ、って言い切ったじゃないか。彼女のことは、彼女に任せて、委員長も鉄砲塚も病院に行くべきだよ」
「那智君、全然解ってなかったの? 車の中では曖昧な言い方だったかもしれない。だから、解りやすく言うとね、……観音寺さん、死ぬ気よ……」
「はぁ?」
我ながら、間抜けな声を出したと思った。
けど、意味が解らなかった。理解できなかったし、脳が理解することを拒否したのかもしれない。どちらにせよ、その意見を認めたくなかった。これが、現実だと知っていたくせに。
「生体科学省は、観音寺さんを犠牲にして、エクトゲートを閉じようとしている。私たちはそれを阻止する必要がある」
「ちょっと待てよ。エクトゲートを消滅できるのか?」
鉄砲塚が話に割り込んできた。巨体をゆらゆら動かしているが、血色は良くなっている。薬は、即効性が高いものだったようだ。
「生体科学省の事務次官は、そう主張したようよ」
「観音寺、一人の犠牲で、あんな物騒なもの無くしてしまえるなら、願ったり叶ったりじゃねーか」
「ちょっと待てよ。鉄砲塚は桜菜が死んでもいいと?」
「んなこと言ってねーよ。観音寺のことは、純人間にしては、結構気に入っていたし。けどさ、あの暗闇によってどれだけの人間が犠牲になっているか考えてみろよ。数分前には俺たちだって死にかけてたわけだし。悪魔の契約と一緒なんだよ、あれは。多少のエネルギーと便利さと引き換えに、俺たちの魂を吸い取ってんだよ」
鉄砲塚は地面に向かって吐き捨てた。もし、言葉に威力があったなら、その場に大きな穴が開いていたかもしれない。それほどの強い勢いだった。
「そして、時計を一世紀戻すの? と言っても、鉄砲塚君の気持ちも解る。妹さんの一件もあるから。でも、私は立ち止らない。もし、酷い困難が目の前に存在していたとしても、乗り越えられるって信じている。いいえ、きっと乗り越えてみせる」
川のせせらぎのような口調だった。それでいて流れがあった。深みがあった。揺るぎの無い決意が伝わってきた。
僕には、どちらが正しいかなんて判断できなかった。二人とも正しいように思えて、二人とも間違っているように感じられた。だから、自分の中で答えなんか無かった。でも、次の取るべき行動だけは決定していた。
「二人とも、今すぐ病院に行ってよ。その代わりに僕が、桜菜ともう一度話をするから」
引いてくれると思っていた。
言うとおりに、病院に言ってくれることを期待していた。
しかし、二人は、僕の言うことなど、初めっから聞く気が無いわけで……。
「観音寺さんが、生命の危機に立たされているのに、私が病院に行くわけないじゃない」
「俺も最後まで見届ける。そんな義務があるよーな気がする」
二人とも、這ってでも行くとでも言いたげだ。そんな無言の視線を僕たちが官房長官に向けると、深く頷いた。
「予定通り、同行することを許可する。但し、教授からストップがかかったらそこまでだ」
「待ってください官房長官。この施設には……」
「また君か、君こそ、タワーを警備する権限はあるのか。いや、答える必要はない。我々は、この若者の分も通行許可を取得している。ご心配なく」
官房長官は、タワーに向かって歩き出した。いつの間にやらいたボディーガードが官房長官の周囲を警戒しながら歩く。
僕らはその後ろ、さらに医者達が続く。
まるで、蟻の行進のようだ。と内心笑いながらタワーに入った。ゲートの警備員に向かって許可書を見せるとスルーパスであった。今までの苦労が馬鹿馬鹿しいと思いながら、高速エレベーターに乗り込んだ。十二人乗りだったために、結構、ギリギリだ。
「ちょっと無理があったみたい」
壁面のガラスに押し付けられている僕の背中に、体を密着させている委員長が、動こうとした。背中に柔らかな感触が伝わってきた。
なんだろう。この押し付けられたゴムボールのようなものは? あまり考えないようにしていたのだが、生暖かい息が首筋にかかり、思わず尻尾が伸びて硬くなった。
それが自分でも解って逃げ出したくなった。
「どうしたの?」
と、委員長から声をかけられるが、返事が出来ない。
ガラスに反射した委員長は目じりを下げ、その奥に映っている鉄砲塚は目じりを吊り上げている。
ああ、別に僕は何もしていないのに。
長い時間、我慢させられたような気がした。しかし、それは気のせいのはず。高速エレベーターは、一分弱で地上から六百六十六メートルに到達していたから。
六百六十六メートルのそこは、展望台になっていた。エレベーターが中心にあり、三百六十度見回すことが出来るガラス張りの空間だ。エクトゲートさえ安定していれば、許可制でタワーの見学も可能だ。しかし、僕らが今いるこのタワーだけは、観光が許可されていない。と言うのも、このタワーからだけ、エクトゲートに近づくことが出来るからだ。他の二つのタワーからひかれたワイヤーを利用して吊橋状の通路が作られている。グレーチングで出来ている一人がやっとの空中通路は、お世辞にも歩きたいとは言えない代物だった。
ちりとりでゴミを捨てるときのように、密閉空間から吐き出された僕は、まず深呼吸をした。普段なら、精神的に落ち着くことができるはず。だが、僕の神経細胞は静電気にでも浴びたようにピリピリしていた。
別に、空気が不味かったわけではない。目の前で神々しく蠢いている禍々しい真闇が、僕の心を啄ばんでいたからだ。
「ようやくここまで来たわね」
委員長はエクトゲートに焦点を合わせている。砂漠の中でダイヤモンドでも発見したかのように真剣な眼差しで視線を逸らさないように集中している。
「あれは、もしかして……」
鉄砲塚が指した方向に目を凝らすと、闇の中に唐棣色の輝きがボンヤリと見えた。一瞬だけ見え、すぐに闇に喰われてしまう。それでも、時折、負けじと輝きだす。皆既日食が繰り返し起こっているような神秘的な光景だ。
「観音寺さんよ。でも、あの様子なら、すぐにでも消滅してしまいそう。急がないと」
委員長について、通路への出入り口の傍に来たが、そこでは、揉め事が発生していた。
官房長官と桜菜を取り囲んでいたスーツ姿の男が言い争っている。
「どうして、許可が出せない」
「当然です。官房長官に身の危険が及ぶようなことがあってはいけませんから」
「ならば、医師の通行は認められるのか?」
「それも駄目です。大臣の通行許可が無い限りは認められません。そもそも、安全が保証できません。展望台内はシールドされているから感じないかもしれませんが、ゲートの距離の二乗に比例して、身体への影響を受けます。いくら薬を飲んでいると言われましても、効果は限定的ですから、許可を出すわけにはいきません」
「官房長官が、特別に許可を出すと言ってもか?」
「エクトゲートの生体制御は、生体科学省の専権事項です。規定の書式で申請された書類に大臣の許可印が無い限り、ここを通すことはできません」
「しかし、生体科学省はエクトゲートを消滅させようとしているではないか。そんな横暴が認められるものか」
「他に方法がありません。現在、ゲートのために働けるバイオロイドは彼女しかいません。もし、ゲートを閉じなければ、その次に暴走したときは誰も止めることができなくなります」
「霊資源管理省は、人間を使わなくてもいい方法を考案したと主張している」
「それは、学術論文が発表された時点で検討させていただきましょう。少なくとも、現時点では他の方法は認められていません」
「どうしても、消滅させる気だと」
「だから、エクトゲート安定化委員会で散々主張したではありませんか。特別立法を制定していただき、バイオロイドの数を十倍以上増やす必要があると」
「ふざけるな。今回のエクトゲートの暴走は、生体科学省が故意に純人間の人数を減らしたのが原因だと判っているんだ」
「お言葉ですが、純人間にも権利がありますので、必ずしも生体科学省の想定どおりの結果になるわけではありません」
スーツの男は官房長官に対して、一歩も引く気はないようだ。呆れた顔で委員長を見ると、二、三回軽く首を振った。
「生体科学省の大臣は、今回の問題を利用して、政局を起こそうとしているみたい。ホント、迷惑ったらありゃしない」
「でも、このまま禅問答していたって時間が過ぎるだけじゃねーのか? 何か具体的で現実的なことしないと、解決にならねーぜ」
小声で僕たちは話していた。聞かれて困るってことは無いけど、決着がつくまで待つしかなかった。
だから、手持ち無沙汰で、エクトゲートや通路を見ていた。別に、その出入り口を通る必要なんかない。と思いながら……。
「もし、外に出ることが出来るなら、通路に行けそうなんだけどなあ」
単純な呟きだった。どうでもいいような類の。でも、喰いついてきた。
「階段があるから、この上に出れるけど、跳ぶ気?」
「うん。上に出れるんなら、落ちるだけだから難しくない。と思う」
空中浮遊すれば、簡単なこと。両手拳を思い切り握った。エクトゲートにかなり近いが、霊力の七、八割は使えるような気がする。
大丈夫だ。いける。
そのことには、自信があった。
けど……。桜菜と相対して、どうすればいい? 何を話せばいい?
「どうしたの?」
「ああ、うん。桜菜が来るな、って言ったのを思い出して」
「それは、私たちを巻き込みたくなかったからじゃない。そんなことも解らないの?」
「解ってるよ。でも、本当は桜菜もエクトゲートを消滅することを望んでいるかもしれない。それに、桜菜が死ぬと決定しているわけじゃないだろ」
「いいの? それでいいの? 本当に? 言い残したことないの? 伝える言葉は無いの? もう、会えなくなっちゃうかもしれないのに。後悔しない? 彼女のこと好きじゃないの?」
「でも、桜菜は僕のことを拒絶していた……」
委員長の眸から逃げ出したかった。エレベーターに飛び乗ってタワーから出て行きたかった。それでも、体が痺れているように動けなかった。
「おめー、ぎゃーぎゃーうるせーんだよ」
突如、会話に入ってきた鉄砲塚にビンタされた。左の頬を痣になるくらい思いっきり。あまりにも想定外の攻撃に、体を半捻りしながら床に倒れこんだ。
僕は立ち上がりながら、痛みに耐える。叩かれた頬は、お湯をかけられたように熱く、捻った首は、寝違えたような筋が延びた激痛がある。
マグマに飛び込んだように体が火照るのを感じながら、怒鳴りつける。
「何するんだよ」
「気合がねーんだよ。気合がよ。俺に向かってきたときのような」
「ふざけんな。そんな状況じゃないこと解ってんだろ」
「あたりめーだろ。さっさと俺を殴れ」
「はあ?」
「ぐーでかまわねーぜ。後悔したくなるくらい本気で殴れ」
「マジで後悔しやがれ!」
両手を広げて仁王立ちしている鉄砲塚の腹部を渾身の力で殴った。顔を狙わなかったのは、遠慮したからじゃない。身長差があるから、届かないと思ったからだ。
鉄砲塚は、息を止めていた。腹部の筋肉を締めていた、と思う。それでも、体をくの字に折り、片膝をついた。数回、咳込みながら腹を抑えている。
「満足したかよ?」
僕の罵倒の言葉に、グッドと言わんばかりに空いていた手の親指を立てる。
くそっ、お前はマゾかよ?
この怒りの矛先を何処に向ければいいんだ。鉄砲塚を見ているだけで腹立たしくなってきた。だから、視線を逸らした。すると、そこには、先程から一歩も動いていない委員長がいた。
ニヤニヤと嗤っている。
「何が面白いんだよ」
「面白い? 羨ましいんだけど」
「この馬鹿げた殴り合いが?」
「ええ、ホント、漢って馬鹿……、でもね、好きよ」
どうしちゃたんだろう、この人たち。おかしいですよー。って、ずっと、押し問答を続けている官房長官やスーツ姿の男たちに叫びたくなる。
「じゃあ、行くよ」
委員長に背中をポンと叩かれた。
「でも、……」
「会ってから考えればいいじゃない」
「頭、悪いくせに難しいこと考えてんじゃねーよ」
「好き勝手なことばっか言って」
委員長に右手を掴まれた。鉄砲塚が背中を押した。
はぁ、本当に困った奴らばかりだ。僕は溜息をつきながらも抵抗せずに歩き出した。
エレベーターの裏、タワーの中心部に階段があった。下へ行く階段と上へ行く階段が。
こちらは、何故か警備員がいない。上り口は封鎖されているし、この上の特別展望台へいこうとする人間などいるはずが無い。と言うことだろうか。
委員長が鍵を開けて、グレーチングの踊り場に足を踏み出した。と、同時にふらついた。
「大丈夫? 一人で行けるから、二人は戻っていてよ」
「私は、自分の限界が解ったから、心配しないでいい」
「舐めるな。俺のことより、自分のことでも心配してろ」
口調こそ、二人とも威勢がいいが、動きは鈍い。きっと、エクトゲートの影響のせいだ。
僕は、二人にあまり負担がかからないように、先頭になり階段を昇りだした。軽やかに昇りきると、視界が広がった。
世界が掌の中に収まってしまいそうな幻覚を感じていた。
高揚感に包まれそうになるところだが、頬がヒリヒリと痛くてそれどころじゃない。風が強い。横風が頬に当たり続け、迷惑なことにビンタされたことを思い出させてくれる。
「結構距離があるけど、大丈夫?」
委員長が手すりに掴まりながら、一階分下の通路を見た。
通路の真上まで行ければいいのだけど……。残念だが、それは出来そうにも無い。
展望台は、ドーナッツ。その中心部にエレベーターと階段があるような構造。本来ならば、展望台の上、つまり特別展望台の手すりを越えて、ドーナッツの上の部分を歩いていけば一周できるのだろうが、通路を支えるための鉄筋の壁面とワイヤーがそれを阻止している。
迷惑なことに、ドーナッツより若干はみだしている。から、その部分を回避するように跳ばなくてはならない。
「ギリギリいけると思う」
委員長の横に立ち、平然と答えたが、心臓は大音量のヘビーメタル。尻尾が左右に揺れ動くのを止めることができない。
「無理だろ」
背後にいた鉄砲塚に投げやりに言われた。背中を向くと、ちゃんとこちらを見ないで言っている。顔を背けたままで、俺のことだけじゃなく、通路までの距離すら考えようとしていない。
思わず、カチンときた。頬の腫れはちっともひかない。むしろ、自家発電でもしているように熱を持っている。
「やれるさ。多分」
「多分? そんなんじゃあ、無理じゃねーの。だって、お前の霊力は、浮いているだけだろ? 走り幅跳びで十メートル跳べるのか?」
「勢いをつけて跳べば、高低さがあるから大丈夫だよ。真上に来たとこで能力解除して、ストンと通路に着地。余裕、余裕」
「あのさ、もし、自信が無かったら止めていいからね」
「なんで、委員長まで」
「だって、ここで那智を失うわけにはいかないから……」
ポニーテールが揺れていた。風に吹かれて、僕の尻尾より激しく暴れていた。
でも、表情は仮面でもつけているかのよう。僅かな乱れも感じさせない。だから、本心を覗き込むなど出来そうに無い。
僕は、無駄なことを考えることを止めた。
再び、通路への目測をする。瞼を閉じて、何回もジャンプする(エアウォークの)イメージを繰り返す。
二回ほど深呼吸を繰り返す。落ち着いてきた。体調も万全。不安要素など何も無い。
「絶対に死ぬんじゃねーぞ」
らしくない台詞を鉄砲塚が吐いた。腕を組み、垂れ込める黒色カーテンの方を向いているが、時々、横目の視線で僕を見ていた。
「観音寺さんのこと、頼んだから、ね」
委員長が右手の握りこぶしを突き出した。僕も軽く合わせる。
もう、これ以上、ぐずぐずしていると決心が鈍る。から、僕は手すりを越えた。
まだ、昼にもなっていないはずなのに、世界は地下牢のように薄暗かった。透明度の低い大気だった。それでも、遠くの街並みが見えた。高層ビルの向こう側には、僕たちの住んでいる街がある。毎日通う高校があって、駅ビルがあって、母がいて、父はいない。
不完全な僕の空間だけど、桜菜がいた。
少なくとも、一週間はいた。河川敷の中で見たあの日から。
確かに、出逢ったときの彼女は、幻影じみていた。つかみどころの無い、桜の花弁に映った影のようだった。
けど、間違いなく存在していたんだ。
僕は、赤い鉄筋を走った。そして、エクトゲートの中から漏れてくる唐棣色の光を眺めながら跳んだ。数秒の空中浮遊。恐怖もあったけれど、気持ちも良かった。吹き付けてくる風は、僕を抱きしめてくれるような気がした。 地表は、ミニチュアな玩具。僕は、天に君臨する大鷹。心地良さを感じながら、能力を瞬間的に解放しつつ高度を下げる。
あと、三メートル。
能力を解除して自由落下すれば、手をちょこっと伸ばすだけで通路の手すりに届きそうな距離。気が緩みそうになっていた。いや、慢心していたんだ。成功を確信して。
しかし、現実はとんでもないシナリオを用意していた。
突如、斜め下からの突風が吹き寄せてきた。向かい風が気持ちいいなんてレベルではない。傘をさしていたら速攻で破壊されそうな勢いだ。当たり前のように、僕は風の壁に弾き飛ばされる。近づいていたはずの通路が、徐々に遠ざかっていく……。それは、何を意味しているか……。
確実な死。
それが、目の前に訪れたことを理解していた。
僕の空中浮遊の能力は、ただ浮いているだけ! そりゃね、四階建ての校舎からならば、騙し騙し重力に反発し、勢いを殺しながら地表に降りることが出来る。しかし、ここは、六百メートル上空。能力を解除しながらゆっくりと降りたとしても、加速度に反発しきれずに、再凶のジェットコースターより凄まじい勢いになること間違いない。
それが解っていても、あはは、死んじゃうかも。なんて気楽に考えていた。現実感が無かった。
もしかしたら、逆からの追い風があるかもしれない。とか、都合がいいことばかり想像していると切迫感はない。とりあえず、霊力がある限り浮いていられる。まだ、猶予があるはず。景色を見ている余裕すらあった。
……のは、十秒程度のことだった。
息を大きく吸い込んだ瞬間に、ガクッと重力に引き寄せられる感覚があった。コンマ数秒だが、一メートルは落ちた。
理由はすぐに気づいた。
霊力がエクトゲートに吸われている。額の中心部に意識を集中して、霊力を保とうとするが、自転車がパンクしたときのように霊力が抜けていく。
これでは、神風を待つ余裕も無く、墜、ち、る。
まるで、犬死に……。何やってんだ? 桜菜を助けることはおろか、話すことすらできず、飛び降り自殺に等しい行為。最低じゃないか。
どうして風が吹いた瞬間に能力解除しなかったんだろう。重力が加わっていたならば、風に流されることなどなく、ギリギリ届いていたかもしれないのに。そうしたら、桜菜に言いそびれていた大事なことを言うことができたのに。
僕は仰向けになって空を見た。灰色の雲が、蟲が蠢く(うごめく)ようにうねっていた。どうせならば、雷でも落ちればいいのに。だって、落雷で死ぬほうが、華々しくていいじゃないか。そう願っても、雲は廃墟に投げ捨てられた汚れた布団のよう。ただ、空間を占有するだけで、沈黙したままだ。
どうにでもなれ。
捨て鉢になって目を閉じようとした。でも、そんなに簡単に諦めることは出来なかった。せめて、一言でも会話をしたかった。自分の中のわだかまりを解放したくて奥歯を噛み締めた。
すると、頬がデータロードしたかのように火照ってきた。
くそっ、ふざけんな。
痛みを思い出して怒りが湧いてきた。
「那智! こっちを見て!」
聞こえるはずの無い委員長の声が聞こえた。僕は、特別展望台に頭を向けた。すると、体も地面に対して垂直に動き、逆さまの委員長と鉄砲塚が見えた。姿を認めると同時に、逆さまの鉄砲塚は、正拳を放っていた。
まさか、と思った瞬間に腹部に殴られたような衝撃が来た。見えないパンチ(ステルスブレット)だ。
吹っ飛ばされて、激痛を感じた。
それでいてどこか冷静だった。通路を吊っているワイヤーを越えた瞬間に霊力を解除する。と、背中から通路に叩きつけられた。
バットで殴られたような激痛が背骨を走りぬけ、グレーチングの通路をのたうつ。恨みがましく、無茶しやがって、と、鉄砲塚を睨みつけると、僕に気づいたのか、グッドラックってな感じに右手の親指を立てた。そっちは、随分、余裕があるじゃないか、と心の中で愚痴りながら立ち上がると、鉄砲塚は前のめりに倒れこんだ。
「大丈夫か?」
僕の叫びに、委員長が返答している。けど、風音が五月蝿くて聞こえない。とは言え、何が言いたいかは解った。っていうか、解っている。
エクトゲートを見た。もし、ブラックホールが目の前にあるなら、同じようなものだろう。全ての光を吸い込んでしまう宇宙の穴。それと同等の存在は異様だった。触れてしまうだけで冥界へ送り込まれるような恐怖がある。
それでも行くしかない。僕は、エクトゲートに向かって歩き出した。
本来ならば、一秒でも無駄にしないために走るべきかもしれなかった。でも、頬は焼けるような熱さだし、腹も背中も激しくズキズキする。おまけに、霊力も失われて、精神的にも不安定だ。
一歩ずつでも進んでいるだけで、自分を誉めたくなる。
だって、そうだろ? 満身創痍なんだから。それだけじゃない。近づくにつれて全身が重くなる。多分、心の問題ではない。実際に、エクトゲートが生命力を吸い取っているんだ。
エクトゲート間近にくると通路は、左右に分かれていた。丁度、一周できるようになっているのだろう。
どちらに行くべきか。普通ならば、悩むところだ。しかし、答えは既にある。僕は、さっき唐棣色の光が漏れ出していた場所に向かって歩く。と、通路は途中から闇になっていた。
これが、エクトゲートか……。外殻部だから、霊的影響は無いはずと解っていたが、恐る恐る手を伸ばした。しかし、触れることはできない。そのまま、自分の手が薄くなっただけ。日向から、日陰に手を入れたときと似た感覚がある。でも、それより色が薄い。理由は不明。だが、エクトゲートは、光を吸収する作用もあるのだろう。
実際に触れてみると、感じていた恐怖心は薄れだした。確かに疲労感はある。でも、原因は心理的要因だろうし、慣れてしまえば気にならない。だから、そのまま通路を進む。と、さらに分岐があった。間違いなくエクトゲートの中心部に向かっている。
立ち止まって大きく息を吸った。
その時、光の束が飛んできた。淡いピンク色(唐棣色)した矢のような光だ。避けようとしたけど、体に突き刺さる。
強い痛みが……、てなことはなく、むしろ安らぎを感じていた。
ふと気づくと、能力を使うことも無く、宙に浮かんでいるような感覚があった。プールで仰向けにプカプカ浮かんでいるのと同じような不安定なイメージだった。
僕は、そんな奇妙な空間で宇宙遊泳をするように光に向かって進んだ。夢の中で走るときのようなもどかしさがあるが、間違いなく近づいていると確信していた。
何故なら、光が強くなっている。唐棣色の光を浴びるにつれて、失いかけていたものが取り戻されていく。弱っていた僕は再生され、歩みは強くなっていく。
力を取り戻した僕は、光が射出される方向に近づいていく。すると、エクトゲートの核と光の塊があることに気がついた。
エクトゲートは、掌にのりそうな大きさだった。でも、野球の硬式球よりは大きい。ハンマー投げに使う鉄球と同じ程度だろう。そんな大きさの黒い塊があった。さっき展望台から見たエクトゲートがどうでもなく思えるほど忌まわしく感じられ、硫酸でも飲まされたかのように内臓が焼け爛れてきた。
苦しくなって目を逸らすと、人間の大きさ程の光の束があった。目を凝らすと、天使がいた。エクトゲートと対峙している天使の背中には、長い髪と体を包み込むほどの大きな翼がある。しかし、桜が散るように抜け落ちていく花弁色の翼は、エクトゲートに吸い込まれていく。
まるで、桜の花だ。僕は、ミツバチのように花の魅力に吸い寄せられた。もがきながらも確実に距離を縮め、肩位置の翼に触れた。
翼は、ふわふわして弾力があった。柔らかくて温かかった。
「えっ? 何?」
翼を触られたことに気づいたのだろう。天使が体ごと振り返った。
予想はしていたが、桜菜だった。
しかし、一糸纏わぬ姿だとは考えてもいなかった。だから、桜の蕾を見つめてしまったとしても、悪気など無い。ホント偶然。破廉恥な意図など皆無だ。
そもそも、ピンクに染まった白肌に美意識を感じないとするならば、その方が問題だ。僕はそれほど感受性を失った人間になるのは、反対だ。絶対に。
僕が固まっていると、桜菜は悲鳴をあげた。と同時に、背中を向けてしゃがみこむ。ホラー映画の被害者のような声が、頭に響きわたった。
「来ないでって言ったじゃない」
「でも、桜菜がそんな状態になっているなんて、知らなかったんだから」
桜菜は振り返った。チロリと僕を見て、すぐに頭を戻す。
「私だけじゃない」
「何が?」
「どうしてそんなに鈍いの那智は。よーく、自分の姿を見てみなよ」
首を傾げた。昨日より厚着だけど、普通の服装……。
じゃない!
どうして? どうして僕まで……。てゆーか、理解できない。
「何をしたんだよ」
文句を言いながら、半回転する。
と、ふと思い出した。さっき、桜菜がチロリと僕を見ていたけれど、もしかして、見られた?!
「何をしたも何も、エクトゲートのコア部分には精神体でしか近づけないから、素の自分の姿になる。って、どうして知らないの!」
「知ってるわけ無いじゃない。初めて聞いたよ。そんなこと」
「嘘ばっか。ジロジロと見てたじゃない」
「んなことない。ちょっとだけだよ」
「ほら、やっぱ見たんじゃない。このスケベ、変態、不埒者、エロ男、むっつり親父。私のことずっとそんな風に見てたなんて最低。帰れ、このケダモノ!」
「しょうがないじゃないか」
「何が!」
「綺麗だったんだから」
「なっ! ……………………」
桜菜は黙り込んだ。
あまりにも静かになったから、不意に、消滅したんじゃないか? って焦った。慌てて振り返ると、少し前より翼が小さくなった桜菜がいた。ゆっくりと立ち上がる。足首まであった翼が、太ももまでしかない。やはり、短くなっている。
「あのさ、……ごめん」
僕は、謝った。ここに来た一番の目的をようやくクリアすることが出来た。
「いいよ。気にしていないから」
「昨日、色々と酷いこと言っちゃったこと。ホントごめん」
「だから、そのことも気にしてないから。もしかして、そんなこと言うためにここまで来たの?」
「うん」
「そう。わざわざ、ありがとう。んで、バイバイ」
桜菜は振り向きもせずに右手を軽く横に伸ばした。そしてL字に肘を曲げて手をヒラヒラと左右に振る。
僕は、バイバイ、って言う代わりに、桜菜に近寄った。おもむろに振り続けている手首を掴んだ。
「な、何するの」
「もう、帰ろう」
掴んだ手首は華奢だった。思いっきり力を入れたら千切れてしまいそう。握りしめると脈を感じた。トクン、トクン、とリズムを刻む心臓の音を聴く。不思議なメトロノームは、僕の心を同期させる。
「一人で帰って。ホント、迷惑だって解んないかな。いい加減にしてくれないかな。つきまとうの」
嫌われていると思っていた。色々と酷いことしたから。でも、同期している今ならその言葉にこめられている意味が理解できる。だから、握りしめた。同化してしまうくらいに力をこめて。
「い、痛いってば。止めてよ、那智」
「一緒に帰るよっ」
「んなことできるわけないじゃない。私の仕事は、エクトゲートを消滅させることなんだから。もし、このまま放置したら、鉄砲塚くんの妹さんみたいな人が、沢山出てきちゃうんだよ。そんなの良くない」
「だから、自分を犠牲にするっていうの、か?」
「だって、誰かが止めなきゃ、もっといっぱいの人が犠牲になっちゃうんだよ。だったら、私一人の犠牲ですむなら、その方がマシじゃない」
「どうしてそんなに簡単に割り切れるんだよ」
「だって、どうせ私は、造られた人間なんだし……」
「でも、同じ人間じゃないか。生まれ方が違うってだけで、他に何が異なっているって言うんだ。僕と出逢ったときに言ったじゃないか。自分自身で、人間だって! だから、生きなきゃ駄目だ。絶対に」
「じゃあ、エクトゲートはどうなるの。このまま放っておくの? 見なかった振りして。誰かが何とかしてくれるだろう。って安全な場所で文句を言い続けるの? そんなこと、できるわけない。少なくとも、私が望んだとしても許されない」
「そして、何かある度に誰かを犠牲にするの? お腹の空いたライオンの檻にヤギを放り込むように? だったら、歪すぎるよそんな世界は」
「どうしょもないじゃない。社会なんて、人身御供を踏み台にして成り立ってるんだから。綺麗事すぎるんだ(ユートピアなんだ)。那智の言ってることは」
「綺麗事? そんなこと言ってない。もっと、自己中心的な理由だよ。単純に、桜菜を守りたいだけ。単純にそれだけの理由」
「だから、そんなことできるわけない」
「じゃあ、桜菜と残る。委員長や鉄砲塚のように、生命力を一瞬にして吸い取られなかった僕ならば、エクトゲートの餌になる資格があるはず」
「馬鹿っ!」
桜菜は叫んだ。思いっきり、肺に溜め込んだ空気を全て使って叫んだ。全身に力を入れて、翼を広げながら。
僕は掴んでいた手を離した。驚いた、ってのもあったが、翼が腕を断ち切るように見えたから。
嫌な予兆だった。
「那智、これでホントにバイバイ」
翼を大きく広げて飛び立とうとしていた。
まさか、エクトゲートに突っ込むつもり? 鉄球大の空間の虚に向かって……。
僕は慌てて捕まえようとした。でも、桜菜の翼に後ろに弾き飛ばされていた。この空間では、思ったように動けない。もがきながら体勢を整えるだけで精一杯だ。
もし、空中浮遊でなく、空間移動の霊力があって使えたならば、すぐにでも捕まえることができるのに……。
体が砕け散りそうな絶望感に包み込まれた。
委員長や鉄砲塚のことを思い出した。次に、母親と父親のことが心に浮かんできた。それが、我侭で自分勝手な願望だと解っていたけど、自分の力だけではどうすることもできないと痛感していた。
誰かが、助けてくれないかと祈っていた。
だが、誰も助けてくれないと判っていた。
だから、自分の力で解決するしかない。
そんなことは解っている。けど、どうすればいい?
ああ、桜菜のような翼があれば。
瞬間的にでもいい。あの唐棣色の翼があれば……。
そう考えていて、一つ疑問が生じた。何故、純人間の桜菜が翼を持っている? 霊力が使えないはずなのに。
待てよ。さっき、桜菜は、僕らはエクトプラズム(精神的存在)だ。と間違いなく言ったはず。
ならば、きっと、同じことができるはず。
そもそも、空中浮遊の使い手の僕ならば、桜菜よりもっと上手く翼を使うことができるはず。
僕は額に意識を集中した。空中浮遊を使うときと同様に、霊力を解放する。すると、背中に痛みのような痒みのような感覚がある。首を三十度くらい傾けて後ろを見ると、翼が生えていた。
でも、どうやって動かせば? 一瞬焦った。が、悩む間もなくはばたけた。羽が抜け落ちてエクトゲートに吸い寄せられていく。それでも飛べた。しかも、感覚的には、自動車で走っているような速度で。
しかし、エクトゲートには近づけない。十メートルくらいの距離がちっとも縮まらない。だからと言って、飛んでいるのが幻想ってことではない。前で飛んでいる桜菜には追いついたから。
追いついたのは良かったが、どうすればいいか判らなかった。だから、体ごとぶつかる。と、もつれあって停止した。
目の前の桜菜は、大きな目を見開いていた。満ち足りた湖面のように湛えられた涙が、今すぐに流れ出しそうだった。
「どうして?」
「桜菜がここで犠牲になって、もし、エクトゲートを消滅させたとしても、何も変わらないんだ。また、新しいエクトゲートを作って、新しい生贄のヤギ(スケープゴート)を用意するだけ。同じことを繰り返すだけ。だから、僕たちは前に進まないと駄目なんだ。新しい技術でこの困難な状況を乗り越えないと」
「そんなこと出来るの?」
「委員長の受け売りだけどね。確かに今は無理かもしれない。だから、僕が研究して……」
「無理!」
即答された。桜菜は、抱きついてきて、僕の胸に顔をうずめた。小刻みな震えと温かいものが伝わってきて、僕の心を湿らせていく。
この空間では、上下の概念が感じられない。それでいて、横たわっていた僕たちは、同時に立っていた。
「エクトゲートの周囲に広がるこの空間が膨張しているのは、崩壊する前兆なの。もし崩壊することがあれば、半径三百キロメートル以内の生物は、生命力を奪われる。それを阻止できるのは私だけ。もう、私以外にどうすることもできないの」
「だったら、僕も行く」
「駄目! 絶対に。だって死んじゃうかもしれないんだよ」
「もう決めたから。桜菜を一人だけにはさせないって」
桜菜の震えが停止していた。
うずめていた顔を離して、僕のことを雨上がりの瞳で凝視する。
「私、那智だけには絶対に生き延びて欲しいって思っていた。今まで、友達なんか出来たこと無かったから。とっても大切な人だから。でも、今ね、怖いはずなんだけど、気持ちが落ち着いている。こんなこと言うの良くないって解っているけど、凄く嬉しいんだ」
僕も同じような気持ちがあった。死に対する恐怖で砕け散りそうなはずなのに、何故か満ち足りていた。二人が合わさり一つのものに還っていく、それが物理法則のように正しく思えて、運命に自分を委ねるような奇妙な感覚に囚われていた。
ただ、一つだけ気がかりがあった。母親との約束が守れなくなってしまうことだけは、心が苦しかった。これから、母親一人で暮らすことになってしまう。そのことが、指に刺さったガラスの欠片のように痛かった。
「無理して付き合わなくていいからね。那智には家族だって、友達だっているんだから」
言葉とは裏腹に強く抱きしめてきた。
だから、僕も思いっきり抱きしめた。二度と離れることが無いくらいに。
ゆっくりと翼を広げた。近くて遠いエクトゲートの核を目指して、一気に飛べるように。
「いくよっ」
桜菜に言いながら、同時に家族に向かって心の中で叫んでいた。さよならって両親に伝える気持ちをこめて。
ふと、親父のことを思い出した。ちっとも家に帰ってこなかった不良な父。一緒に旅行に行ったことなどない、それどころか遊びに言った記憶すらない父。研究が楽しくて戻って来ないと思い込んでいた。
しかし、違うって気づいた。同じ状況になったから解った。きっと、母を助けたくて、何とかしたくて、そのために、全てのものを投げ打って研究していたんだって。
「ごめんね。私のせいで」
桜菜の声はかすれていた。
「違うよ。謝る必要なんか無いんだ」
僕は大きく翼を動かした。強い推進力が得られるのに比例して、翼は奪われていく。カウボーイの投げ縄でもあれば届きそうなのに、核へは、僅かにしか近づいていかなかった。でも、近づかなくても良かった。逆に、いつまでも届かなければいいのに。って無駄な願いをしていた。が、そんなことも虚しく、僕らは確実に近づいていた。しかし、速度は反比例して落ちていく。
翼は概念的なもので、はばたきと速度は関係ない、と気づくと同時に、その大きさこそがエクトプラズムとか、生命力とかを意味していると気づいていた。
その翼はかなり小さくなっていた。特に桜菜の翼は失われかけようとしていた。全身を覆うような大きさだったものが、今では、キューピットの羽のようだ。おまけ程度になった翼を見て、僕は時間が無いと焦った。
エクトゲートには、二人で一緒に突入しないと意味がないって思っていたから。
「私、みんなと出逢えて、ホントに良かった。委員長や鉄砲塚クンや宇賀ちゃんも。でも、
那智とは出逢わなければ良かった。逢わなければ、巻き込むことも無かったのに……。ううん、やっぱり幸せだった。エクトゲートのために造られた私だけど、那智と一つになることが出来て」
僕は言葉で応える代わりに、今までより強く抱きしめた。
大丈夫。
もう、届いた。
さようなら。みんな。さよなら。ママ、そして親父。
僕らはエクトゲートに突っ込んだ。
とは言っても、エクトゲートは鉄球サイズ。体全体で突撃できる大きさではない。ましてや、意味不明な存在。実は本物の鉄球でした。ってオチがあっても嫌だ。
てなことを考えたわけではなかった。けれども、無意識のうちに僕の翼をエクトゲートにぶつけていた。
すると、翼とエクトゲートは化学反応でも起こしたかのように、白色の光を解き放つ。超新星爆発って言葉を思い出すと同時に、僕らは、その勢いに弾き飛ばされた。
予想外の衝撃を受け、僕は体の自由を失った。すぐに、自分を取り戻すことは出来たが、桜菜と離れてしまった。
薄暗い空間でキョロキョロと探す。と、既に光をほとんど全て失った桜菜がいた。ちょっと飛べば……。
僕は、翼に力を入れようとした。しかし、できなかった。何故なら、翼は失われていた。少なくとも自分の目で確認できないくらい。おまけくらいには、感覚があるけどその程度。もう、さっきのように飛べそうには無かった。
桜菜の翼も同じように失われている。気絶したのか、逆方向を向いて動かない。
ここまで来て、離れ離れになってしまうなんて、残酷だな。
僕が手を伸ばすと、桜菜がピクリと体を動かした。意識を取り戻した桜菜は、僕に気づいて同じように手を伸ばしたが……届かずに、微笑んだ。
一片の欠片すらない満月のような笑みに、僕は理解した。
確かに、僕らの間には僅かな無限の距離が存在する。でも、僕らの心に距離は存在しない。もし、今すぐにエクトゲートに吸収されて消滅したとしても、寂しくはない。
だって、既に二人は一つになっていたのだから。
夜明けのように少しずつ光を取り戻していく世界の中で、僕たちの翼は消滅しようとしていた。
エクトゲートも僕たちと一緒に消えてなくなるのだろうか? 結果を確認できないのは残念だ。でも、僕たちはできるだけのことをしたはず。だから、きっと……。
全てに満足しかけたとき、僕は頬が熱くなるのを感じた。
意識を失いかけていたとき、不条理な怒りを取り戻した。
「桜菜!」
思いっきり叫ぶと、桜菜は閉じかけていた目を大きく開き、
「那智っ!」
って叫び返してきた。
僕と桜菜の視線が交差した。すると、掌から唐棣色の光が迸り(ほとばしり)、エクトゲートを包み込んでいく。不思議な力を感じながら、必死になって伸ばしあった僕たちの手が重なった瞬間に、全てが真っ白に輝きながら爆発した。




