弐 すき焼きは突然と
土曜日の午前十時、僕は駅ビルにいた。いつもなら、家でゴロゴロと過ごしている時間だ。そんな、休日の朝だと言うのに、行き交う人々が多いのには、ちょっとびっくり。コートを寒そうに羽織ながら足早に通り過ぎていく。先日から一変して気温が下がったから、みんな厚着をしているように見える。
僕は、コートかジャンパーを着てくれば良かった、と思いながら茶色のジャケットの前ボタンを留める。でも、それくらいでは効果が無い。続いて、青と白のチェック柄の襟シャツの一番上のボタンを留める。ようやく冷気の侵入を阻止することが出来た。残りは、ジーパンの保温能力が低いことが不満だが、こればっかりはどうすることもできない。
そうだ。歩き回っていれば寒くない。
腕を組みながら、邪魔にならないように、その場で円を描くように回る。グルグルグルグル。や、やばい。目が回ってきた。ふらふらふらふらと、駅ビルの支柱にオデコをつけて口を手で覆う。
尻尾をイライラ左右に動かしながら、体力の回復を待つ。
こんなところ、誰かに見られたら格好悪い。なーんて思っていると、運が悪いことに背後から声がする。
「何やってるの? 和知君」
ちょっと尖ったような、それでいて大人びた口調から、僕は待ち人が来たことを理解した。気合を入れて眩暈を我慢し、僕は振り向く。そして、おはよ~と挨拶しようとしたが、そこには僕の知らない人がいた。
「あ、あのー、おはようございます」
「おはよー。待たせちゃった?」
切れ長の目に大きい瞳、爽やかながらも知的さを感じさせる表情。花柄のワンピースにグレーのロングカーディガンは、お嬢様風で体のライン、ぶっちゃけ胸の部分が異様になまめかしい。それだけじゃない。ちょっと長めの茶色のロングブーツ、それで隠せない柔らかそうな太ももは、フェチ人間がいたらかぶりつきそうなほど魅力的だ。
「どうしたの?」
「あ、うん、いつもよりずっと綺麗だな。って思って」
しまった。目を回したせいで、何も考えずに思ったことを口走ってしまった。体中の血液が、四十度になるくらいに熱くなっていくのを感じたが、
「そう?」
と軽くかわされた。
「委員長、いつもの眼鏡はどうしたの?」
「たまにはコンタクトで、ね。それより、今日は、こき使わせてもらうつもりだから、よろしく」
踵を返すと、ピンクの花柄ショルダーバッグと一緒にポニーテールがぶんと揺れた。これは、判りやすい目印だ。と思いながら、駅ビルの中に入る委員長についていく。と、突然立ち止まった。そのせいで、余所見をしていた僕は衝突しそうになる。
「いくら、借りを返してもらうためとは言え、そんなにストーカーみたいに後ろにつかれたら気分良くないんだけど」
「えっ? じゃあ、どうすれば」
「普通でいいじゃない。友達と一緒に買い物をしているみたいに」
普通ねぇ。それが一番良く解らないと考えながら、委員長の横に並んで歩く。
「春の小物を頼んでいるから、まずはそこの店に」
手こそ掴まれていないものの、実質的に引っ張られて辿り着いたお店の店員が、委員長を見るなり足早に近寄ってくる。
「おはようございます。いつも、ありがとうございます。お電話いただきましたお品は、ご用意しています。こちらへ……」
平身低頭の気品のある中年女性は、レジの方に向かいながら、部下であろう若い女性スタッフに指で命令を下す。
委員長がレジにカード型の携帯電話をかざすと、店員は微笑みながら手提げの紙袋を渡す。受け取ってそのままショルダーバッグと逆の手に持つ委員長は、軽く斜めに頭を下げるとブースから出る。
僕は後ろから追いついて手を伸ばす。
「持つよ」
「無理しなくていいけど」
「でも、そのために来たんだし……」
「そう。那智君って優しいんだね」
透き通った瞳に見つめられて、石化の呪文でも喰らったかのように、体中が硬くなってくる。このまま留まっていたら、本当に駅ビルのモニュメントになりそうだ。
僕は、目的の店も知らないくせに適当に歩き出した。それなのに、委員長は文句も言わずについてくる。
「おはようございます」
小奇麗な中年女性店員がかしこまった態度で頭を下げる。予想外の行動をされて萎縮した。早歩きしたい気持ちを抑えて、会釈をしながら通り過ぎる。すると、他のブースの店員も丁寧に挨拶してきた。
はて、朝に買い物に来るとこんなに挨拶されるものなのか。今度からは、駅ビルへは、朝に来ることにしよう。と考えていると、委員長に手を掴まれた。
「ちょっと、このお店に寄りたいんだけど、いい?」
引っ張られるように店舗エリアに入ると、店員が集ってきて、
「いらっしゃいませ玄葉様」
って、恭しく頭を下げる。
ああ、僕って何て頭が悪いんだろう。僕に向かって挨拶してくれていると思っていたけど、それは完全な勘違い。全て、委員長に向かって挨拶をしていたんだ。事実を知ると、胸を張って歩いていた自分が恥ずかしくなって、今すぐ走って逃げたくなる。
でも、委員長を置いて帰るわけにいかない。恥ずかしい僕のことを気づいていながら、何も言わない委員長との約束を破るわけにはいかない。
溜息をつきながら、僕は委員長を見た。
店員さんが広げる花柄のワンピースを顎に手をつけながら首をかしげている。それならば、と他のフリルつきのワンピースを紹介されて今度は腕を組む。すると、別の店員が乱入してきて、お嬢さんには、こちらのクラッシックなほうが……。と話すと、先程の店員も負けじと他のお薦めを取り出して、言い争いを始める。
おいおい、と思っていると、委員長の手招き。
「ごめん。結構、長くなりそうだからエレベーターの横にある長椅子で待ってもらっていていいかな」
「あ、うん。でも、苦手じゃないから待つの。大丈夫だと思うけど」
「あのね、多分、一時間くらい余裕でかかるから」
長いって、それハンパない長さじゃないの。僕は不思議な光景に呆れながら移動した。座っていると、疲れが溜まっていたのか、徐々に眠くなってくる。
「すいません」
声をかけられて、自分が眠っていたことに気づいた僕は、委員長の紙袋を持ったまま前に腕を伸ばす。
「ちょっと来ていただけませんか?」
二十歳前後の女性店員に言われて、僕は立ち上がりブースに入る。
「どう思う?」
現れた委員長は、黒のエレガントなワンピースを着ていた。胸元に花をイメージしたようなデザインがあるものの、全体的に落ち着いた感じがする。
「とてもいい、と思うけど……、どちらかと言えば冬に似合うワンピースのような気がするね」
ほらね。と言わんばかりに一人の店員が勝ち誇っているのが妙に気になる。それに対して、もう一人の店員はとても悔しそう。
委員長は、と言えば、無表情で僕を見ている。
「じゃあ、これは止めようかな」
委員長は試着室に戻り、僕は椅子に戻る。まだまだ、時間がかかるのかな。と思って遠めに眺めていると、店員さんが僕に向かって手招きをしている。
僕がお店のエリアに入ると、委員長は試着室から出てきた。店員は、今度こそは、とカーディガンを準備している。
もう、終わったのかと思いきや、まだまだなの? マジで買い物って、ハンパねー大変な労働じゃないか。僕が驚いていると、二人の店員がベージュとグレーのロングカーディガンを交互に委員長に合わせている。
「どう思う?」
また訊かれたけど、突然、ファッションセンスを求められても困る。仕方が無いから、ベージュの方が合っているんじゃないの? って回答したら、委員長の顔色が明るくなった。どうしてだろう。と考えながらレジの支払いを待つ。
その間に増えた荷物を受け取る。この調子ならば、漫画でありがちな、両手と口で買い物を持つ羽目になりかねない。ちょっと、アセアセしながら、委員長を見るとちっとも変化の無い表情をしている。
「そろそろ、お昼にする?」
「まだ、時間がちょっと早いようだけど」
「混まないうちに済ませちゃったほうが楽だから」
そんなものかな? とか思いながら、二人で最上階にあるレストラン街に向かった。
「どのお店がいい?」
とか言われたから、中華を提案したら、却下された。もう、拒否するならば、はじめっから訊かないで欲しい。僕は文句が口から零れ落ちそうになるのをへの字に閉じて耐える。
洋風のお店に入ったら、時間が早かったからか、ガラガラだ。奥にある景色が良く見えるテーブルを確保する。四人用だから、向かい合って座ったら椅子が余る。そこに荷物を置いて両手を上に伸ばした。
「お疲れ」
ニコって微笑を見せられて、僕の表情も緩んだように感じた。
「那智君って、一人っ子だっけ?」
「うん。委員長は?」
「うちは、二人。弟が、ね。ちょっと頼りない奴で困ってる。可愛いんだけどね」
「でもさ、委員長から見れば、どんな人も頼りなく見えちゃうんじゃない?」
「そうそう。私も、時々、頼れる人にこの身、全てを任せてしまいたくなることもあるんだよね」
委員長は、グラスに口をつけてから、窓を見た。外の景色でも眺めているようだ。つられて僕も見た。遠くに高層ビルが見える。近くは、線路と駅前の低層の各種のビル群がある。そんな地表を薄い曇が覆っていて、少しだけ冬を思い出させた。
遠くで、鳥が四羽飛んでいる。一羽が先頭に立ち、他の三羽を引っ張っている。しかし、すぐにバランスを崩して高度を落とす。僕は、負けるな。と自分の手を想いっきり握りしめて応援する。
「ところで、那智君は、観音寺さんのことどう思っているの?」
「どうって、普通のクラスメイトだけど。お互いにそれ以上深くは考えていないと思うな」
「告る予定とかないの?」
「無い、無い、全然、ちっとも無い」
「そっかな。なら、どうしてそこまで那智君は優しくしてあげれるの?」
「あのさ、委員長は、口が固いほう?」
「普通の人よりは余計なことを言わないかな」
「うーん。もし、ホントのことを話したとして内緒にしてくれる?」
「当たり前、政治家だから」
「えっ? 政治家?」
「十年もしないうちに、ね」
「それって随分、気が早い話じゃない?」
「そんなことないけどね。これは、私の秘密、と言うことで、和知君のことを話してもらわないと」
「うちの母、純人間なんだ」
「そう」
「僕の母は、彼女と同じ純人間。だから、ずっと外に出ていない。出れないんだ」
「何で? 誰も純人間だなんて気づかないはず……」
「近所の人は知っているから。それに母さんが外に出るのを怖がっているから。もう、出れないんだ。だから、さ、観音寺さんには、負けて欲しくない。そのためにも、僕ができる範囲では手助けをしたいんだ」
「余計なこと、訊いちゃってごめんね。でも、聴けて良かった、かな。ありがとう」
委員長は目を伏せた。僕から視線を逃れるようにメニューを見る。気に入ったメニューが無いのか、迷っているのか、良く解らないが何度もページを捲りなおしている。何となく、僕もメニューを探るが、大体、食べたいものは決まっている。
店員を呼び出して注文をすると、委員長は、視線を窓の外に向けた。
僕は、そんな委員長をジーっと見続ける。両手で頬杖ついてオデコの辺りを観察していると、委員長はチラリと一瞬だけ僕を見る。そして、再び興味が無いといわんばかりに、外を見ていた。
けど、僕は厭きずに、何度も瞬きしながら、委員長の眸に映る輝いているものを見定めようとする。
「ちょっと、気になるんだけど」
文句を言われても、逃げる気は無い。委員長に睥睨されても平然と見返す。負けじとプレッシャーをかける委員長だが、コンタクトは眸が大きすぎて、いつもの眼鏡より迫力を感じさせない。
「で、何か言いたいことでも?」
睨めっこ対決に負けたことを認めるように、体を椅子に投げ出した委員長は、溜息混じりに僕に言った。
「あのさ、委員長はどうして、仲裁に入ってくれたの?」
「仲裁? 初めに見捨てろって言わなかった?」
「言ったかもしれないけど、僕らを見捨てなかった。鉄砲塚とか純人間反対派を押さえ込んでくれたのはどうして?」
「どうしても何も、それが学級委員長の仕事じゃない。ホント、面倒だから、余計な揉め事とか増やさないで欲しいよね」
「本当にそれだけ? 何か隠していることとかないの?」
「ないない。何も無いって」
「そうかな。だって、あの鉄砲塚とかが大人しく言うことを聞くなんてとてもじゃないけど、考えられない。無理なこととか要求されているんじゃないの?」
「鉄砲塚君はね、ああ見えて大丈夫。単純で約束を守るタイプだから。それより、問題は渡瀬さんね。ああいうタイプが世の中で一番難しい。上手く誘導しないと逆効果になっちゃうから。しかも……」
「あのさ……」
「うん、大丈夫。大丈夫。問題ない。いくつか手は考えてあるから」
「もしさ……」
「だから、気にしないでいいって、那智君も観音寺さんも、ね」
「違う!」
僕の話を聞こうとしない態度に、ちょっとイラッとして強い口調を委員長に解き放ってしまう。すると、驚いて目を見開いた後、その半分ほどに細め、心なしか頬を膨らませた。
「何が?」
「委員長って、抱え込んでいない?」
「何をっ?」
「色んなもの。真面目すぎるんだよ。みんなが抱えている重いものを自分のところに集めてさ。辛いはずなのに平然と何事も無い顔をしてる」
「別に、辛いとか考えたことは無い。そんなの那智君の勝手な思い込みじゃない」
「ホント? でもさ、もし、そうだとしても、一人で何でもかんでもやること無いじゃない。僕で良ければ、いつだって荷物を持つから。手伝うから」
「すっごい勘違い。私、無理してない……」
委員長は、再び片手で頬杖をついて窓に顔を向けた。
しまった。ちょっと言い過ぎてしまったか。ホントは単にお礼を言いたかっただけなのに。どうして、こんなに馬鹿なんだろう。
頬をポリポリと掻いてから、コップに口をつける。喉が渇いていたわけじゃないけど、そんなことでもしなかったら、間が持たない。って言うか、ジッとしていることができなかった。
沈黙の時間が続いたら嫌だな。と考えていると、パスタが運ばれてきた。いいタイミングだ。委員長も頬杖をついているわけにもいかず、軽く座りなおしフォークとスプーンを手に取る。そして、僕の方をチラリと見て、
「ありがと」
って呟くように言う。
続いて、いただきます。って言ってから、フォークでクルクルとペペロンチーノを器用に丸めて口の中に放り込んだ。
委員長は、僕を無視するようにパスタを食べ続けている。だから、と言うわけではないが、僕は、委員長の一挙一動を見逃さないようにしていた。
すると、委員長は、スプーンとフォークを置いて、布巾で口を拭った。
挑発するかのように僕を射すくめてくる。長い睫をパチパチと瞬きさせて動かすと、今度は僕が視線を逸らす番だった。いただきます。って言ってから、真っ黒のイカ墨パスタを不器用にフォークですくって食べる。
「那智君、今、ご機嫌だよね」
「んんあむむ?」
「喋るのは、食べ終わってからで。もっとも、言わなくても解っているけど」
「何で?」
「尻尾を見れば、ね」
振り返って後ろを見ると、ピーンと伸びた尻尾がある。はあ、無意識で尻尾って動いちゃうから迷惑なんだよね。
「私と一緒に食事できて楽しい?」
半分しか食べていないペペロンチーノを脇に寄せ、わざとらしく頬杖をつく。仕返しとばかりに、僕をずっと観察する気? 僕は、尻尾をジャケットで隠してから、食べることに専念する。
すぐに全部平らげた。けど、こんなにジロジロと見られていたら、食べた気がしない。墨の黒い色が残る皿にスプーンを置いて、紙ナプキンで口を拭く。
「美味しかった?」
「うん。もうちょっと多めだとありがたいんだけどね」
「そう? 私は、お腹いっぱいだけど……」
「でも、半分しか食べてないじゃない」
「そうね。もったいないから、食べてくれる?」
「えっ?」
「捨てることになったら、環境に良くないから。それに、ペペロンチーノ、美味しいよ」
委員長は自分のスプーンとフォークをテーブルの紙ナプキンの上に置いた。そして、僕の皿と自分の皿を交換する。
僕の使っていたスプーンとフォークを渡された。うーん、食べるしかないか。
僕がパスタを不器用に丸め始めると委員長は、店員を呼んで、フルーツパフェを頼んでいる。
「お腹いっぱいだったんじゃないの?」
「デザートは別腹」
僕の目の前で真夏の向日葵が咲いていた。
太陽が傾いて地平線に近づいた午後五時、僕たちは駅ビルから出た。駅に接続されているペデストリアンデッキを歩く。優しい日差しに包み込まれているペデストリアンデッキは、二階分の高さと小さな公園並みのスペースがある。そこには、演奏の準備をしている人、スケボーで遊んでいる人、ベンチでお菓子を食べている女の子のグループ、沢山の人がいて、みんな楽しそうな顔をしている。
そんなうららかな春の夕暮れ間近のペデストリアンデッキで、唯一、疲れた表情をしていたのかもしれない僕は、たんまりと荷物を持たされていた。
「ちょっと、多くない?」
「さっき那智君、僕で良ければ倒れるまで荷物を持つから、って言ってくれたじゃない。あの言葉は嘘?」
そんなこと言ったかなぁ、と思い出そうとした。が、思い出しても状況は変わらない。そんなこと考える力は手足に回そう。僕は先行する委員長を追いかける。まるで、親鳥を追いかけるひな鳥だ。と嗤いたくなるが、そんな余裕は無い。
「ところで、この荷物、何処まで持っていけばいいの? って、委員長の家ってこの近くだっけ?」
「あそこ……」
指差した先には、歴史を感じさせる瓦屋根が見えた。まるで、神社のような家だ。マンションや低層の病院のビルが建ち並ぶ中、違和感があるが、その空間だけは妙に安定している。何本かの立派な杉と木造の四脚門が見え、知らなければ、本物の神社と勘違いしそう。
あんな、立派な家に住んでいて、住み心地はどうなの? って質問しようとしたら、委員長は、突然、犬にでも追い立てられたかのように歩き出す。
遅れるわけにはいかない。僕はかさばっているが、重量的には大したことない荷物を両手に抱えながら、ペデストリアンデッキの階段を下りた。
そのまま、家に向かうのかと思いきや、僕は荷物を持っている手をつかまれ、階段の陰に連れ込まれた。何事? って目を丸くしながら訊くと、自分の人差し指を唇に当てて、静かにしてのポーズをする。
「一体どういうこと?」
「いいから、黙っていて」
口を手で塞がれた。でも、荷物を持っているから、その手を払いのけることは出来ない。唇に掌が触れる。柔らかで、少しだけ温かみのある感触が伝わってきた。
「目を閉じて……」
「あんえ」
押さえつけられて声が出ない。紙の上に零した水のようにジワジワと委員長は、僕との間に存在するはずの空間を狭めてくる。時間がゆっくりと流れ出すような気がして、全身から汗が噴出す。全身が堅くなり、尻尾が怒張する。
今まで胸元を見ていた委員長が、視線を上げて僕の瞳の中に侵食してくる。
そして、ゆっくりと手を外すと、勝ち誇った猫の目を瞬かせた。
「もうすぐ、二人がくるよ」
委員長が、何の話をしているのか意味が判らなかった。が、階段を騒々しく降りてくる音が聞こえると、漠然とだが状況を理解したような気になった。
「どっちへ行ったの?」
「俺に訊くんじゃねえ。そっちこそしっかりと見てろよ」
声と共に現れた二人は、桜菜と鉄砲塚だった。階段の裏に隠れている僕たちに気づかずに言い争いをしている。何をしているのか意味不明な二人を見て、腹を抑えながら僕に頭をつけて忍び笑いをしている委員長。
一体、僕はどうすればいいの? って質問したくなるこの状況。僕は、二人に声をかけようとした。ら、向こうがようやく僕らのことに気がついた。
「那智! こんなとこで何しているのっ」
桜菜は、フリルのついたストライプのブラウスに、デニムのジーパン、スニーカーを履いている。十分な機動性を感じさせる春っぽい装いは、いつもより大人っぽさがある。
鉄砲塚は、どうでもいいや。と思いながら見てみると、ブラウン系のチノパンに白のティーシャツの上にレザージャケットを羽織っている。はいはい廃れちまっている(obsoleteな)ターミネーターでも目指して頑張ってくれ。
「二人ともデート?」
僕から離れて、でもまだ笑っていた委員長が声を震わせながら質問した。すると、二人は、顔を見合わせて、お互いに指を突きつける。
「「どうしてこいつとデートしないといけないんだ/のよ」」
二人は、仲良くハモリながら僕らに答える。
「別に、無理に否定しなくてもいいんじゃない?」
軽く言うと、桜菜はズンズンと前に出てきて、人差し指を僕の胸に突きつけてくる。眉を少しばかり吊り上げて、鼻を膨らませている。
「あのね、私はね……、」
「私は?」
「虎とか虎の仲間とか怖いから好きじゃないのっ!」
ん? 言いたい意味が不明だ。
「僕も広義では虎の仲間になるのかな」
「何で? 那智は猫でしょ? 猫目がどうこう言い始めたら、犬だって猫目じゃない」
「く、詳しいんだね」
「それくらいは、常識の範疇だから」
桜菜にドヤ顔をされて、何を話していたか速攻で忘れた。
僕は委員長を見ながら、両手の荷物を少し持ち上げて首をかしげた。
「和知、お前、貧弱そうだから、俺が代わりに持ってやるよ」
鉄砲塚に持っていた荷物を半ば無理矢理に奪われた。頬を引きつらせながら委員長を見ると、ニコニコと笑っている。
「那智も疲れたでしょ。折角だから、鉄砲塚君に持ってもらったら」
委員長が僕に言うと、不思議なことに桜菜と鉄砲塚に睨まれる。指でも目の前に出したりすれば噛みつかれでもしそうな雰囲気だ。あまりに異様な空気を感じて、体を一歩下げながら、委員長に助けを求めた。すると、二人は細かった目をよりいっそう細める。
一体、何をしたって言うの。叫びだしたくなる中、委員長が僕の肩を軽くポンと叩いた。
「今から、観音寺さんの家で焼肉パーティーを開催するのに、賛成の人」
「賛成!」
飼い主にお手をする犬なみの反応速度で、鉄砲塚が手をあげた。おいおい。俺の中で、徐々に君に対する印象が変わっていくよ。そんなこと考えながら鉄砲塚を見ると、片方の目だけをギョロっとさせて僕に圧力をかけてくる。
そんな目つきで睨まれたとしても、焼肉パーティーとか、あまりにも唐突すぎてどう反応すればいいのか判らないぞ。そもそも、どっから焼肉パーティーが出てきたんだよ。そのことをまず、説明してもらいたいんだけど、さ、委員長。
と思って、問いただそうとしたら、桜菜が先に委員長に詰め寄る。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どうして私の家なの? 他の人の家じゃ駄目なの? 那智の家とか」
「えっ? それは無理、絶対に無理。せめて、三日前に連絡してもらわないと、ママがパニックを起こしちゃうかも」
「ま、ママ……?」
「い、委員長の家の方がいいじゃん。凄いでかいし、近いし、どうせ荷物を置きに行かないといけないし……」
「あのね。これは、観音寺さんの転校してきたお祝いパーティーみたいなものだから、観音寺さんの家で行う必要があるの。オッケ?」
「でもさ、私の家……」
「一人暮らしなんでしょ。お掃除手伝ってあげるから。それとも、また、コンビニのお弁当を一人で食べる?」
「はっ! なんで、そんなことを知っているの? もしかして読唇術の霊力でも持っているの?」
「ふふ、最新の研究では、読唇術の霊力は存在しないことになっているけど、もしかしたら、私がその霊力を持っているかもね」
「じゃ、じゃあ……」
桜菜は両手で自分の顔を隠そうとする。けど、その行為、一体、何の意味があるの? 僕が突っ込もうとしたら、その前に、委員長が呆れ顔で桜菜に答えを教える。
「安心して。そんな能力は持っていないから。ただ、昨晩あなたが、すっごい嬉しそうな表情で弁当を持ちながらコンビニから出てきたから。きっと毎日コンビニでご飯を買って食べているんだろうなって推測しただけ」
「そっか。驚いちゃったよ。でも、たまには御飯、作ることもあるんだ。トーストに目玉焼きとか」
それって、はかとなく料理するってレベルじゃないジャン。と突っ込みたくなる気持ちを抑えていると、委員長が歩き出す。
「美味しい常陸牛の専門店を紹介するから」
委員長の背中は、大きく見えた。多分、今、ドヤ顔してる。
桜菜の家は、ウィークリーマンションの一室だった。玄関から全ての間取りが見えてしまう一LDKだ。委員長と二人で事前に片付けたからか、家の中は、本人が言うほど散らかってはいない。いや、散らかっているとかいないとかの表現がおかしい。はっきり言って、生活感を感じられる荷物がないのだから。
少なくとも、押入れに放り込んで片がつく程度の量しかなかったと言うべきか。
キッチン部にも食器はないし、見渡す限り壁にハンガーでかけられているセーラー服しかないってどういうこと?
僕らは開いている襖を通り、フローリングのリビングに入る。
一番奥に桜菜が寝るにしては大きすぎるベッドが鎮座している。使われている気配のないテーブルや食器棚は、元々の備え付けのものだろうか。
生活感が一切無い。 そもそも、勉強道具、いや教科書すら見当たらないし。
部屋の中央に存在している長方形の家具調コタツ。これだけが、唯一の個人所有物じゃないか?
その家具調コタツで、桜菜と委員長は、切った野菜を置いたり、焼肉用のプレートを用意したりしている。僕が手持ち無沙汰になって、リビングの入り口に立っていると、
「俺、妹以外の女の部屋に入るの初めてだ」
って、横で鉄砲塚が呟いた。思わず、僕もだ。と小声で言うと、鉄砲塚は首を傾けて僕を見た。そして、口元をニヤリと吊り上げた。
僕はちょっとだけ愛想笑いをしてから、紙皿を並べている桜菜を見た。
「あれ? カセットコンロが無いじゃん。もしかして、ガスコンロで焼いて食べるつもり?」
「そんなわけないじゃん。確か、クローゼットに……」
「じゃあ、僕が出すよ」
「ば、馬鹿那智。な、何、意味不明なことを言っているの」
「えっ? 何が意味不明なの。カセットコンロが無ければ焼けないじゃない。やっぱり、こういうのは、ガスコンロで焼いてきたのを食べるより、みんなでプレートを囲んでつつきあいながら食べるのが最高だと思うけど」
「気を使わないで座っていてよ。自分で出来るから」
桜菜は慌てて立ち上がる。だが、僕がクローゼットを開くほうが、早くて楽だろう。カセットコンロを取るためにクローゼットに手をかけたとき、背後から大事な部分を握られた。
ああ、そこは、駄目だってば! 叫ぼうとしたが、あまりにも突然だったので反応できない。
「観音寺さん。そんな、破廉恥なこと……」
「なんだ。お前ら、もうそんな関係になっていたのか!」
くぅっ、委員長も鉄砲塚も好き放題なこと言いやがって。だが、心の準備の無い攻撃だったため、体が震えて力が抜けていく。
だから、崩れ落ちていく僕が、掴んでいたクローゼットを引っ張って開いてしまっても仕方が無いじゃないか。どうしようもないじゃないか。
それに、開いたクローゼットの中に大量の不可侵領域に隔離しておく(さわってはいけない)ものが存在しているのは、僕のせいではない。崩れた堤防から襲いかかる濁流のように飛び出してきたそれ。僕は抵抗できずに大事な部分を握られたまま床に倒れた。
今なら、パンドラの箱を開けた人に激しく同意できる、と叫びだしたくなりながら、タイムラグでアタックしてきたゴミ袋とペットボトル、そして衣類に押しつぶされる。
そして、最後に芸人がたらいにぶつかるときのように、カセットコンロが落ちてきて、僕の後頭部をしたたか打ちつけた。
ああ、何でこんな目に合わなくてはいけない、と握りこぶしを作る。
上半身を起こして背後を振り向くと、意味不明なことに桜菜も倒れている。イテテ、とか言いながらも、大事な物を離そうとしない。
「桜菜、尻尾は掴んじゃ駄目って言ったじゃないか」
「そんなことより、どうして気を使わないでって頼んだのに開けるの? こうなるって想像できなかったの?」
「尻尾を握られなかったら、こんなことにはならなかったんだって。ちょっとカセットコンロを取ろうとしただけじゃないか」
「だーかーらー、座っててって言ったじゃない。どうして余計なことをしようとするの? ありえないでしょ?」
「カセットコンロを取ろうとしただけじゃない。それなのに、どうしてそこまで言われないといけないの」
「礼儀ってもんがあるでしょ。大体、頭に……」
尻尾を離して体を起こした桜菜は、僕の顔を見て停止した。そして、餌をねだる金魚のように口をパクパクさせてから、指を突きつけてくる。
ん? 何が言いたい? と思って、頭に手をやるとツルツルとした布の手触り。手にとって見ると空色で小さい花柄が沢山印刷されている……。
「な、この変態。どうして洗濯前の人の下着を被ってるの。返してよ」
「言われなくたって返すさ」
僕は、軽くだが桜菜に向かって投げつける。汚いものを扱うようにして。
「何その態度、酷くない?」
反論しようとしたが、うっすらと涙を浮かべられたら黙るしかない。僕は立ち上がる。もう帰ろう。こんなとこにいるべきじゃない。
僕は、部屋を出ようとした。すると予想外の方向から攻撃がきた。
「待てよ」
振り返ると鉄砲塚が殺気立っていた。
「……」
僕は喉まででかかった言葉を飲み込んだ。
いつもの煽るような目つきではない。油断すればパンチの一発でも飛んでくる。空気ですら毛羽立たせるような、怒りからできた圧力を放っている。
「何か言うことはないんか?」
「い、いや……」
「マジで見損なったぜ。俺に向かってきたときは多少はやるじゃんって思ったが、とんだ見込み違いだ」
鉄砲塚の熊のような掌で胸を突かれて僕はふらつく。だが、これ幸いとばかりに、そのまま玄関に向かおうと思った。
「ちょっと待って。ほら、那智だって悪気があったわけじゃないし、崩れたものはクローゼットに叩き込みなおせばオッケーだし、ねえ、そんな険悪な表情をしないで、折角の焼肉なんだから、仲良くみんなで食べようよ。だから、鉄砲塚君も那智も席について、さあ、さあ、急いだ急いだ」
「観音寺さん……それでいいの?」
「あっ、委員長、ごめん。手伝ってもらったのに、汚しちゃってさ。今から速攻で片付けるから、鉄板に油のほうよろしく」
桜菜は立ち上がって片付け始めた。いそいそと下着とか、ゴミ袋を掴んで、押し込むように収納していく。
鉄砲塚は、桜菜の様子を一瞥して仏頂面になると、僕に背を向け、座布団すらないコタツの前にドスンと音を立てて座った。
その向かい側の席が空いていた。本来ならば、僕が座るはずだった席だ。しかし、リビングに戻るタイミングを逸している。だから、その場に呆然と立ちつくすしかない。
「何やっているの。早く来なよ」
桜菜が手招きをしている。床を見ると、散乱させた荷物やゴミたちは、綺麗さっぱりいなくなっている。要するに、見た目ほど沢山の量があったわけじゃないんだ。
だったら、すぐに拾って直してしまえば良かったんだ。
僕は招き猫に引き寄せられた客のように、予想していた場所に座った。
すると、委員長は訴えかけるような目で僕を見ていた。特に理由があるわけではないが、その視線が痛くて鉄砲塚を見た。何か話しかけてくるか、と思いきや、自分から視線を逸らし、焼肉のたれをお椀型の紙皿に入れている。
ふー、と息を吐きながら、紙皿と割り箸を用意した。
「あのさ那智君、あんまり、こんなこと言うのも……」
「ねえねえ、コンロに火、点けるね。やっぱり、こういうのはワイワイ騒ぎながらやった方が楽しいよ。ほら、私、最近、外食っつーか、コンビニ弁当ばっかりだったし、すっごい嬉しいっていうか。ホント、ありがと。みんなありがと」
「観音寺さん……」
「ねっ、食べよ」
委員長は目を閉じて軽く首を振ってから、菜箸を使ってプレートに肉を乗せ始めた。すると、既に委員長の向かいの席に座っていた桜菜は身を乗り出した。
「委員長、先に、野菜を入れないと残っちゃうよ。そうそう、食べ始める前にお茶を配っとこうね。って、あー、それに、違う、違う、一番初めは、タン。タンから食べないと。だーかーらー、鉄砲塚君、ネギは早すぎ、まだ完全に生だって。堅くて食べれないよ。って、そこ、那智、チャンピオンロースはちゃんと四等分するんだから、勝手に食べない。って何でシラタキ? 焼肉とすき焼きを勘違いして買ってきちゃった人は誰?」
「もしかして、観音寺さんは鍋奉行な人?」
「鍋奉行もやるけれど、今日は、焼肉奉行かなー。って、カルビ焼けたから、お皿出してー」
桜菜は菜箸を使って頼みもしないのに、カルビをみんなの紙皿に入れる。そして、委員長から奪った肉を乗せた紙皿を左手で持ち、タコヤキでもひっくり返すようなスピードでプレートの上に肉を置いていく。
「やっぱり、焼肉って言ったらロースだよね。そりゃ、タンやカルビもいいし、レバーも貧血気味のか弱い女性の味方、って勿論、私のことだけど、ひっくるめて、グーって思うけど、まっ、そいつらが束になったとしても勝てないのが、ロースじゃないかな。まっ、どれだけ凄いかって解りやすい例えをするならマグロ。大間産の本マグロはどの部位だって最高だけど、そうは言っても、赤身よりかトロ、しかも、中トロより大トロが大ボス・ラスボス・闇のボスってな感じじゃないかな。しかも、このロースは単なるロースじゃない。常陸牛のチャンピョンロースだよ。これが美味しくないなら、この世界に美味しいものなんか存在しないって言いたくなるくらいに、絶対に美味しいんだから」
桜菜は独り言のようにぶつくさ言いながら、ロースの表面だけを焼いていく。
「ちょ、ちょっと観音寺さん、焼く時間が短すぎる。自分のは、自分でやるから、ね。気にしないで」
「そう? 鉄砲塚君は?」
「お、俺か? 俺は生でもいいぜ」
なんだ? 鉄砲塚は頭なんか掻いてにやけてやがる。先日までクラスから追い出すとか暴れていた人間がこの変わりよう。一体、どうなっているんだろうかね。
桜菜が菜箸でロースをつまむと、鉄砲塚は桜菜に微笑みかけながら紙皿を前に出している。
ホント、マジ信じられない。骨抜きにされている鉄砲塚の姿をビデオに録画したい。そして、学校でいつも踏ん反り返っている鉄砲塚だけど、桜菜に餌付けされて、こんなに大人しくなってしまいました。って上映会でもやってやりたい。
えらの張った顔をいっそう四角くする鉄砲塚のイメージは、もはや虎っていうより犬だ。それも、土佐犬とかドーベルマンとかじゃない。愛玩動物であるチワワだ。
僕はチワワを睨みつけながら、自分のロースを確保しようとした。どうせ、桜菜は僕に肉を取ってくれそうにない。と思ったから。
しかし、箸を伸ばすと桜菜の菜箸と同じ肉を掴んでぶつかりそうになる。
「あっ」
桜菜は慌てて菜箸を引っ込めた。目だけで表情を追うと、戸惑いが感じられた。友達の輪に入り損ねた子供のように迷いがある。
僕は、つまんだロースを焼肉のタレに通すように軽くつけてから口に放り込む。甘くて柔らかい肉だ。口の中に熱気と美味さ汁みたいなものが広がっていき至福に包まれる。さすがチャンピョンロースだ。このまま昇天しそう。
と思ったが、僅かばかりの違和感を覚えた。桜菜の菜箸から移ったのだろうか、焦げた味がする。画竜点睛、完璧ではない。苦味に顔をしかめながら、桜菜を見た。
「あのね和知君……」
「い、委員長、この部屋、何となく熱くない? 匂いも籠もってきたし。窓開けようよ。反対の人いる?」
桜菜は、委員長の話を区切ってベッドに乗った。そして窓を開けると、新鮮な空気がカーテンを揺らしつつ勢いよく流入してきた。暴れだしそうになるカーテンを丸めて金具に留めた桜菜は、窓の外の景色を一瞥する。目を細めてから自分の席に戻った彼女のテンションは落ちることが無い。
「そう言えばさ、鉄砲塚君ってどうして、純人間のこと嫌いなの?」
明るい声で鉄砲塚に話しかけた。すると、肉を食べることに夢中になっていた鉄砲塚の箸が止まる。
タレのついた口を手の甲で拭うと、らしくなく溜息をついた。
「あんまりいい話じゃないが」
「嫌なら無理にとは言わないけど……」
「嫌ってわけじゃねえ。ただ、あんまり明るい話じゃねえ。それでもいいのか」
ふう。という軽い溜息が聞こえてきた。委員長がポケットティッシュを取り出して、口を拭っている。まだ、肉は残っているけど、もう食事は終了したということだろう。
委員長は僕の視線に気づくと、少し微笑み、母親のような視線を返してくる。僕は、目の前のプレートから聞こえてきた、肉が焼ける音に気を取られた振りをした。
焼肉のジューっと叫ぶ音、白い煙、匂い、全てが満たされていたはずなのに、僕のお腹はちっとも満足できない。飢えている子供のように、ひたすら肉に箸を伸ばす。
今がチャンス。ライバルである鉄砲塚の動きが止まっているから。そう考えながら、次々に自分のエリアに肉を並べていると、大食漢と思っていた鉄砲塚が箸を置いた。
背筋を伸ばし目を閉じている。座禅でも始めようかという雰囲気だ。
一筋の風が部屋の中を踊った。
「俺には妹がいる。俺が言うのもなんだが、はっきり言ってかなり可愛い。その妹が、三年前、純人間に襲われた。って言っても金を獲られたわけじゃない。霊力を奪われたんだ」
「それって、どういうこと?」
「詳しくはよく解らない。とりあえず、病院に純人間が妹を運び込んだ。そして、運び込んだ人間はその場で死亡し、妹は病人になった」
「霊力が失われたからってこと」
「ああ、詳しいところは現代医学では未知だ。けど、霊的バランス、魂のバランスを崩すと、肉体が安定できない。ホルモンバランスを崩したり、白血球が外的に機能しなかったり、と、病気がちになる。何より、精神的にも不安定になるからな」
「純人間に接しただけで……? でも、悪気は無かったと思う。だって、その人も死んでしまったんでしょ」
「悪気があったとか、無かったとかじゃねーんだ。純人間が妹を病人にした。それが、許せねーし、納得いかねーんだ」
「ごめん。私たちのせいで……」
「いや、別に観音寺が悪いなんて思っちゃいねー。でも、それはそれ、これはこれ。純人間がいたらぶっ潰してえ、って感情をどうすることもできねーんだ」
鉄砲塚は紙コップのお茶を一気に飲み干す。そして、八つ当たりするかのように紙コップを一瞬で潰す。
それを見て桜菜は下を向いた。髪の毛がハラリと垂れて、焼肉のタレが入っていた紙皿に入りそうになる。反論をせず黙ったままで……。
僕は、箸を置いた。桜菜が反論をしないならば、他の人間がそうするべきと考えていたから。
「なあ鉄砲塚、その事件が起きた日にちを覚えているか?」
僕の質問に鉄砲塚は頭をかいた。それから、指を折って数え始める。
「確か、三年前の……」
「やっぱり、十二月十二日か?」
僕が、その日付を言うと、鉄砲塚は腕組みをして考え込み、視界の隅にいた桜菜は全身を一瞬だけ震わせる。
「ああ、そう言われるとその日だったかもしれね。自信は無いが」
「も、もしかして、ダブルトゥエルブだったの?」
「ちょ、ちょっと、あなたたちダブルトゥエルブのこと知っているの?」
委員長がコタツに両手をついて身を乗り出した。今にでも、僕と桜菜を問い詰めるような勢いだ。
「その、ダブルなんたらはどうでもいい。妹と何の関係があるんだ」
鉄砲塚が、困っている桜菜の表情を見ながら僕に質問を飛ばしてくる。はん。こいつ、一体どういうことだろうね。
僕はぞんざいに目の前の肉を食べ終えてコンロの火を切った。
「エクトプラズムショックだね」
力強く発した言葉に驚いて、鉄砲塚が、桜菜が、そして委員長までが目を丸くして僕を見ている。十円ガムのアタリを引いたときのような優越感がある。友達に玩具を貸すときのようにもったいぶるために紙コップを手に取る。お茶をゆっくりと飲むのを見つめられると、喉に何かが引っかかって咳き込む。
スゲー格好悪……。
「で、なんだよ。それ」
「あ、うん。霊的なアレルギーショックのこと。多分、妹さんは暴走したエクトゲートの霊的エネルギーに過敏に反応してしまったんだ」
「霊的なアレルギーって何だ? 聞いたことないぜ」
「アナフィラキシーショックは知っているよね? 蜂とかに刺されたときに、過剰な免疫応答が発生してショック状態になるってあれ」
「ああ、勿論。てゆーと、それと同じことが起こったとでも?」
「可能性が高い。と言わざるを得ない。事実、その日に、千人単位で病院に行くことになり、少なくとも五十人以上が亡くなられたと……」
「ちょっと待って」
委員長が両手でコタツを叩いた。焼肉のプレートが揺れ、コップが倒れそうになる。反射的に押さえる。
「何で、和知君がY―1条項を知っているの?」
「そんなことより、鉄砲塚の妹さんの病気の原因が、純人間でないって解ってもらえれば……」
「いや、納得できねえ。誤魔化されている。そんな気がするぜ」
鉄砲塚は先程より目つきが険しくなっている。逃げるように、両手を後ろについて身を引くと、委員長の鋭い眼差しが刺さった。
今度は、針のむしろか……。
「あのさ、僕の父はエクトゲートの研究者なんだ。だから、情報統制しているいくつかの情報について知っている。勿論、言えることと、言えないことがあるけど」
「和知君、Y―1条項を口にするのはかなりまずい。特に、ダブルトウェルブに関しては、絶対に口外しては駄目」
「僕は、エクトプラズムショックのことしか口にしていない。エクトプラズムショックに関しては、ネットで随分リークされているから、問題ないはず。父さんも今年の正月にエクトプラズムショックは隠せないから、わざとネットからリークして、学会発表するってウンザリした顔で言っていたし……」
僕は、桜菜のほうを向いた。
彼女は俯いていた。髪の毛が表情を隠している。でも、見る必要は無かった。そんなこと想像できるから。
「観音寺さん……」
「私、ゲートエリアの住人で、当事者だったから……。みんな、ごめん。聞かなかったことにして」
「それは、構わないけど。桜菜は、ちょっと口が軽いんじゃない? 転校してきた日だって、純人間の話なんかするべきじゃなかったんだ。感情的、政治的なデリケートな問題なんだからさ」
「ちょっと、和知君止めなさい。今更、済んだ話を持ち出してどういうつもり?」
「てめえ、いい加減にしろ!」
顔を赤く膨らませている委員長を意識した瞬間、鉄砲塚が立ち上がった。虎と言うより、グリズリーをイメージさせるその姿に緊張感が走った。
まさか、この場で襲い掛かってくるはずは無い。と思いながらも身構える。立ち上がりはしないものの、両手を胸の前で握りしめる。尻尾が堅く毛羽立っているのを感じながら、呼吸を速くする。
「ごめん!」
何が起きたか解らなかった。が、僕も鉄砲塚も突如発せられた声のほうを向いた。
声の持ち主――桜菜が微笑んでいた。眸にいっぱい悲しみを湛えながら、笑顔を見せていた。
「観音寺さん。あなたは悪くないから……」
「あのさ、今日は、みんなと一緒に焼肉なんか食べれて凄い嬉しいんだっ。だから、みんなの気分を害するようなこと言っちゃて、ホントごめん。いやー、悪気は無いんだけど、那智が言うように、結構、ノリとかで喋っちゃうことあってさ。マジでこの癖直さないと、絶対に失敗するから、気をつけないとね。ホラ、宇賀ちゃんの物真似とか本人の前でやっちゃうような失敗をやりかねないから」
無理をしている。
すぐに解った。
僕は自分の胸をつかんで荒くなる呼吸を整えようとする。こんなに、苦しくなるのは誰のせい? そう考えると余計に苦しくなった。
だから、僕が言わなきゃいけない番だった。すぐにでも言う必要があった。それで、問題が解決するかは判らない。けど、黙ったままではスタートラインすら立てない。
僕は、左手で胡坐をかいていた自分の太ももを殴りつけてから口を開いた。
「楽しそうなところお邪魔して悪いわね」
何が起こったのか理解できなかった。
勿論、僕の声ではない。桜菜の委員長の、当たり前だが鉄砲塚のものでもない。というより、部屋の中から発せられた声ではない。
その声の持ち主は、玄関に立っていた。何時からいたのか判らないが、当たり前のように平然とずうずうしく存在していた。
渡瀬槿花、桜菜の前に座っている同級生が、大きな胸を自慢するように腕を組んでいた。何故だか紺色のスーツを着ている。大人っぽく見えなくも無いが、背伸びしすぎにも感じられる。
本人の表情が真面目ならまだしも、ニコニコ笑っていると、何かの冗談かと一瞬だけ感じられた。
「窓を開けたままで大声を出すと、あまり世間体が良くないと思わない?」
言外に、全て聴いていましたよ。と言わんばかりの言葉に、まず、委員長が身を堅くする。頬にしわが寄り、コメカミを強く噛んでいた。
「渡瀬、あなた、どうしてここに」
「あれー? それは、どちらかと言えばアタシの台詞。どうして純人間が嫌いなはずの委員長がいるの?」
「私は嫌いではない」
「あれ? そうだっけ? ああ、あれは委員長のお父さんの政治的ポーズってわけね。いやぁ、騙されていたなあ。さすが、政治家、と有望な娘ねぇ」
放電でも始まるのではないか? そんなピリピリした空気の中、渡瀬だけは余裕の笑顔。もしかして、笑顔の仮面でもつけているの? って質問したくなるくらい。
「用が無いなら帰れや」
僕に背を向けた鉄砲塚の背中からは、湯気が立ちそうだ。まさか、女性に向かってステルスブレットを撃つことはないだろう。が、今すぐ力ずくで渡瀬を排除するくらいはやりかねない。
最悪の場合、止めなければ、と立ち上がる。
「用が無いといちゃ駄目?」
渡瀬は困った幼児のように顔を傾げる。その仕草が計算されたアイドルのカメラ視線を思い出させる。
「ああ、どこぞへ行けや」
「うーん。あなたたちに用はないけど、この部屋の家主には用事があるのよね」
「ちょっと、渡瀬、あなたもしかして……、生体科学省の関連?」
委員長が険しい表情をした。
――生体科学省は、主に純人間の生体管理を行っている。本来は、エクトゲートによって発生した、霊化人間の化学分析を行うのが目的であった。しかし、ユグドラシステムのせいで利権が拡大された。ユグドラシステムの制御のために、純人間を管理する必要が出てきたからだ。
クリーンに電気エネルギーを取り出せるユグドラシステムの維持・管理は、すぐに国是となった。そのため、純人間を管理する目的で、独自捜査権限まで与えられることになった。そして、気づいたら、唯一、内閣が頭を押さえることができる不可侵領域となっていた。
その内閣でさえ、官僚機構のバランスの良い懐柔策に、コントロールされるどころか、逆に操られているのが現実。
そんな、生体科学省と渡瀬がどんな関係があるって言うんだ。
「そう。今日はオフィシャルなお仕事。って言っても私は単なるメッセンジャーだけど。そんなわけだから、あなたたちが帰ってくれないかな」
「説明くらい聞かせてもらっても罰は当たらないと思うけど」
僕が尋ねると、一瞬だけ狼のような目つきをした。
「あのさ、私が来ている意味を考えてくれないかな。生科省の取締官に無理矢理排除されたり、連行されたりしたいって言うならどうしようもないことだけど……」
「待ちなさい。一般人を強制的に排除するなんて、法的根拠が考えられ……。ってまさか……」
「あらあら、委員長は何か重大なことを思い出したのかしら。だとしたら手間が省けるから助かるわ」
委員長が睨みつけても平然としている渡瀬は、自分自身の左手を胸元に近づけた。腕時計を見ているのだろうか。瞬きするように眉をしかめた。
「予定よりおしている……。急がないと、観音寺、来い!」
犬でも呼びつけるかのような言い方だった。
人格とか認めていないかのような言い方に腹が立った。
「僕らは同級生じゃないのか? それなのにどうしてこんなやり方を」
「同級生? これが? 和知君ってホントに面白い意見の持ち主」
「おかしいよ渡瀬。お前、自分がやってること解ってるの? 傍から見たら滑稽だよ。鏡でも見て自分の姿を見てみるといい」
「和知君、もう黙っててくれない? いい加減にしないと、あなたまで連行されることになるよ?」
「だったらどうだって言うんだ。逮捕したければ、逮捕でも何でもすればいい」
「あの、逮捕ではなくて……」
「俺も気にいらねえ。理由などねえが、連れてかせねえ」
「はあ、本当に困った人たち。ねえ、委員長、説得してくれない?」
「残念だけど渡瀬。どちらかと言えば私も二人と同じ意見なんだけど」
「あれあれ? どうしちゃったの委員長。ここで問題を起こしたら、父親にまで迷惑をかけることになるけどいいの?」
「桜菜、窓から脱出しよう。僕の能力を使えば、十メートルは飛べる。囲いを解いたら十分、逃げれるはず」
僕は蒼白になっている桜菜の手を掴もうとした。けど、すぐそばにあるはずの手、その手にどうしても届かない。
「ちょ、ちょっとみんな待ってよ。何か勘違いしていない? 逮捕されて牢屋に閉じ込められるわけじゃないし、別に大した話じゃないと思うんだ。だから、大事にならないように渡瀬さんがわざわざ来てくれたんだし。もし、ここで私が逃げたりしたら、その方が問題になっちゃうんじゃないかな」
「なんだ。当人が一番冷静じゃない。それじゃあ、みんな部屋から出てくれないかな。掃除とかは職員さんがマンションの管理者に依頼してくれるから、心配しないで」
「みんな、今日はありがと。楽しかったよ」
桜菜は、笑顔で言って玄関に向かう。そして、渡瀬に近づくとジーパンのポケットから部屋の鍵を取り出した。
「あとは、お願い」
桜菜が鍵を持った手を伸ばすのに渡瀬は受け取ろうとしない。笑顔のままだが、顎でシンクの脇に置けと指示をした。
それを見て、桜菜は一言も発せずに鍵を置くと、渡瀬を避けて自分の靴を履く。
「待ってよ桜菜。何処へ行くの? こんなのちっとも理解できないし、おかしいよ。渡瀬の言葉だけじゃなく、ちゃんとした人のちゃんとした書類とか指示とかがあるべきじゃない?」
「あのさ那智、大きなお世話じゃない? 私が納得しているんだから、それ以上の問題は何も無いって。いい加減、お節介とか、ホント迷惑」
「そんな言い方しなくても……」
「ああ、もういいって。時間があまり無いようだし。職員を待たせたら大変だから。じゃ、みんなバイバイ」
桜菜は、僕らのことをどうでもいいような、おざなりな言い方をした。そして、ドアを開いて振り返りもせずに出て行く。
どうしてだろうか。そんな言い方をしなくてもいいのに。
僕のこと、友達とも思っていなかったのかな。力が抜けてその場にしゃがみこむ。
「みんな、折角の焼肉パーティー、邪魔しちゃってごめんなさいね。それじゃあ、月曜日に教室で」
笑顔のままの渡瀬も部屋を出て行く。
鍵をそこに置いたままで。
「私たちも帰ろうか。でも、その前にね……」
委員長の視線の先には、沢山とは言えないが、ゴミの山が存在していた。残った肉とか野菜とか、プラスチックのケース、余った紙皿とタレなどなど。
ゴミ袋ってクローゼットの中に入っていたかな? 寝惚けているように頭が回転しないのを感じながら、漫然とコタツを見ていた。
「今から、二次会をやるか」
鉄砲塚が大きな音を立てて座った。二次会って何だ? まだ、食べ足りなかったのか? カセットコンロに火がつくのを他の世界の出来事のように眺めていた。
「和知も食べるんだろ?」
「どうして?」
「こんなの捨てるより、食っちまった方が環境にいいだろ。いや、少食で食べれないっつーなら、無理して食べなくてもいいぜ」
「いや、食べるよ。大体、さっきは鉄砲塚より沢山食べていたじゃないか。僕的には、鉄砲塚の方が少食に思えたよ」
「好き放題言うじゃない。それが、完全な勘違いだってこと教えてやる」
「やれやれ仕方ないわね」
委員長はあきれた顔をしている。そりゃそうだ。家主不在で焼肉パーティーを再開しようって言うんだから、明らかにおかしい。
それでも、このまま帰る気にもなれない。
「委員長も焼肉食べるの?」
「私はパス。もし、デザートがあるならば食べるけどね」
委員長はクローゼットからゴミ袋を取り出して片づけを始める。
「あ、いいよ委員長。食べ終わったらやるから」
「そうだ。玄葉、座ってろよ」
「気にしないで。じっと待っているより、この方が楽だから」
目の前のプレートで残っていたカルビが、煙を出しながらジュっていう叫び声をあげる。僕は、軽くあぶる程度で、タレにつけてゆっくりと食べる。
残っていた肉と野菜。美味しかったはずなのに、甘ダレだったはずなのに、妙に苦く感じていた。
日曜日の朝、七時半に胸焼けがして目が覚めた。新しい朝、美しい朝、なんて気持ちはまったくなく、おえーとか、気持ちわるーって叫びだしたくなる素晴らしい朝。もう、しばらく焼肉なんか食べたくない。
白い天井を眺めながら、二度寝しようかと悩んだが、一度、回転を始めた頭は元気一杯。ベッドの上でゴロゴロ転がりながら体勢を入れ替えるが、気持ち悪さが倍増されただけだった。
となれば、起きるしかない。僕はベッドから這い出た。そして、寝巻き代わりに来ているエンジ色のジャージと裾が擦り切れたトレーナー姿のままで自室を後にし、リビングに向かった。
L字型の階段を降りると、そこはダイニングだ。ガラステーブルにドライフラワーのカーネーションが飾られている。でも、綺麗な割に使用されない。夏場のみの季節座席だ。その他の季節は、僕の携帯電話と財布置き場になっているだけだ。
そのダイニングと一体になっているリビングは、フローリングの広々とした空間だ。既にシャッターは開けられていて、太陽の日差しが暖かく照らしている。ピンク色のカーペットが敷かれていて、部屋の中央に木目模様の家具調コタツが偉そうに鎮座している。その後ろに置かれたふかふかソファーは、テレビを見やすい位置にあるが、実はあまり使われていない。どちらかと言えば、今の母のようにコタツに入っているほうが多い。
母はTカップを持っている。いつものダージリンを飲んでいるのだろう。ちょこんと座布団の上で女座りをして、僕を気遣っているのか、イヤホンをしながらテレビを見ている。
熱心にテレビにかじりついている母の手を煩わせることは無い。そう考えて、僕はシステムキッチンに向かうとしたら、母が振り返った。
「おはよー那智」
「あ、おはよ」
挨拶をかわした母は、イヤホンを外して立ち上がる。優しそうな笑顔を見せながら、朝食の準備をするから座っていなさい。と言ってキッチンに向かう。
僕は、テレビを見る気にならなかった。その代わりに新聞を手に取り、一面にデカデカと書かれたユグドラシステムが不安定になっているというニュースを読んだ。
「見た? そのニュース」
朝食を花柄トレーに乗せて持ってきた母が、ウンザリするような表情を見せる。
今日の朝食は、トーストとベーコン付きの目玉焼きのようだ。湯気が立って、目玉焼きの匂いをプンプンさせている。胃がムカムカしていたはずなのに、お腹がぐぅとなった。僕は箸でトーストの上に目玉焼きを乗せて、端からかぶりつく。
「不安定って書いてあるけど、本当は、エクトゲートが暴走しているらしいの」
「暴走? そんなの何処にも書いていないけど、それって親父からの情報?」
「そう。だから、パパは、しばらく帰って来れないみたい」
「しばらくって、正月からずっと帰ってきてないじゃないか。ホント、何やってんだか、あの不良親父は」
「那智! そんな言い方をしたら駄目でしょ。パパのおかげで生活できているんだから、感謝しないと」
「別に、感謝していないわけじゃないけど、家族っぽいことしたっていいじゃないか。旅行だって小学校以来、家族での食事ですら、ここしばらくは……」
「ゴメンね。那智、ママのせいで……」
「そんなこと言ってないよ」
僕は、母から顔を背けてテレビを見た。イヤホンが刺さっているせいで音は聞こえてこない。けど、朝から鬱陶しいキャスターの声なんか聞きたくない。映像だけで十分だ。と思いながら、箸でベーコンをつまんだ。脂っぽい匂いがして、胸がいっぱいになる。
ちょっと、今日だけは肉はパスだ。そう考えて、僕が箸を置くと、母が心配そうな目で見ていた。
「どうしたの?」
「もしかしたら、避難を考えないと。パパからの連絡だと、前回のダブルトゥエルブより強いエクトプラズムアブソープション(霊魂の吸収現象)が発生する可能性が高いそうなの」
「でも、ここは、エクトゲートから百キロは北にあるから大丈夫じゃないの? ちょっと心配しすぎだよ」
「ならいいんだけど。結局、政府の広報は玉虫色でよく判らないし。それに、肝心の部分はごまかしているから……。心配よね」
「そうは言っても、そこそこの信頼性があるでしょ。あんまり悩みすぎると、その方が健康に良くないって」
「それは解っているけど……。また、沢山の犠牲者がでると思うと、心情的には複雑なものがあるの」
「ああ、エクトプラズムショックね。でも、前回とは違ってこんだけアナウンスしているから、それほど犠牲者は出ないんじゃないの?」
「前回、情報をあまり流さなかったのは、故意みたい。避難させずに、わざと広範囲の民間人のエクトプラズム(生体エネルギ)をゲートに吸収させたって話。でも前回は大事になったから、今回は、民間人を避難させる代わりに人身御供を使うらしいの」
「人身御供?」
僕の質問に対して、母は動きを止めた。慌てて、僕が食べ残したベーコンを乗せた皿をトレーに乗せて、キッチンに持っていく。
その動きがあまりにもぎこちなかったから、僕は慌てて後を追う。
「どういうこと?」
「聞かなかったことにして、ね」
母は、ベーコンをシンクの三角コーナーに放り込んだ。魚の形をしたスポンジを取り出し、洗剤をつけて食器を洗い出す。
「おかしいと思っていたんだ。肥大化したエクトゲートを縮小させるためには、エクトプラズム、つまり、生体エネルギを吸収させるしかない。ユグドラシステムでストックしているエクトプラズムで制御できる範囲なら、ゲートが暴走するはずは無い。だとしたら、どこから不足しているエクトプラズムを持ってくるしかない。とすると考えるまでも無いよね。人間の魂エネルギーが一番、大きなエクトプラズムを持っているんだから……」
「その人間の中で、純人間が一番、エネルギー効率が良いって知っていた?」
母は、泣いていた。おもむろに洗うのを止めた。僕の横をすり抜けるようにキッチンを出てソファーに伏臥する。そして、両手で顔を隠しながらソファーに頭をくっつけた。むせび泣いているのだろうか。背中を震わせている。
僕は母の傍に近づき座布団に両膝をついた。優しく母の背中を撫でる。昔はもっと大きかった記憶のある背中が、今では妙に小さくてか弱く感じられる。
「どうしたの? 元気出してよ」
母は、しばらくの間、そのままだった。ゆっくりと母を撫でていると、時間停止した閉鎖空間に閉じ込められた気がしてきた。実は僕と母は、キャンパスの絵ではないのか? 画家の描いた歪んだ時計の片隅に存在している欠片なのかもしれない。夢想していると、母が顔を上げて僕を見た。
「ごめんね。ごめんね……」
いきなり謝られても意味が理解できない。僕は母にティッシュを渡す。
ソファーに座りなおした母は、涙を拭く。が、次々と涙が溢れてくる。まるで、しとしと振り続ける梅雨のよう。何回もティッシュを渡したけど、すぐ駄目になる。もう、タオルを持ってきたほうがいいんじゃないか? そう考え出した頃、ようやく雨は小康状態となった。
「何か、暗いテレビばかり見ているから、落ち込んじゃうんだよ。確か、衝撃的な映像とかでも心的外傷後ストレス障害とかになるんじゃなかった? だから、ノイローゼになるくらいテレビを見るのは良くないんじゃない?」
「そうじゃないの……」
「なら、どうして泣いていたの?」
「それは……」
母は、僕から顔を逸らし、目を細めている。以前より、目じりのしわが増えたような気がした。髪を染めているから目立たないが、白髪っぽい色の抜けた横髪に気づいた。年の割にはつやのある頬だが、めっきりと痩せたように見えた。
「いいんじゃない。話さなくて。誰だって話したくないこととかあるじゃない」
僕は、立ち上がった。部屋に戻って、もう少し休もうと思った。ただ、その前に歯磨きしないといけないな。余計なことを考えないようにしていると、母がしゃっくりをするように短く息を吸い込んだ。
「いつかは話さなくてはいけないことだから。この機会に全部、話すことにするね」
雰囲気を変えたいと思った。でも、つまらない冗談の一つすら思い浮かばない。だから、僕は黙って頷いた。
「ママは、ユグドラシステムで働いていたことがあるの。エクトプラズムを供給する装置として……」
母は冗談を言っているように見えなかった。そんなことを考えることが難しいくらい真剣な表情だった。
僕は両手で自分の肩を抱いた。室温が五度下がったんじゃないか? 感じることが出来ない寒風が吹き荒れていた。
「そこに現れたのがパパだった。そして、偉い人たちとかけあったの。人間をエクトゲートの抑制のために使用するなんておかしいって。勿論、当初は無視されていた。けど、人間の霊魂をエクトゲートに食べさせるなんておかしい。って論理が少しずつ浸透していった。最終的には、ネットに情報とデータをリークするって問題にしたところで、相手は譲歩した」
「じゃあ、人間を使うのは止めたんだ。良かったじゃない」
「違うの。残念だけど。確かに、人間と認められている存在を抑制剤に使用することは、止めた。でも、その代替として人間を造りだした」
「えっ? 意味が解らないよ」
「あのね。科学技術を使って人間を造りだしたってこと。今、ユグドラシル半径に住んでいる人間の半数以上は、バイオテクノロジーを利用して生み出された人造人間なの」
「バイオロイドって工業技術で人間の生殖部から模擬的に製造されるあれ? 本当に存在していたの?」
「ええ。子供ができない人に利用されていた人工授精や、代理母代わりに生み出された人工子宮の技術が使われているの。大っぴらに公表されているわけじゃない。けどね、試験と培養液の管の中で人間を製造している」
「何のために!」
「元々は、ユグドラシステムのために、戸籍の存在しない人間を生み出す、って名目だったようなの。それに遺伝子操作すれば、エクトプラズムの強い人間を生み出すことができる。でも、本質は違う。科学者達のライフサイエンスへの興味と成果への功名心、そして、予算と権益を確保するための省庁の利益誘導が複雑に絡み合って生み出されただけ」
「ユグドラシステムの話じゃなかったの?」
「ユグドラシステムなんてどうでも良かったみたい。欲望に駆り立てられた彼ら(フランケンシュタイン博士)にとっては。本当に酷い話……。バイオロイドだって同じ人間なのに」
「バイオロイドって同じ人間?」
「なー君はどう思う? 父親と母親がいないだけで、人体組成としては百パーセント同じだけど」
答えは考えるまでも無かった。でも、すぐに答えることが出来なかった。それほど、重みがあった。一つ一つの言葉と意味に。
ウンザリして魂が吐き出されるような溜息をついた。
その音に反応したかのように、母の目は鋭さを増していく。
「あのね、純人間が霊化人間の霊力を吸い取るって噂を流したのは政府だって知ってた?」
「はあ? 何でそんなこと」
「だって、霊力を吸い取るような純人間なんか、エクトゲートの燃料にしたって、良心が痛まないから。むしろ、全ての純人間をユグドラシステムに閉じ込めて燃料にしてしまえって考える人の方が多いかもしれない。人々がそう考えるように仕向けたの。政府と官僚が、ね」
「そんなの、絶対におかしい! 許せないだろ!」
「でもね。それを望んだのは、ママを含めて、国民、一人ひとりかもしれない。知っている? 人って、感情的に自分が信じたい情報だけを信じるように出来ているの。それ以外の情報は、脳がシャットアウトする。だから、これだけ、純人間を嫌う人間がいるってことは、ユグドラシステムの維持のために、自分以外の誰かを犠牲にしたいって考えていると思っていい。だから、今では一番のマイノリティーとなってしまった純人間が攻撃されるのは必然かもしれないの……」
「納得できない。そのせいでママは家から出ることもできなくなったっていうのに」
「ありがとう」
母は僕を抱き寄せた。ちょっと恥ずかしい。普段なら押しのけるところ。でも、今日は、今日だけは、そのまま母の気の済むまで、されるがままになっていよう。そう考えていた。身を任せていた。
しかし、そんなことを考えたことがいけなかったのか。邪魔ってのは、往々として、望まないときにやってくる。その類に漏れず、騒がしい音がダイニングから聞こえてきた。
母から自由になった僕は、ゆっくりとダイニングのガラステーブルに近づき、自分の携帯電話を取った。
「もしもし」
誰からの電話かも確認せずに、やる気の無い声で通話する。僕にこんな朝から用事がある人間なんか思いつかない。どうせ、間違い電話とかだろう。わざわざ、通話すること無かった。マナーモードか何かに切り替えておけばよかった。などと考えていると、携帯電話の向こうから聞きなれた声が聞こえてきた。
『おはよ。和知君』
委員長だった。電話越しだったせいかいつもより低い声に感じられた。
それにしても、何の用だろうか? また、買い物に付き合わされるとか。あんなに沢山の買い物をしたと言うのに、買い足りなかったのかな。
僕が気の抜けた挨拶をすると、委員長ははっきりとした口調で話しだした。
『今から、ユグドラシステムに行くけど、どうする?』
聞き間違えようが無かった。でも……。
『どういうこと? 何かの冗談?』
『三分で到着する。準備して』
状況を理解する前に電話を切られた。何が起こっているのか全く理解できずに、携帯をもったまま呆然と立ち尽くす。
「どうしたの?」
母が心配そうな目で見ていた。そうだ。母を置いてユグドラシステムに行くことなんか出来ない。そもそも、何のために僕がユグドラシステムに行かないといけないのかも解らない。単に見学と言うのならば、もっと安全な時期に行けばいい。
「ううん。なんでもない」
「嘘。困った顔をしている」
自分の方がよっぽど困った顔をしているくせに。って言いたくなるのを我慢した。そして、コタツに座って電話で聞いたことをそのまま話す。
すると、ソファーに座り、真剣な眼差しで僕を見ていた母は、軽く瞼を閉じた。
「昔、ママは、一人だけユグドラシステム半径から出ることになったの。パパと結婚するために。その時のこと、今でも思い出すの。逃げ出す時ように街を出た日のことを。本当に辛かった。残った人で祝福してくれる人もいたけど、ほとんどの人から裏切り者の白い視線を浴びることになったのだから……。でもね、後悔はしていない。だって、なー君がいるから」
やっぱり、委員長の誘いは断ろう。親父が帰ってこれない今、この家と母を守るのは、どう考えても僕の仕事だ。ここで、僕がいなくなれば、近所の人間からの風当たりが厳しくなるかもしれない。だからと言って、純人間が多いユグドラシステム半径内に戻ったとしても、裏切り者のレッテルは死ぬまで外されることはない。
どうするか考えるまでも無いじゃないか。
僕は携帯電話をコタツの上に置いた。手をだらーんとカーペットについて、あごをコタツの上に乗せる。
ふう、と息を吐きながら横目で母を盗み見た。
そこには、キュっと唇を結んで深海の瞳を持つ女性がいた。
「ママのことは心配しないでいいから、自分の信じる道を選びなさい」
「でも、僕がいなかったら日常生活だって大変じゃない」
「あのね。親は、子供を守る義務があるの。ただ、それと同じくらい、いえ、それより重要な、子供を自立させるって義務があるの。ママの精一杯に広げた両腕の中から飛び出して、独立した人間にならないといけない。だから、ママのことは気にしないで。それより、後悔しない生き方を選択しなさい」
「うん」
返事はしたものの体は動かない。気力が湧いてこない。何故だか判らない。けど、どうしようもないほど、重力に押さえつけられていた。
これは、きっと夢だ。目を閉じたら、違う世界が現れるかもしれない。そんなことを考えながら尻尾をパタパタと振る。カーペットをポンポン叩いてみる。
「なーくん。その癖、みっともないから止めなさい」
母の言葉と同時にメールの着信音。親指を素早く動かして内容を確認すると、
『玄関前に到着』
って書いてある。
返信をしようか。躊躇していると、母がすかさず突っ込んでくる。
「早く着替えなさい。尻尾の方がよっぽど自分の心に正直よ」
そんなこと言われても……。ホント、状況が理解できないんだ。僕の周りの世界がどうなってしまったのかが……。
誰かに文句を言いたい。けど、誰に文句を言えばいいのか判らない。そんな不安定な自分自身の感情が制御不能になって、叫びだすか、眠ってしまうしかない、って状況に追い込まれたとき、再び携帯電話の着信音が鳴り出した。
故意に無視をするってこともできた。けど、それをしなかったのは、とても単純な理由。指が勝手に反応しただけ。徒競走のピストル音で勝手に走り出してしまうのと同じこと。
僕が、電話を耳に当てると、けたたましい声が叫びだした。
『和知、一体、着替えにいつまでかかってんだ。俺のかーちゃんより、とれーってそんなんじゃ。さっさと……』
『ちょ、ちょっと貸しなさい。あのね、那智君、聞いてる?』
『何、委員長。僕はユグドラシステムに行くとは言ってないけど』
『おめー、……』
『五月蝿い、黙って。あのさ、昨日、那智君、困ったことがあったら、私のこと手伝ってくれるって言ってくれたよね』
『あ、うん。確かに言った。記憶にあるよ』
『あの時、私、嬉しかった。凄く嬉しかった。本当の仲間になれたって感じた。その言葉を利用するのは良くない。そんなことも解っているつもり。でも、今、私たちは困っている。とっても。だから、助けてくれないかな』
言葉に詰まった。
ここで、これを断ったら、男として、いや、人間として情けない。だからと言って……。
『勿論、無事に帰ってこれるんだよね?』
『……』
返事が無い。聞こえてないってわけないはず。
だとしたら、何か不安材料でもあるのか。
『あのね、正直な話をすると、絶対に安全とは言えない。でも、私たちは観音寺さんと比較すれば、はるかに安全と言ってもいい』
『えっ? どういうこと』
『時間が無い。詳しいことは車の中で。あと、一応言っておくけど、無理強いするつもりはないわ。那智君がどんな選択をしたとしても何も言う気は無いから安心して。五分だけ家の前で待つから、決心できたら来て』
『それよりさっきの……』
電話は切れていた。
僕は携帯電話を見つめていた。何が起こっているのか理解できなくて、理解したくも無くて、ただ無意味に時間を消費していた。
でも、考えたくないはずだったのに、頭の中を委員長の声が通り過ぎていく。私たちは桜菜より安全? それってどういうこと? どういう意味?
「行ってきたら?」
母はにっこり笑って、涙を流した。
「だって、僕がいなくなったら、この家はママしかいなくなっちゃう。そしたら、家の中が広すぎることになっちゃうよ」
「そんなこと、子供は心配しないでいいの。どっちにしろ、いつかは出て行くことになるのだから。そもそも、ママは、なー君を生んだときから覚悟しているから大丈夫。安心して行ってきなさい」
「でも……良く判らないんだ。どっちを選んだとしても間違っているように思えて」
「なー君は難しく考えすぎるんじゃない? ママだったら絶対に行く。だって、もし、行かないで後悔するのなら、行って後悔したほうが絶対に得だと思わない?」
「時々ママって、凄く楽観的だなって思うよ」
「そうよ。母親ってのは、とっても楽観的で強い生き物なのよ」
母は、右手で軽く目を擦りながら頬を吊り上げる。そのドヤ顔を見るのが恥ずかしくなり視線を落とした。すると、手に持っている携帯電話のディスプレイが視界に入る。
って、約束の時間まで一分も無いじゃないか!
僕は、携帯をコタツの上に置いた。そして慌てて階段を駆け上がる。自室に飛び込み、ジャージを脱ぐ。たたんであったブルーのジーパンをはきながらピョンピョン跳ねる。服が入っているプラスチックケースまで辿り着いたところでトレーナーを脱ぎ、ケースを開けた。何も考えずに、チェックのシャツを取り出し、ハンガーにかかっていたベージュのミリタリージャケットと一緒にはおる。
今度は、気合を入れて階段を駆け下りる。そのままの勢いを保ち、タッチアンドダッシュゲームのボタンでも押すようにコタツの上の携帯電話を取った。カーペットで転ばないようにスピードをコントロールしながら方向転換してリビングを出ようとした。
が、僕は立ち止まった。
そして、ソファーに座っている母を見た。すると、母は立ち上がり、精一杯の笑顔を見せようと努力をした。
だから、僕も笑顔で応える。
「いってきます」
「いってらっしゃい。絶対に帰ってくるのよ」
「戦場に行くわけでもないのに大げさだよ」
軽く手を振って、部屋を出た。
これで、タイムアウトで委員長がいなかったら、笑えないな。なんて考えながら……。




