トイレの個室で聞いた、勝利宣言
「奥様、本当にお美しいですね。隼人さんが羨ましいです」
秋の取引先パーティー。ホテルの宴会場で、外部デザイナーのヤリコは、サレコにグラスを掲げて微笑んだ。ゆるく巻いた栗色の髪、ぴたりと身体に沿う黒のワンピース。二十八歳とは思えないほど、場慣れした笑顔だった。
「ありがとうございます。いつも主人がお世話になっております」
サレコは、完璧な妻の笑顔で頭を下げた。三十三歳。老舗工務店・桐生ハウジングの取締役兼経理担当。夫の隼人は二代目社長で、会長である義父・桐生源蔵のもと、地元では名の知れた会社を率いている。
結婚して七年。子供はいない。仕事と家庭の両方で、サレコは夫を支えてきたつもりだった。毎朝、夫のシャツにアイロンをかけ、日中は会社の帳簿を整え、夜は夫の晩酌に付き合う。その日々を、疑ったことはなかった。
「サレコさんって、本当に完璧な奥様ですよね。経理もできて、お料理もできて」
「そんなことないですよ。ヤリコさんこそ、素敵なお仕事をされていて、羨ましいです」
「いえいえ、私なんて」
謙遜するヤリコの隣で、隼人が少し所在なげにグラスを揺らしていた。視線が、ほんの一瞬だけ、ヤリコの方に流れる。サレコは、その動きを、見ていないふりをして見ていた。
この三ヶ月、桐生ハウジングは、ヤリコの個人事務所に内装デザインの仕事を依頼していた。新築モデルルームのコーディネート。その費用の請求書は、サレコの机を毎月通っている。最近、その金額が少しずつ膨らんでいることには、気づいていた。ただ、「新規案件だから仕方ない」という隼人の説明を、信じていた。
信じたかったのだ。
会場の華やかな灯りの中で、サレコは、ふと、今朝のことを思い出していた。
今朝も、サレコは、いつも通りに起きて、夫のためにシャツにアイロンをかけていた。
「今日は、白のシャツでいい?」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
鏡の前でネクタイを締める隼人の背中を見ながら、サレコは、小さな違和感を覚えた。先月から、夫は、いつも使っていたシトラス系の香水を、別のものに変えていた。理由を尋ねると、「気分転換だ」と笑っていた。
けれど、サレコは、深く追及しなかった。夫婦とは、そういうものだと思っていた。お互いの全てを知り尽くす必要はない。信じて、任せて、支え合う。それが、七年間、彼女が守ってきた形だった。
経理室でも、ささやかな違和感は、ずっと胸の底に沈んでいた。月末の締め作業をしていた時、後輩の経理スタッフ・美咲が、ためらいがちに声をかけてきたことがある。
「あの、サレコさん。ヤリコさんの請求書なんですけど、いつも社長が直接、承認印を押されているんです。普通は、私たちを通すのに」
「そうなのね。新規案件だから、社長が直接見ているのかもしれないわ」
サレコは、穏やかにそう答えた。美咲は、「そうですよね」と笑って、それ以上は言わなかった。けれど、その時の彼女の曇った表情を、サレコは今でも覚えている。あの時、もっと早く、数字の違和感に向き合っていれば。そんな小さな後悔が、胸の底に、静かに沈んでいた。
パーティーも中盤に差し掛かった頃、サレコは、化粧直しのためにお手洗いへ向かった。広々とした大理石の洗面スペースの奥に、個室が三つ並んでいる。一番奥のブースに入り、ドアを閉めて、ほっと息をついた。
その直後だった。誰かが洗面所に入ってきて、楽しげな話し声が聞こえてきた。
「ほんと、チョロいよねえ、あの奥さん」
聞き覚えのある声。ヤリコだった。
サレコは、反射的に、クラッチバッグの中のスマートフォンを取り出した。指先が、無意識のうちに、録音アプリを起動していた。取引先との会話を記録する習慣が、体に染みついていたのだ。画面の赤い丸が点灯したのを確認して、そっと、胸元で握りしめる。
「経理担当って聞いてたから、ちょっと警戒してたんだけどさ。全然気づいてないの。旦那さんの金遣いにも、私の請求書にも。すごくない?」
「やめなよ、ヤリコ。あんまり調子乗ると危ないよ」
相手は、友人のようだった。軽い口調で、たしなめている。
「大丈夫だって。旦那、完全に私に夢中だもん。この前なんて、私のマンションのローンの頭金、会社の経費で落としてくれたのよ。笑っちゃう」
サレコは、個室の中で、息を止めていた。
「しかもね、あの奥さん、私のこと『素敵なお仕事をされてて羨ましい』だって。ほんと、お人好しすぎて可哀想になっちゃう。まあ、可哀想だからって、手は引かないけど」
くすくす、と楽しげな笑い声が響いた。香水の匂いが、微かに個室の隙間から流れ込んでくる。甘いムスクに、ほんの少し、柑橘が混じった香り。サレコの記憶に、先月の夫のワイシャツの匂いが重なった。
二人は、化粧直しを終えて、軽やかな足音とともに出ていった。
静寂が戻る。
サレコは、しばらく、そのまま動かなかった。心臓の音だけが、耳の奥でうるさく響いていた。指先が冷たい。呼吸が浅い。けれど、不思議と、涙は出なかった。
代わりに、胸の奥から、冷たい何かが、ゆっくりとせり上がってきた。
それは、怒りでも、悲しみでもなかった。もっと静かで、もっと鋭い、ひとつの感情。
(帳簿を、見なきゃ)
経理担当として、八年間、数字と向き合ってきた。数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつだって人間だ。そして、数字は、必ず足跡を残す。
サレコは、ゆっくりと立ち上がり、ドアを開けた。洗面台の鏡に映る自分の顔は、驚くほど穏やかだった。口紅を引き直し、髪を整える。
「完璧な奥様、か」
鏡の中の自分に、小さく呟く。唇の端が、ほんの少しだけ、持ち上がった。
宴会場に戻ると、隼人が心配そうに近づいてきた。
「サレコ、遅かったな。気分悪いのか?」
「ううん、ちょっと人に酔っただけ。大丈夫」
「そうか。無理するなよ」
優しい声だった。その声に、七年間、どれだけ救われてきたことか。サレコは、夫の顔を見上げて、にっこりと微笑んだ。
「ありがとう、隼人さん。今夜は、早く帰りましょうか」
「ああ、そうしよう」
帰りのタクシーの中、隼人は窓の外を眺めながら、時折、スマートフォンの画面を覗いていた。サレコは、隣で静かに目を閉じていた。眠っているふりをしながら、頭の中で、すでに作業が始まっていた。
過去二年分の会計データ。取引先別の支払い明細。経費精算の領収書。隼人名義のクレジットカードの利用履歴。どこから洗い、どう並べ、何を証拠として残すか。
家に着くと、隼人は先にシャワーを浴びに行った。リビングに一人残されたサレコは、ソファに腰を下ろして、バッグから自分のスマートフォンを取り出した。
画面を操作して、個室で録音した音声を再生する。途中からの録音で、冒頭の数十秒は欠けていた。けれど、ヤリコ自身の声で語られた「会社の経費でローンの頭金を落とさせた」という言葉は、はっきりと残っていた。
決定的な証拠の、ほんの一欠片。けれど、これが「始まりの一歩」になる。
サレコは、そのファイルに、日付と時刻を書き込み、複数の場所にバックアップを取った。
作業を終えて顔を上げると、リビングの棚に飾られた、結婚式の写真が目に入った。白いタキシード姿の隼人と、少し緊張した顔で微笑む、自分。あの日、神前で交わした誓いの言葉を、サレコは、今でも一言一句、覚えている。
「病める時も、健やかなる時も」
写真の中の二人は、あまりにも幸せそうだった。サレコは、しばらく、その写真を見つめていた。胸の奥が、きゅっと痛んだ。けれど、痛みは、やがて、静かな覚悟へと形を変えていく。
誓いを先に破ったのは、あちらだ。ならば、その代償は、きちんと払ってもらう。
サレコは、写真立てを、そっと、伏せた。
そして、窓の外に広がる夜景を見つめながら、静かに誓った。
「あなたたち、覚悟してね。私は、泣き寝入りなんてしない。だって私は、経理だから」
「一円残らず、取り立てるわよ」




