風鈴
夏になると、祖母は決まって縁側に一つだけ風鈴を吊るした。
ガラス製の、どこにでもある青い風鈴。
「この音を聞くと、暑さを忘れるねぇ」
祖母はそう言って笑った。
確かにその音は心地よかった。
チリン。
風が吹くたびに澄んだ音が鳴る。
子どもの頃の私は、その音を聞きながら昼寝をし、夕暮れを迎えたものだ。
祖母が亡くなったあと、その家は空き家になった。
十年以上誰も住んでいなかったが、遺品整理のため久しぶりに訪れることになった。
庭は荒れ、障子は黄ばみ、畳は湿気を吸っていた。
それでも縁側だけは、昔のままだった。
そして驚いた。
風鈴がまだ吊るされていたのだ。
埃だらけなのに、割れていない。
私は何となく指で軽く弾いた。
チリン。
懐かしい音だった。
思わず笑みがこぼれた。
「持って帰ろうかな」
そう思った、その時だった。
風もないのに。
チリン。
また鳴った。
私は首をかしげた。
古い家だから揺れたのだろう。
そう自分に言い聞かせた。
その夜。
片付けを終え、二階で寝ていると。
チリン。
どこかで風鈴が鳴った。
窓は閉めてある。
無風だった。
気のせいだ。
そう思って目を閉じる。
チリン。
少し近い。
チリン。
また一歩。
まるで音が廊下を歩いてくる。
気味が悪くなり、布団を頭までかぶった。
すると。
チリン。
耳元で鳴った。
飛び起きる。
誰もいない。
風鈴は一階の縁側にあるはずだ。
朝になり、私は急いで帰る支度をした。
風鈴だけは置いていこう。
そう決めた。
車に荷物を積み込み、最後に家へ鍵を掛けようとした時だった。
チリン。
振り返る。
風鈴が揺れている。
しかし庭の木々は一枚の葉も動いていない。
その瞬間。
風鈴の短冊がこちらを向いた。
裏側に、文字が書いてある。
黒い墨で。
「まだ帰らないで。」
私は息を飲んだ。
昨日までは何も書かれていなかった。
見間違えるはずがない。
慌てて鍵を掛け、車へ飛び乗った。
エンジンをかける。
その時。
助手席で。
チリン。
心臓が止まりそうになった。
見ると、あの風鈴が置いてある。
持ってきた覚えはない。
私は悲鳴を上げ、車から飛び降りた。
恐る恐る助手席を見る。
風鈴は消えていた。
夢だったのか。
そう思いたかった。
帰宅後。
何事もなく数日が過ぎた。
安心しかけた頃だった。
夜中の二時。
寝室で。
チリン。
あの音。
窓を開けても風はない。
それでも。
チリン。
チリン。
チリン。
一度鳴るたび、少しずつ近づいてくる。
私は音のする方へ目を向けた。
暗い部屋の隅。
何かが吊るされている。
月明かりが差し込んだ。
青いガラス。
白い短冊。
そこには、また新しい文字があった。
「今度は、あなたの家で鳴る番。」
その日から私は風鈴の音が嫌いになった。
夏になると、近所のどこかで必ず風鈴が鳴る。
チリン。
その音を聞くたびに、私は耳を塞ぐ。
なぜなら。
本物の風鈴は、風が吹いた時しか鳴らない。
風もない真夜中に聞こえるその音は――
誰かが。
あなたの家の前まで来た合図なのだから。




