第一話 風花
12月23日 08:00(JST(日本標準時))
十二月も末、黒く寒々しい雲が低く垂れこめる空の下でも、二学期の終業式を間近に控えた小学生は元気いっぱいだ。頬を赤くし、白い息を吐きながら長い二列を作って集団登校している。
その列の中で、一人の少年が隣を歩いている少女に「なあ、なあ」と声を潜めて話し掛けた。
「サンタクロースって、本当にいると思う?」
答える声は、元気で明るい大声だ。
「は? いるに決まってるじゃん。私、毎年、クリスマスにプレゼントもらってるわよ」
「そうだよな。俺ももらってるし」
うんうん、と納得顔の少年に少女は問い返した。
「何でそんなこと聞くの?」
「実はさ、この前の日曜日に、いとこの中学生の姉ちゃんとクリスマスの話になってさ。『あんた、まだサンタを信じてんの? 本当にいるわけないじゃん』って言われてさ。一緒にいた母ちゃんと叔母ちゃんは、『いいえ、いるわよ』『そうよ、由美、つまらないことを大ちゃんに言うんじゃないわよ』って、姉ちゃんに言っていたんだけど。なんか怪しくて」
「ふーん」
すると、後ろから別の少年の冷たい声がした。
「大ちゃん、いるわけないじゃん。サンタっていうことにして、プレゼントは親がくれるんだよ」
「翔ちゃん、そうなの?」
「ああ、うちは父ちゃんが買ってきてるみたい」
「嘘だ」
「嘘じゃない、去年、押し入れに隠してあるのを見たんだから」
冷たい、それでも自慢げな声で自分の経験を披露する少年に、少女が含み笑いの声で反論した。
「それは翔ちゃんが『悪い子』だからじゃない? サンタクロースは、『良い子』にプレゼントをくれるんだもん」
「え、俺は『悪い子』じゃないぞ」
「『悪い子』じゃん。だって、女子に意地悪ばっかするし。サンタクロースが来なくて可哀そうだから、お父さんが代わりに買ってくれてるんだよ」
「誰が意地悪だよ!」
少年に後ろからランドセルを「トン」と軽く小突かれた少女は、振り返って「ほら、やっぱり意地悪じゃん」と返してから、前を歩いていた別の女の子に声を掛けた。
「ねえ、風花ちゃんはどう思う? プレゼントをくれるのって、サンタさん? それともお父さん?」
質問をした少女にしてみれば、何の悪気も無い軽い問いだったのだろうが、『風花ちゃん』と呼ばれた少女は、振り返りも返事もしなかった。黙ったまま歩くその肩に固く力が入っている。
「ねえ、風花ちゃん?」
繰り返された問い掛けに、風花は通学用のスカートから突き出した若草色のタイツに包まれた足を急に止めた。
「そんなの、サンタさんでもお父さんでも、どっちでもいい! どっちもキライ!」
そう大声で言い捨てると足を早め、前を歩く子達を追い越して列の前の方に行ってしまった。
「風花ちゃん?」
呆気に取られる少女に、風花の隣を歩いていた子が、「ふぅ」とため息をついた後に小さな声で告げた。
「あのね、これはナイショなんだけど、風花ちゃんのお父さん、おうちにいないの」
「そうなの?」
「お仕事で、ずっとずっと留守にしていて、めったに帰ってこないんだって。冬のお休みも、去年もおととしも、帰ってきたのは大みそかだったんだって」
「そうなんだ」
「うん。なんか、お母さんのコンピュータで画面越しにはお話ししてるらしいけど。風花ちゃん、お父さんのことが大好きだから、めったに会えなくてすっごく淋しいんだと思う」
「私、悪いこと言っちゃったかな……」
「仕方ないよ」
「後であやまった方が良いかなあ」
「ううん。ナイショだから。そっとしておいてあげた方が良いと思う」
「そうだね」
ちょっとしょんぼりしてしまった子供たちの歩みは少しとぼとぼとなった。言葉数が少なくなり長く伸びた列に、白いものがふわり、ふわりと落ちかかり出した。
「あ、雪だ!」
「本当だ!」
一斉に上を見て、足を止め、手袋をはめた掌を出す。その上に、そして帽子の上に、肩の上に、雪のかけらは落ちて融けていく。
上級生の「ほら、行くよ」の声と共に、また楽しそうに弾みだした歩みが、学校を目指して動き出した。
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Dec 22,17:15(EST(米国東部標準時))
アメリカ、ニューヨーク近郊のこの町にも雪は降っている。こちらは12月には珍しく、細雪とはかけ離れた、積もるほどの降雪だ。
もっとも、真冬には除雪車が何度も出動するこの町では、雪が積もった夕方など珍しくもない。車道は自動車に踏みつぶされて濃灰色に汚れた、かつて雪だったもので満たされ、車が通るたびに濁って濡れた音を立てている。歩道では、マフラーをかき寄せた手をコートのポケットに突っ込んで家路を急ぐ人々がまだうっすらと白さが残る雪に足跡を刻んでは、また新たに降り積もる雪に覆い隠されていくことを繰り返している。
日は既に暮れて空は暗く、街を覆う分厚い雪雲は遠くの大都会の様々な色の灯りを映してぼんやりと不気味に光っている。街灯は煌々と輝いているが、このオフィス街のビルの明かりはまばらになっている。一週間前にはすべての窓が賑々しく灯っていたが、今では既にクリスマス休暇に入っている人が多いのだろう。ぽつりぽつりとあちらこちらで四角く光っているだけだ。
そんな中であるビルの上方のある階だけが周囲の闇に抗うようにいくつかの灯りを連ねている。その窓の一つの中で、一人の男が熱心に働いていた。
その男が向かうデスクの上は複数の大型モニターと使い込まれてアルファベットの印字がかすれたキーボード、色とりどりのボールペンで沢山の書き込みがなされ端がよれよれに折れたプリントアウトで埋もれている。わずかな隙間には、大切そうに置かれた小さなフォトスタンドと大きめのマグカップ。マグカップには、男性とその家族らしい女性と小学生ぐらいの女の子と男の子の写真が微笑んでいる。そしてフォトスタンドには、あまり顔色の良くない赤ん坊の写真。
男はモニター上の数字の列を睨みながらそのマグカップをつかんで冷めかけたコーヒーを何口か飲み、しばらく宙に目を泳がせた後にそっと置いて、キーボードを力強く叩く。
それをしばらく繰り返していると、ドアをトントントンと軽くノックする音がした。「どうぞ」と返事をするのと同時に、マネージャー仲間の女性がドアを開けて声を掛けた。
「マサ、私はこれで失礼するわね。貴方はまだいるの?」
「ああ、インゲ。もう少しね。僕の方のプロジェクトの第二相試験のデータをもう一度、違う観点から解析してみたくてね。深く掘り始めちゃったんだ」
インゲと呼ばれた女性は口角を上げて笑顔を見せると、昌彦という名のその男のデスクに歩み寄って来た。
「相変わらず熱心ね。今年もクリスマスはこちらで過ごすの?」
「うん。そのつもりだ。第三相の中間解析の結果がいつ出てもおかしくないからね。順調に行けばいいけど、そうでなかった時を想定して、プランB、プランCを十分練り込んでおきたいから」
「本当に熱心ね。プロジェクトに戻れてから、日本にいた時もこちらに来てからもずっとこの調子なんでしょ? まあ、ボスも毎晩遅くまで残っているようだけど。最後にオフィスを出るのは貴方かボスか、どちらが多いの?」
「50―50かな。褒められたことじゃないんだけど」
「御家族は淋しがっているんじゃない?」
「そうだろうね。週末には、必ず顔を見せてたっぷりと話をするようにしているけどね。モニター越しだけど」
「御家族と遠隔会議? 一対三は分が悪いわね。奥さんやお子さんに、不義理をびしびしと詰められてるんじゃないの?」
「いやいや、うちの家族は優しいから。ボスとの一対一と比べれば楽園だよ」
二人の直属の上司である事務所長のアレックスは、元は陸軍士官学校出身の軍人だった。三十年ほど前の戦争の後に除隊し、今度は人を助ける仕事がしたいと医学と薬学の学位を取り、大手製薬会社を渡り歩いていくつかの医薬品の開発を成功させた後に昌彦が務めている会社に移って来た。大きな体と大きな声、そして陸軍士官だった頃に身に着けたのであろう仕事への厳しさで、鬼隊長と部下から畏れられている。特に仕事が上手くいかない時には、彼の執務机の前に立つのが憂鬱になるぐらいだ。部下を怒鳴りつけたりしないが、こちらが出した意見やアイデアの弱点や盲点を冷静に突くのには容赦がない。
インゲは含み笑いで言葉を返してくる。
「それは妥当な解析とは言えないわね。比較対照に偏りがあり過ぎでしょ。楽勝に統計学的有意差の星が三つ付いちゃうわよ」
「違いないね」
この会社ではいつも繰り返される手垢の付いたお馴染みのジョークだが、それでも二人は陽気に笑い合った。
「さて、私はもう行くわね。休暇に入るから、今度会うのは年明けね」
「うん。インゲ、良い休暇を。そしてご家族と、良いクリスマスと新年を」
「ありがとう。貴方も御同様に。貴方のプロジェクトにサンタクロースが来ることを祈っているわ。クネヒト・ループレヒトじゃなくてね」
「ああ、僕もそう祈っているよ。チームのみんなも僕も、全員がずいぶんと良い子にしていたはずだからね」
もう一度笑いを交わすと、インゲは「じゃあ」と軽く手を振ってオフィスを出て行った。
昌彦は立ち上がってそれを見送った。ドアが閉まって一人きりになると、小さい写真立てを持って窓に寄る。空を見上げれば降る雪は弱くなり、今は沢山の小さな雪片が風に乗って上に下にと舞っている。その光景をしばらく眺めた後に写真の赤ん坊に向かって呟いた。
「美音、ごめんよ。今度は、きっと」