小夜
小夜から手紙が来たので、わたしは何の用事だろうと訝しんだ。小夜は、わたしの身体の主人格で、その意味ではもっとも心が傷ついたわたしたちの最初の一人だった。小夜の経験した厭な記憶は彼女の中からすでに綺麗に消去されている。その記憶は小夜ではない別の人格に担われていて、わたしもその人格の一つだった。小夜の心的外傷は彼女と身体を共有する別の人格たちにとっては自分の経験ではないから、それを心に持っていても取り合えず問題は生じない。が、それでも他人に対する感情移入力が高い人格はそれを重荷に感じることがあって、その場合、またそれを別の人格に与えて自分の中から消去すると人格が増える。また増えた人格が心的外傷を受け取る際にそれが歪んだ形で伝えられれば、元は一つだったはずの心的外傷が複数生じてしまうことになる。もっとも人格は無限に増えるわけではなくて良く似た人格同士が二つ三つと融合して数を減らすこともある。が、オリジナルから派生したいくつかの別人格が元とは違った心的外傷を蒙ることもあるので話はそう簡単には収束しない。河野頼子はわりと無感動な性格なので心が毀れる危険は少なそうだが、宇宙から消えた自称わたしのボディーガードは、わたしの知らない河野頼子の分身を四人も知っていたのだ。だから、こんなわたしといえども油断は大敵なのだった。
小夜は、わたしたちの身体の主人格だったが、出現頻度は高くなかった。細切れの出現度数を総計すれば最近の半年では一週間に一日程度だった。その代わりというわけではないが、わたしの出現度数は比較的高くて週に四日程度あった。残りの日には種々の人格たちが入れ代わり立ち代り現れて一つの身体を支配していた。
その身体支配の仕方にはルールがあった。まず小夜は、わたしたちの存在を誰かに教えてもらって客観的に知ることは出来るが、主観的に感じることが出来ない。もっとも実際には不安感などと共にわたしたちの雰囲気は感じられるようだから完全に無理ではないが、普通はそれ以上近しく感じられない。逆にわたしや他の副人格は、小夜を初め、多くの他人格たちを肌で感じることが出来る(自分が仮の主人格である場合はその限りではない)。それはわたしが身体を支配しているときにも感じられるし、別の人格が身体を支配していて、わたしが意識の背後にまわっているときにも感じられる。ただしそれにもそれぞれに異なった距離感があって、またそれがわたしたち全体の力関係の変動によっても変わるので、この病気=解離性同一性障害ではない人たちに、その感覚を伝えるのは難しいと思う。さらに病名としては同じ解離性同一性障害であっても、わたしたちのような関係性が築かれない場合だってあるのだ。それは生まれた環境、遺伝、育ち方、両親あるいは片親や育ての親との関係、兄弟姉妹、友人知人たちとの関わり方でも生じ方が異なるので共通の典型例はあってもほとんどの場合、ケースバイケースだ。
患者も大変だが、医者も大変だ。最近、わたしはつくづくそう思う。またそれとは別に投薬の問題もある。例えばわたしには睡眠導入剤もBZ作動薬も三環系抗鬱薬もSSRIやメジャートランキライザーも必要ないが、それぞれの人格のそれぞれの心の状態によって複数の投薬が必要になる。が、わたしたちの身体は一つなので、それらをすべて処方されると身体はあっという間に薬に蝕まれて死んでしまう。死なないまでも別の意味で廃人になる。わたしにはわたしではないわたしたちの誰かの都合に合わせて廃人になるつもりはなかったが、誰かにそれが必要ならば、それを止めるのは難しかった。その点、わたしは環境に恵まれていたといえる。具体的には担当の医者に恵まれたのだ。専門は違うが、わたしの母親が医者だったことが、その後押しをした。父親の大いなる財力がさらにそれを助けたわけだが、それ全体を含めてわたしは環境に恵まれていた。もっとも、あくまで病気療養に関してのことだったが…… 加えて指摘すれば、主人格の小夜が陳こびた性格でなかったのも幸いした。それで小夜に彼女の心的外傷を告げ口する副人格がたった一人も現れなかったからだ。
が、そうはいっても、病気の最初は混乱だった。小夜は真正直な女の子だったので自分が被った事実から受けたショックが大き過ぎ、結果としてわたしたちの最初の一人を作り上げた。けれども苦し紛れに作り上げたその小夜の分身が最初から自分の役割を無理なく全うできるはずもなく、また小夜自身の己に対する願望や劣等感が捩れ絡まり、最初の分身をいくつもの心に引き裂くと同時に第二第三の分身を己の中に生じさせた。やがて比較的安定したわたしのような人格が形作られるまで、小夜の心は混乱し、ひとときも安定することが叶わなかった。混乱というのは、いつだって別の混乱を呼び込む悪しき心の状態だからだ。
わたしは直接小夜に会ったことはない。まあ、直接というのは言葉の綾だが、拓と琴と今はいないはずの萌葱は小夜と電子メールを交わしビデオで会話をしていたようだ。もちろんわたしには彼女たちの行動を逐一把握することは出来ないので詳細については知りようがない。それに、わたしはあくまで彼女たちを感じるのであって、彼女たちの心の中に入って、それを知るわけではないのだ。だから彼女たちから直接話を聞かなければ、わたしに詳細はわかりようがない。
……ということなので、単に推測でしかないが、拓や琴たちは小夜の心的外傷を荷っていない人格ではないかとわたしは密かに睨んでいる。そうでなければ双方とも気安く互いに近づく気にはなれないだろうというのが、その理由だ。
ところでその存在はいつも感じているし、またときには逆に感じられている気配を感じることもあったが、小夜がわたしにコンタクトして来たことは、これまで一度もなかった。それで、わたしは小夜から届いたわたし宛の手紙を訝しんだのだ。わたしは深呼吸してから、少女趣味ではないが、淡い紅色の図柄の封筒の上部を鋏で切って開くと、中から封筒と対になった便箋を取り出した。
『前略 河野頼子さま
あなたを好きな男の子が私のところに現れたんだけど、いったいどうして欲しいわけ?
とりあえず送り返しましたから、受け取ってね。
かしこ』
便箋に書かれていたのは、その二文だけだ(宛名と結びを除く)。わたしには、なるほど小夜はわたしを生んだ人格なのだ、と納得するしかない。