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ある猫のこと

 魚を食べるのが好きなので魚くさい臭いが身体から発生しているのか、わたしは猫に良く懐かれた。もっとも猫が好む食材の一位がチーズだったりするので真偽の程はわからない。道を歩いていて猫に出遭うと勝手に近寄って来て脚の周りをまわってスリスリする。脚の周りをまわられている間は猫の脚を蹴ったり尻尾を踏んでしまいそうで上手く歩くことが出来なくなる。だから諦めてその場にしゃがみ込むと猫は自分の届く位置まで「うむにっ」と伸びをしてスリスリする。そして不意に行ってしまう。きわめて猫らしく偉そうに……

 そんなわたしだったが不思議と犬にも懐かれた。ワタシの身体は猫臭いはずなのにまったく気にする様子もない。数少ない友だちの家に遊びに行ったときはお座敷犬が玄関まですっ飛んで来てわたしに向かってジャンプした。ワフワフ気分のお座敷犬のペロペロ攻撃を受けながら、「いつもこんななの?」と友だちに問いかけると、「どちらかというと人見知りなのよ」という答えが返った。そして犬は、遊んで、遊んで、遊んで、遊んで、と猫のように去って行かない。それでも小さな犬ならばまだ良いが、大きな犬にニッと歯を剥き出されて歓待されると、「やあ、どうも……」だけでは済まなくなる。足許の状態が悪いと抱きつかれたときには大抵後ろに引っ繰り返される。これまでそれで怪我をした経験はないが、単に運が良かっただけなのだろう。多少の怪我をしたところで向こうに悪意がないので、こちらからは恨めない。もちろん人間やその他の心霊現象のように悪意がある場合でも、わたしは極力自分の気持ちを負の感情に持っていかないように心がけていた。スピリチュアルの説明みたいに聞こえるので厭なのだが、負の感情はあらゆる負の感情を呼び寄せて増幅させるからだ。それに取り憑かれるのは真っ平だった。

 そう云えば、わたしが出会った猫の中には元人間だった猫もいた。何をやっても上手く行かなくて、最愛の恋人にも去られて、消費者金融も含めて借金だらけで、もう死ぬしかないと引き攣った笑いを浮かべながら真夜中に善福寺川沿いの道を歩いていたらしい。知っている人は知っているが、善福寺公園には猫が数匹放し飼いで飼われている。東京女子大に近い方のトイレの裏側に住処がある。その他にも大宮八幡に程近い和田掘公園には巨大な猫が何匹もいるし、それ以外の川沿いにも多くの猫生息地があるので善福寺川はもしかしたら猫縁の川なのかもしれなかった。

 それはともかく男は善福寺公園に到着した。全然目的地ではなかったが、歩いていたら辿り着いた。真夜中なので人はいない。鴨たちもひっそりと息を潜めている。立派な木が何本もあるので男は首を吊ろうかと思ったが、紐がない。それで見た目は池のようになっている中州が薄に覆われた川近くのベンチに腰を下すと溜息を吐いた。気配に気づいて左手側を見ると猫がいた。斑猫だ。男は善福寺公園の猫のことは知らなかったが、その猫を見て、ふと猫になりたいと思った。猫ならきっと人間と違って気楽に暮らせるかもしれない、とそんな気がしたのだろう。すると声が聞こえてきた。

 ――おまえは代わりに何をくれる。

 男はぐるりを見まわしたが何もいない。いや、斑猫はいるが、猫が人間の言葉を喋るとは思えないし、また声がその猫から発せられたとも感じられない。それで男は闇に向かって言ったのだ。

 ――ぼくには何もない。あるのは借金だけだ。何だったら命をやろうか? ぼくには他に持ち合わせがない。

 声が返したのはこうだった。

 ――命なんかいらないよ。そんなモノこの世にあり余っている。どうせならおまえの死をくれないか? そうすればおまえを猫にしてやろう。

 すぐさま男は声に尋ねた。

 ――死を取られたら、ぼくはどうなるんだ?

 ――当然のように死ねなくなるな。代償はそれだけだ。だが心配はいらないさ。この世にはハグレ死が大勢いる。そいつに出会って気に入ってもらえればおまえは死ねる。どうだ、悪い取引ではないだろう。

 声の誘いに男は思った。

 ――そうだな、確かに悪い取引じゃない。

 するとたちまち男は眩暈に見舞われた。次の瞬間、男は猫になっていた。普通の大きさの三毛猫だ。栄養状態が悪くて痩せていた。男がそれまで持っていた人間としての感覚は男が猫になると同時にほとんど男の意識から失われた。が、猫になった男はまったくそれを気にかけなかった。

 翌日、わたしはその元男だった猫に出遭った。中くらいの散歩で家から明大前駅まで歩いて京王井の頭線に乗って終点の吉祥寺駅で降りてガードをくぐってホテルアランドのある路地を抜けて突き当たりを右折して次の信号のところで国道七号線を渡って(左折)宮本小路を道なりにずっと進んで左手側にヤマザキショップがあるところで右折して、そのまま進んでまた右折して善福寺公園内に入って方角的には南下して男が昨日見た池みたいな川近くの木製ベンチに腰掛けると痩せた三毛猫が擦り寄ってきて、

「なぁ」と鳴いた。

 日頃からわたしはカリカリの猫メシを広いフタ付きのコーヒー空缶の中に入れて常備していたので、まず、

「いる? いらない?」とその猫に訊いた。

 すると三毛猫が、

「ふにゃる、にゃ、にゃ」と答えたので缶のフタ一杯分を猫に与えて様子を眺めた。

 猫は慌てるでもなくカリカリと音を立ててドライフードを食べた。その姿を見つめながらわたしにはその猫の素性がすぐにわかった。が、猫が思い出したいふうでもないので、そのままにしておいた。その後、同じ場所でわたしは何度もその猫と遭遇したが、三毛猫は三毛猫のままだった。だから自分を気に入ってくれるハグレ死とはまだ出遭っていないのだろう。


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