死
大きい死や小さい死や中くらいの死が自分の周りをウロチョロとしているのを感じるのはあまり気分の良いものではない。が、ときどき、わたしはそんな状況に陥ってしまう。ウロチョロとかチョコマカではなくて、もっと動きが泰然としている場合もあるが、結果を云えば同じことだ。そんなモノ、見たくもないし、感じたくもない。それでもわたしの寝ている寝室にわたしに断りなくすうっと入って来て、わたしの頭の先でクルクルと廻っている死などがいて、それが自分用か、それとも他人用なのかは知らないが、不思議と心安らかにさせられることがある。無論、反対に苛々とさせられることもあるが、たいていの場合は単に死を感じるだけだ。
死が単にそこにいるように…… あるいは心臓の僅かな不整脈を不意に感じてしまうように……
死がわたしを訪れる理由をわたしは知らない。少なくとも河野頼子であるわたしが自分からそれを望むとは思えないので単なる偶然か、もしくは誰か(複数アリ)の想いが死を圧し送るのかもしれなかったが、その誰かが誰なのかをわたしは知らない。もう一歩踏み込んで云えば興味がない。そんなものは、わたしを素通りして行くだけだからだ。それがわたし=河野頼子の考え方だ。
ところで、わたしの身体の法律上の姓名は河野頼子ではない。その事実を明かせば、『わたしが自分からそれを望むとは思えない』という理由が伝わるだろうか? それとも、それだけでは伝わらないのだろうか?
いつの間にかすうっとそこにいる死は気配だけで形を持たないが、あえてヴィジュアル化すれば透明な袋に似ている。空気が入って、それなりに膨らんだ袋。表面あるいは世界との接触界面にテカリ……というか反射があって、それが見る角度によって変わるので、拡がった袋のようなクラゲ(Jellyfish)か食品のゼリーを想像してもらえばわかりやすい。種類としては大きい死も小さい死もあって、すなわち大きい袋も小さい袋もあって、いつか渋谷の代々木公園で見た死は公園真横のNHK放送会館くらい大きかった。が、大きさの割にはぶよぷよとしていなくて目を逸らした隙に消えた。新聞記事は調べなかったが、テレビのニュースでその日大きな事故を聞かなかったから、あれはその後産まれたり取り憑いたりすることなく消えたか巣に帰ったかしたのだろう。あるいは小さく分裂して、それぞれの方角に獲物を求めて散って行ったのかもしれない。
普通の死は、大抵それほど大きくない。だからビルほども丈がある大きな死を見ることは滅多にない。多くの死は、赤ん坊か、子供か、わたしくらいの年齢の子供か、大人か、壮年の大人か、または老人のような大きさをしているが、大きさと年齢とは無関係だ。大きな赤ん坊の死があれば、小さな赤ん坊の死があった。逆に小さな老人の死があれば、大きな老人の死もあった。どうしてわたしにそれが見分けられたのかというと、死は歳を取るに従って段々ぶよぶよとしてくるからだった。もちろん、それにも個体差がある。が、たいていの場合、幼い死の方が表面がすっきりしていて清潔だ。わたしの見る死が他人が見る死と同じなのか、それとも違うのか、そもそもわたしに見えるのが本当に死なのかどうかはわからない。あるいは死は見る人または見るモノによって形がまったく違って見えてしまう不定形の異星生物なのかもしれなかった。死がこの星にやって来るまで、この星の生物には寿命がなくて、永遠の生を謳歌していたのかもしれない。でも永遠の生とは無限の停滞だから、死がやってきたのは、この星の生物にとって良いことだったのかもしれない。
そこまで考えて、わたしは死と似たモノを以前に見たことを思い出した。それはわたしの元が毀れてしまう前のことで、両親もまだ仲が良くて、父親は自分のいろいろなことに気がついていなくて、母親も別の意味でそうで、家族全員が幸せな笑みを浮かべながら中国に旅行したときの出来事だった。それは純粋な観光ではなくて父親の仕事に便乗した家族旅行だった。だからまだ役員ではなかったが父親が所属する会社とその国の政府高官及び軍人たちが懇親する目的で開かれたパーティーにわたしたち母子が相手側から招待されて出席するのを父親がどう思っていたかはわからない。もっとも当時、わたしは小学四年生だったが、理不尽な扱いをされた憶えはない。どちらかというと可愛がられたのだと思う。ついでにいえば珍しがられた。その理由をわたしは中国に日本人の子供が来ることが滅多にないからだと思っていた。それはそのときのわたしの印象判断だったが、実際中国に渡って一度もわたしは日本人の子供の姿を見かけなかった。
懇親パーティー会場は商業地でもある有名な観光都市の丘上のホテルで行われた。開始の時刻にはまだ陽が輝いていたが、すぐに暮れた。わたしたち親子三人が一緒にいたのは始めの十五分間くらいで、その後父親が会場内をあちこちと飛廻ったので、わたしは母親に手を引かれて会場内をそちこちと巡った。消化器科の女医である母親は日本人としては珍しく社交的で中国の言葉はカタコトだったが、英語が喋れたので普通に会話を楽しんでいた。
そしてソレがやって来た。スーツは着ていたが、中身はぶよぶよの袋だった。わたしにはそうとしか思えなかった。生きている袋? が、誰もソレに気がつかない。ソレとパーティー出席者が互いに声を掛けたり、掛けられたりして存分に会話を楽しんでいるような雰囲気があった。やがてソレはわたしの母親の許に辿り着いた。わたしはその姿が怖くて、引き攣ってしまって、その場から動けなくなったが、母親は楽しそうに会話をしていた。その内容は英語が上手く聞き取れないわたしには良くわからなかったが、母親の専門に関することのようだった。ソレは母親と会話を続けなから同時にわたしにも声をかけた。
「おや、珍しい。ワタシがわかるとはな……」ソレが言った。
(あなたはだれ?)震えながら瞬時にわたしが脳裡に思い描いた疑問。
「ワタシはワタシだ」ソレは答えた。「だが、ワタシの存在か気配に気付いた人間たちの多くはワタシのことを神と呼ぶよ。遥か昔からプラグマティックだったはずのこの国には本来いないはずだが、ここ国の人間たちにもそう思われたな」
(神さまなの?)
「お嬢ちゃんがそう思いたければそうなるよ。お嬢ちゃんの国にはたくさんいるはずだ。……かと思えば、たった一柱のそれを三つに分けている国があれば、あくまで一柱として崇めている国もある。いや、国ではなくて民俗か個人か。ワタシから見れば大きな違いはないがね」
(じゃあ、神さまではないのね?)
「ワタシはこの星のイキモノがそう願った存在になるだけだ。否定も肯定も無い。が、一つの約束はあるらしいな。だから命が惜しければワタシを信じるな。そうすればワタシを自分の方へ引き寄せることもないし命を喰われることもない」
気づくとソレは消えていた。わたしは文字通り呆然としてしまったが、やがて気を取り直すと、それとなく、
「ねえ、さっきの人は?」と母親に尋ねるた。すると母親が、「さあ、そんな人はいなかったわよ」と答えたので、わたしは安堵のあまり泣き出してしまった。
今ここにいないアレはどうしてか、わたしの母の命を食べないことにしてくれたと気づいたからだ。が、もちろんそれを知らない母親は自分の娘を「可笑しな子?」という表情で見詰めるばかり。