そうじげからなし
「おっ、頼子。久しぶり」
わたしの姿をクラスの中に認めて彼女はわたしにそう呼びかけた。
「そお、まだ三日振りくらいだと思うけど……」
「いやいや、今週に入ってからは四日目だけど、アンタ、先週の火曜日以来、来てないからね」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「小夜は来てたけど、アンタじゃないし……」
「そっか!」
「今度はどこ行ってたの? 竜宮城?」
「そんなところには行かないわ」
「乙姫様は好きじゃなかったっけ?」
「それとこれとは話が違うわ」
「また痩せたみたいだけど、ご飯食べてる?」
「昨日はドリアンだったから、まだ胸が焼けてるわよ。けっこう食べ過ぎかもね……」
「ふうん、珍しい」
わたしには彼女にわたしと会話をする内容のあることの方が珍しい。
「名前なんていったっけ?」
「出た! いつものフレーズ」
「本当に憶えていないのよ。形態記憶はあるんだけどね」
「『へのへのもへじ』のオンパレードかよ! 認識されない人たちの……」
「まあ、そんなモンかも」
「自分で気味悪くならないの?」
「だってわたしは、そんなわたししか知らないし……」
「比較のしようがないってことね」
「そうともいえるし、そうじゃないともいえるわ。じゃなかったら、『他人の振り見て我が振り直せ』なんて諺が成り立たしないし……」
「確かにね」
「殷鑑遠からず/上手は下手の手本、下手は上手の手本/前車の覆るは後車の戒め/他山の石/他山の石以て玉を攻むべし/人こそ人の鏡/人の上見て我が身を思え/人を以て鑑となせ、とか類語がたくさんあるわ。それからEvery man's neighbour is his looking-glass. Learn wisdom by faults of others. The fault of another is a good teacher.とかね」
「バカじゃないから扱いに困るわよ」
「そんなこといってくれるのは、あなただけよ」
「でも名前は憶えていない」
「そう。……それに聞いたって、音が名前に繋がらないから」
「クラモチカナだよ」
「倉持ちカナダよ?」
「頭の中で、どんな字を想像してるか目に見えるようだわ」
「ふふふ……」
「『正倉院』の『倉』に『持統天皇』の『持』に『夏至』の『夏』に『かならし』の『奈』だよ」
「そうじげからなし……って、まったく名前じゃないわね、それ。ついでにいえば最後の読みは難し過ぎるわ」
「アンタじゃなかったら、いわないわよ」
「評価してくれて嬉しいわ」
「いったい、どんな評価だよ?」
「そうじげからなし」
「なんだ、憶えたのか?」
「しならかげじうそ……無意味のかたまりだわ」
「だから憶えられたわけね。まあ、別にそれでもいいけど……って、やっぱ良くない!」
「名前なんて、みんな記号よ」
「そりゃそうだけどさ」
「わたしじゃない別のわたしやそのわたしじゃない違うわたしがみんな頼子だったら収拾がつかなくなりそうで、頭、痛くなりそう」
「今でも十分頭、痛いわ。……でも、そういった認識はあるのよね」
「小夜と直接会ったことはないわ」
「それは前に聞いた」
「確かに話した記憶はあるけど…… ああ、そうか!」
「どうした?」
「支持層空投げ(しじそうからなげ)なら多少は意味が通るかも……って思っただけ」
「やっぱり頭、痛いわ!」
「話を戻すと、わたしはわたしなだけでわたしだわ。だからわたしがみんなに罹ることもありません」
「そうならないことを願うわね。みんながアンタじゃ、それこそ収拾がつかないぞ。……でも、そうじゃないって思ってる人も多いよね」
「なんでだろう?」
「さて、なんででしょうね」
「ところでさ、あなたはわたしと話していて楽しいの?」
「別に普通。それ以上でも以下でもない」
「なるほど、で、あなたの名前はなんだっけ?」
「さっき憶えたんじゃなかったのか! しじそうからなげ」
「うそからしなげじ」
「くらもちかな、だよ」
「そうじげからなし」
「むふん。そうじげからなし……って、いったいどんな形をしてるんだ?」
「目に前にいるあなたじゃないとすると直径一メートルくらいの丸太のような茶色い胴体に脚が七本生えていて、その先に目があって可愛い!」
「想像できんな、その感性……」
「『へのへのもへじ』と変わらないわよ。いったん、それがあると認めてしまえばね」
そしてわたしは無数の『そうじげからなし』たちに遠巻きに囲まれている自分を発見する。あるいはそれは複数の『いさならけぎじゅお』たちだったかもしれない(ヒント ローマ字)。