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幽霊

 わたしの傍らには、ときどき幽霊がいる。もっともそれは本物の幽霊であろうはずもないが、幽霊自身はそう主張しない。だから、わたしも幽霊の主張を受け入れる。どのみち、わたしの想いや願いでは幽霊はわたしの傍から離れない。だから正直云って呼び名はどうでも良かったのだ。それで以前から気づいてはいたが、始めてそれと会話した日、「じゃ、幽霊でいいや……」とそれが答えたので『幽霊』に決まっただけのことだ。あのとき、『じゃ、ドッペルゲンゲルでいいや……』とアレが発言していれば、おそらく『ドッペルゲンゲル』になったのだろう。でもそうしたら、わたしはすでにこの世の中にいなかったかもしれない。

 幽霊の男の好みはわたしと同じだ。だから考え事をしながら歩くことが多いわたしよりずっと目敏く、お気に入りの男を見つけたりする。「ホラ、彼、あなたの好みじゃないの?」「えっ、どれ?」「だから、あれ!」そう言って幽霊は自分が見つけた男を長くてたおやかで細長い人指し指でわたしに指し示す。「ああ、なるほど……」幽霊が指し示した方向の先に男の姿を認めて、わたしが思わずガテンする。それはツイと背の高いわたしの父親くらいの年齢の男だった。だから、「まあ、素敵なのは認めるけど、歳、取り過ぎーっ!」とわたしは指摘する。「あんなオジサンとは付き合えないわ」でもそう発言したとき、すでにわたしは想像している。わたしがあのオジサンと付き合っているところをだ。オジサンの正確な年齢はわからないが、父親と同じということで四十二歳と仮定する。平日のこんな気怠い午後に背広も着ずにチノパンにポロシャツ姿で歩いているのだから、いずれまともな職業のヒトではないかもしれない。女と同じで、わたしは男の肢体も全体的にひょろ長いものを好んでいた。わたしの目の先十メートルほどで信号待ちをしているオジサンは、わたし好みにちょうどいいくらいにひょろ長くて、それでもオジサンなので背丈は一八〇センチメートルにはまったく及ばなくて、だけど誤差数センチメートルで一七五センチメートルくらいはあるだろうと推察できた。わたしは背丈がけっこうあって、すでに一七〇センチメートルに達していたから、吊り合いとしてはギリギリかも、と思ったりもした。が、わたしがハイヒールを履かなければ問題ないと、すぐに気づいた。せっかくなので、わたしはオランダ製の木靴を履いてオジサンとデートをすることに決めた。そのときわたしが身に纏っているのもオランダ女性の民族衣装だ。髪飾りのフルは硬く糊付けしたレース製で見ようによっては西洋の兜に見えなくもない。ジレはクラブラプといって白地に花模様だ。日本で云えば石仏の涎掛けが、形態的には似ているかもしれない。上衣のクレトイエは白黒のブレードで縁取りされていて、衿刳りからジレの一部を覗かせる。遠目には紅白の縦縞模様に見えるスカートはロクと云って近寄って良く見てみると白縞の中にはさらに青と緑の縞が飾られていて、また紅白縞の境界が深いプリーツになっている。エプロンのスフォルトは黒木綿で上部にジレと同じ花模様の布が接がれているが、その模様はジャワの更紗にも似ている。そして素足に履いている木靴はクロンペンといってフランスのサボよりずっと実用的なのだ。一方のオジサンにはオランダの男性用の黒いコートを着せてシャーロックホームズの持っていたような懐中時計を潜ませることにした。衣装が決まったのでデート先を決めなければならない。二人してこの格好で例えばオランダ・テーマパークに入ってしまったら、まず確実に園員と間違えられるから、それを第一に除外する。でも海岸沿いか川沿いのどこかの村に行きたかった。この世にあって、かつ無いような村だ。そう思うと一つの情景が瞼の裏に浮かんだ。アイリッシュ海を挟んで真西にウィックローを臨むPortmeirionにある宿泊施設だ。一帯が一種の村のようになっていて広大な砂浜……っていうか三角州(?)があって、その先に広がる海が緑から艶やかな青色に変わる観光地だ。さっそくオジサンとわたしはその地に跳んで、わたしと違って胸と尻が大きくて立派な腰骨を持った水着姿の二十前後の若い女性たちには目もくれずに施設内を散策する。許可を貰って塔に昇って鐘を鳴らし、屋外の音楽堂で素人ブラスバンドの演奏を聴きながらニルギルを飲み、旧い図書館に入って地域の歴史に思いを馳せる。それからオープンバスに乗って少し離れた山中に建っているお城を観光して少し疲れ、オジサンとわたしはわたしたち二人に与えられた施設内の家に向かってわくわくする。チェックインはすでに済ませていたので、持っていた鍵で玄関を開ける。そこは予約者が多い有名な家だ。広くはないが二人で泊まるには十分で一九六〇年代のモダンさが息を潜めるように根付いている。それは決して古臭くはなくてオジサンとわたしはイギリス人のセンスの良さに脱帽する。それから、「ようやく、ここまで来ましたね」「ようやく、ここまで来ましたね」と二人互いに同時に地味に挨拶を交してにっこりする。わたしたち二人は当然のように親子ではない。けれども恋人でもなくてオジサンはわたしの父親の遠い親戚だ。よって種々の振舞いの癖が父親に似ていても不思議はないが、一般的な父親が娘の身体を抱くようにわたしのことを扱わない。でも、そこに欲望はない。もちろん、わたしの方にも欲望はない。あるのは純粋な想いだけだ。だからオジサンとわたしの口付けは神聖な儀式のように行われる。すると――

「行っちゃうわよ、妄想のヒト」と幽霊がわたしを現実に引き戻した。火星に住んでいればdown to marsなのだろうか、とふと思う。そしてわたしはお気に入りのオジサンを追いかけない。現実のあのオジサンをわたしが追いかければ、まず間違いなくわたしはその他大勢の生身の女の一人として抱かれるだろう。それでは面白くないのだった。「あっ、見えなくなった……」「いいのよ、ぜんぜん」そう言ってわたしが混雑した街中で空を見上げると、雲の皺の隙間から見た目は太陽くらいの大きさの目玉がニュッと浮き出してきて、じっとわたしを見た。「あっ、また見えた!」幽霊がわたしの左隣でそう叫んでも道行く人は振り返りもしないし天空の眼球にも気かない。

 神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。


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