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再びあなた

 あなたとはいつも何かを介して見詰め合った。最初が鏡だったせいか鏡が多かったが、喫茶店のガラスのこともあれば、多摩川の提に出来た水溜りのこともあった。水溜りの時には背後に奇妙な虹が映り込んでいた。それは燃えるように揺らぐ半円ではない美しい虹だった。あなたは時には不思議な顔を、時には笑顔を、時には泣き顔を、時には無表情でわたしを見詰め返した。そのあなたをわたしがさらに見詰め返す。視線の応酬が暫くあって、あなたは不意にいなくなったり、また現れたりしながら、でも結局最後には消えていった。あなたが消えるとわたしが見詰める対象はわたしに代わった。そのわたしは時には不思議な顔を、時には笑顔を、時には泣き顔を、時には無表情でわたしを見詰め返した。それはそれで面白かったが、いないと思っていた通行人の気配を感じると、それだけで汗が噴き出した。もちろんその前に心臓がドキリと鳴って冷や汗をかいた。この世の中にいるほとんどの人がわたしに関心を向けるはずもないのに毎回同じ反応を繰り返している。まるで自分に関心を持って欲しいと身体が訴えているかのようだった。時にはそんなふうに感じたりした。時には何とも思わなかった。わたしが自分の顔や姿を見ているときに人の気配を感じるのはまだ良かったが、あなたがわたしを見つめているときに誰かの気配を感じるのは、とても厭だ。何故なら、あなたがとても恥ずかしがり屋で、すぐに消えてしまうから。そんな日には、あなたはわたしの許に戻って来ない。だから、わたしはせっかく出会えたあなたを突然失って心がキュンと切なくなる。でも公道を人が歩くのは当然のことなので仕方がない。そう強く思って諦める。だって、あなたがわたしの許から去ったのは一次的なことなのだから…… 早ければ翌日には、わたしはまたあなたの顔や姿を見ることができる。そう強く思って、わたしはすぐにあなたに会うことを諦める。無理をしてニイッと笑って先を急ぐ。

 わたしは別に目的がなくても道を歩くが、歩くときは急ぐことに決めていた。あてのある旅じゃござんせんが、先は急ぐものと決めておりやすんで、ごめんなすって…… 天保の時代を彷徨った渡世人の、そんな言葉が好きだった。渡世人は孤独な存在だ。人別帳から外されているので人ではないから死んでも生きても誰も関心を示さない。加えて何処にも居る場所がない。日本にいくつもある街道を北東に向かっては折り返し、南西に向かっては折り返す。でもそれは、おそらく渡世人に限ったことではないだろう。誰だって死ぬまで旅人なのだ。下手をしたら死んだ先も旅人かもしれない(死後の世界を信じているヒトに限る)。あっちへフラフラ、こっちへフラフラと行ったり来たり。水辺の宿木の下で眠って起きて先の見えない一歩を歩む。誰かの体温を感じて眠って起きて一見留まっているように思えるが、実は先の見えない一歩を歩む。そういえば、舟の上に生涯をうかべて旅を栖とした人もいたかもしれない。あるいは、馬の口をとらえて老をむかえながら旅を栖とした人もいたかもしれない。彼らを描写したお爺さんも旅人だった。昔の人たちは良くわかっていらっしゃったというわけだ。わたしにはわたしの行き先がわからない、ということだけしかわからない。わたしにはわたしがどこに向かっているのか皆目見当がつかない、ということだけしかわからない。わたしはこの先、いったいどこに行くのだろう? あるいは、あなたはこの先、いったいどこに行くのだろう? わたしとあなたの軌跡は、この先、交わっているのだろうか? それとも今の、この瞬間だけが、唯一わたしとあなたの交点なのだろうか?

 もう二度と会えないならば、ずいぶんとお達者で、と声をかけたい。

 それもまた、あの渡世人の口癖だった。この先あなたと会えるとしても、やはりわたしはあなたとの別れ際に、ずいぶんとお達者で、と声をかけたい。わたしがわたしを感じてわたしを継続しながらもくるりころりと変わっていくように、あなたもあなたを感じてあなたを継続しながらころりくるりと変わっていくのだろう。今のわたしはあなたに夢中だが、一年後のわたしはあなたに幻滅しているかもしれない。あるいは、あなたに飽き飽きしているかもしれない。それとも一年後、わたしは存在していないかもしれない。ある時期から偶然わたしが宿った身体から一切の痕跡も残さずにわたしが消えているかもしれなかった。

 わたしはわたしが愛おしい。わたしはわたしを愛している。

 でもある時期からそれが出来なくなってしまった孤独な小夜が自分だけを熱烈に愛せば、おそらくわたしは消えるだろう。跡形もなくなくなるはずだ。それが怖くないといえば嘘になる。けれどもわたしはあなたに出会えて憶えてもらってあなたの中に生きている。だから、わたしは生きてゆける。もちろんそのあなただって一切跡形もなく消えてしまうかもしれないけど、想いはどこかに残るはずだ。きっと、きっと、残るだろう。きっと、きっと、きっと、残るはずだ。

 だから、わたしは怖くない。だから、わたしはわたしを生きる。

 自分に向かって、ずいぶんとお達者で、と声をかけて、次にあなたが現れるのをじっと待つ。わたしと同じ身体を持った、わたしと僅かに違う顔と声を持つ、あなたが現れるのをじっと待つ。(了)


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