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あなた

 気が付いたら、わたしは恋に落ちていた。東京都世田谷区の北沢四丁目にある一本松公園には珍しいことに猫がいて精悍な顔付きのその雉猫の後を追いかけて行くと工事中の家があって、あなたがいた。正確には鏡に映ったあなたの姿を開け放たれた建造中のその家の玄関を通して見たわけだが、その一秒前のわたしは目の前の雉猫の姿を追いかける――道路近くに視線を落とした――一人の女子高生に過ぎなかった。きっと新築だろうし、かつ住民もまだ居ないはずなのに、もうその家に居つくことに決めてしまって玄関から堂々と家の中に入っていく雉猫の潔さに驚き呆れながら顔を少し上に向けると、あなたがいた。わたしとあなたの目が合った。それは信じられない一目惚れで、どうしてそのときあなたを好きになってしまったのかをわたしは誰にも説明できない。もちろん全体的にすらりとひょろ長い見てくれはわたしの好みだったし、後に知るようになるわたしに聞こえるあなたの声もわたしの想像通りだったが、それはあくまで後のことだ。ドアが閉まってあなたが消えて、わたしは自分で無くなった。そのまま暫く立ち止まって、わたしは自分の気持ちを知った。すると今度は三毛猫がわたしの足許で、にゃにゃにゃ、と鳴いた。それだけ鳴くと、すぐに去った。「にゃにゃにゃ」の意味は「お嬢さん、その恋だけはお止めなさい」だろうと即座にわたしには見当がついた。が、わたしはやはり自分を信じた。だから直ちに寄り道を止め、逸れたルートを正常に戻した。今振り返ってもあなたはいない。玄関が開いていても、そこにあなたの姿はないだろう。あなたはそこからすっかり消えてしまって、あの家の中にはいないからだ。それがはっきりわかったので、わたしは安心して駅まで歩んだ。途中で家を振り返ると雉猫の姿だけが、周りを覆うブルーシート越しに覗く二階のベランダの手摺部分に見えていた。が、すでにわたしに興味はないと、あらぬ方向を見遣っていた。だから、わたしは先を急いだ。

 土曜日の朝七時前だから、人通りはほとんどない。ピーコック隣接ビル地階のシャノアールという名前の喫茶チェーン店と北口階段対面のコンビニエンスストアくらいしか開いていない。いつも見かけるホームレスらしい小太りのオジサンは今日は階段のところで腰を曲げながら新聞を読んでいた。そうでないときは横浜銀行の前で新聞を読む。そのときわたしの耳に調子外れの歌声が聞こえた。そうだった。もう一軒、その時間帯に営業している店があったのだ。わたしは足を踏み入れたことがないが、本多劇場に抜ける近道にもなっている、その昔は闇市が立っていたらしいアーケードの下にあるカラオケ飲み屋で朝に歌声が洩れることが多かった。ときにはすごく上手い女性の声が聞こえてきたが、それは下北沢駅近くのスナックかバーかライブハウスで前日の夜に演奏をしたバンドのメンバーらしかった。本気か嘘か、ある日小田急線のホームで、わたしはバンドのギターとヴォーカルの会話を聞いたことがあった。いつも組んでいるメンバーではなさそうなのが、会話の端々に聞き取れた。服装がVol・4時代のトニー・アイオミみたいで髭面が汚いが良く見るとイケメンで脚の長いギタリストはヴォーカルのお姉さんが好きらしかった。前日に惚れたのかもしれなかったが、「一発ヤリたい」「ね、一発しよう」「一発だけ……」と懇願していた。「十万」「二十万」「五十万」「百万」「二百万」とお姉さんとの一夜の値段を吊り上げていった。見るからに気風が良さそうで姉御肌のヴォーカリストのお姉さんは素敵なハスキーヴォイスで年下らしいそのギタリストに「ダメ」「ムリ」「ヤダ」「ダカラ」を繰り返した。そのうちに下り電車が到着して、それに乗り込んでわたしの斜め向かいの席に陣取ったギタリストは長い腕で隣の席に引き寄せたお姉さんを口説き続けた。口では「ダメ」「ムリ」「ヤダ」「ダカラ」を繰り返したが、わたしの頭の中で、お姉さんは年下のギタリストに抱かれていた。もちろんわたしの頭の中に浮かんだ映像は映画やテレビで見たことがあるラブシーンの引き写しで、実際に服を肌蹴たお姉さんの中にどういうふうに年下ギタリストのペニスが挿入されるのかはわたしの想像の埒外にあった。それでも腰を振ってお姉さんに臨んでゆく年下の彼の姿は見える。そしてその動画を実はお姉さんも頭の中に思い描いていることが、くっきり、はっきり、しゃきりと、わたしには正しく見えるのだった。お姉さんが生まれたのは東京駅から特急に乗って五時間ほどの田舎町だ。おそらく温泉のある観光地の旅館の娘で、地元に帰れば、同じ町の農協で働く幼馴染の男がいた。その男とお姉さんは友だち以上恋人未満の関係でセックスにまでは至っていない。田舎なので、その地にそのまま育っていれば、いずれ意味なく二人は結ばれたはずだ。けれどもお姉さんが専門学校の受験で東京に出て来てきて、そうならなかった。バンドマンになるというお姉さんの夢は実はお姉さんのお父さんの夢でもあって、だからお姉さんは都内の専門学校に通いながら地味に集めた仲間たちと府中のライブハウスでのバンド活動が続けられた。けれどもその年に、お姉さんは二十五歳になっていた。インデペンデンスの分野ではそれなりの売れっ子バンドとして地方コンサートも行けたのだが、未だメジャーに上がれる道はない。そんな状況でバンドの将来について模索するうち、オリジナルギタリストが宅配バイクの仕事中に転んで怪我をして、それで伝を頼って現れたのが、今電車で隣の席に座る年下のギタリストだった。お姉さんは一目で彼のことが気に入った。技術的には少々問題があったが、バンドに新しい風をもたらしてくれそうで、とお姉さんはまずその点を評価した。……と自分では思っていたが、実は彼はお姉さんの男の好みにかなり近かったのだ。だからお姉さんの女の部分が年下の彼に傾いたのも無理はなかった。その意味では相思相愛だったが、小田急線が千歳船橋駅に着くと、「じゃ、また今度……」と年下の彼に手を振って、お姉さんはさっさと電車を降りてしまった。一方年下の彼の方も一瞬腰を浮かしかけたが、そのまま座って眠ることに決めたようだ。彼は大学生なので、これから授業があってバイトがある。お姉さんの方も仮眠を取ってからパン屋の売り子の仕事がある。どちらも習慣になったそんな日常から離れられずに、たった今なら掴めたはずの素晴らしい恋を失った。……と、そこまで思ってわたしは気づいた。わたしがきっかけになれば良かったのだ、と。わたしには、あのときすべてが見えていたのだから…… キューピット役になれたかもしれなかったのだ。ただ二人の手を取って、それを繋げさせるという行為によって…… けれどもわたしがそのことに気づいたとき、わたしはすでに電車から降車駅のホームに降りていた。だからすべては無に帰した。その後わたしはお姉さんの方は二回見かけたが、ギタリストの方は見たことがない。わたしの頭に浮かんだ情景は、お姉さんに聞いて確かめなかったので、空想なのか、透視なのか、妄想なのか、判断できない。けれども今朝の雉猫はあのときのわたしで、だから躊躇なく、わたしをあなたに出会わせてくれたのだと強く思う。それともそうではないのだろうか?


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