挨拶回り
夜じゃなく、朝にアップするというフェイント
さて、それからは目も回るような忙しさだった。
まず顔合わせをしたのが美佐さんの会社フェアリープロダクションの社長である神田さん。白髪の混ざった初老の女性で、とても品の良い人。茶道とか華道の師範だといわれても納得いきそうだった。
神田社長は俺を見るなり「あらあら、まあまあ」と口元を押さえて目を丸くし、手元にあった資料と実際の俺とを見比べる。その間は「あら~」と「まぁ」しか言っていない。
ひとしきりその動作を繰り返した後、ようやくソファに座っての面談となった。
話したのはたわいも無い世間話。
俺自身「こんなのでいいの?」と思うくらい、仕事や会社の話は無かった。正直もっといろいろ言われると思ったのだけど……。
それに社長というからもっと偉そうな人かとも思ったけど、全然そんなことはない。話をした印象は人の良い、なんていうか……そうそう、小学校の校長先生のような感じの人だ。それも生徒に慕われている系の校長先生。
最初は緊張していた俺も次第に緊張が解け、話は終始なごやかに進んでゆく。
そして最後に、
「大変でしょうけど、お願いしますね」
そう言って頭を下げられた。
「よろしく」と握手を求められることはあるかなぁとは思っていたけど、頭を下げられるとは思ってもみなかった。だからあわてて俺も「こちらこそ」と頭を下げる。
以上がプロダクションの神田社長との対面だった。
あとから考えれば、この最初の顔合わせで神田社長の術中にはまっていたのかもしれない。
上からこられていれば「俺だって好きでやってるんじゃない。そっちの都合じゃないか」なんて考えて、協力体制もあったもんじゃなかったかもしれない。でもこのファーストコンタクトの印象で「できる限りはがんばってみるか」とか思ってしまった。気持ちよく働かせるという、良い社長の手腕だったのかもしれないな。
なんにせよ気負ってた割には問題なく面談を終わらせることができた。
そうそう、メイクと共に、服装も変えている。
美佐さんの用意していたレディースのジーパンと黒の二の腕のあたりがぼわっとした服。スカートとかは無理だったので、パンツルックだったのは幸いだ。
ただ……
ただね……
胸があるんだよ。
うん。
胸というかバストが……
女性に見せるには胸のふくらみがあると説得力が増すのはわかる。けれどブラジャーは絶対無理だ。嫌だ。絶対。そして美佐さんも俺が嫌がるだろうと予想したうえで、カップ付のインナー(詰め物有)を用意していた。それでも無茶苦茶葛藤したけれど、いっそのこと元の自分と別人と思われたほうが得策だと思い着ることにした。
すんなり着れたことがちょっとショック。
もっと成長してくれ、俺の肩幅……
「どう? 緊張した?」
車の中、次の現場へ向かう途中、美佐さんがそう聞いてくる。
「最初は……でも、なんか拍子抜けしちゃたくらいで」
「ふふふ、怖くなくて安心したでしょう?」
「社長っていうくらいなんで威圧感とかあるかなって勝手に思ってたんですけど、優しそうな人でよかったです」
「そうね社長はスタッフからもタレントからも信頼が厚いわ」
そうだろうな。
なんとなくそんな気はする。
「会社全員の母さんってとこね。でも……」
「でも?」
「優しいだけではこの業界の社長なんてやってられないわ。時として鬼にもならないとね」
「鬼……ですか」
「そう。ライバル会社から陰では鬼子母神とか呼ばれているらしいわよ」
あの社長が鬼か……想像はつかないけど。
ああでも鬼子母神って子供を守る鬼だっけ? 自分の子供を育てる栄養を得るために、人間の子供を食べていたという。後で改心して子供と安産の神様になったっていうことらしい。自分の
会社のタレントのためなら鬼になる。鬼子母神っていうのは言いえて妙かもしれない。
「まぁうちの話はこれくらいにして、次は制作会社と関連会社に回るわよ」
あ、そうだ……まだこれが一箇所目だった……。
なんとなく自分のなかで、終った感があったな。
「ほら、またそんな顔をする。スマイルスマイル」
そう言われて、無理やり笑顔を作った。
もうほとんどヤケだ。
てなことで、その後は美佐さんに連れられて。会社を3社ほどめぐった。
一か所につき30分ちょっとの滞在という強行軍だ。
正直、後で「この人はどこで会った誰でしょう?」というテストを受けても、赤点経由追試行きの急行に乗る自信がある。むしろそれ以外の行く先がないな。
美佐さんいわく、
「今日は簡単な挨拶だけだから。徐々に覚えていけばいいわ」
ということらしい。
徐々にってっても、そんな時間あるのかね?
そうそう、あと今日会うはずだった中で、新藤さんとは会えずに終った。すごく忙しいらしく、昨日急遽アメリカへ渡ったらしい。ワールドワイドな人だ。数日の強行日程で帰国するらしいので、新藤さんに会うのはそれ以降ということになった。
そんなこんなで、全てを回り終えたのが午後三時すぎ。
途中サンドイッチを食べたものの、無論そんなもの程度で男子高校生のおなかが満たされるわけがなく、最後の会社を回り終えた後に、かなり遅い昼食に軽く食事をってことでファミレスへと移動した。
「御飯が遅れてごめんなさいね。中途半端な時間だけれど、何でも頼んでいいわよ」
それじゃ遠慮なく……といっても時間が半端だしな……グリルセットにするか、軽めにマグロ丼にするか……いやいやここはやっぱりスパでも……
などなど、メニューを見下ろしどれにしようか悩んでいると、すぐ側に人がやってきて、こちらを向いて立ち止まった。おや? まだ呼んでいないのに店員が?
そう思ってそちらを見上げ、そのまま固まった。
「何よ」
それはこっちのセリフなんだが。
その人物は初めてあったときと同じように、尊大な態度で俺を見下ろしている。
そういや……忘れてた。
今日はこいつ―――藤田奈々美とも会うんだった。
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