そこは泥濘5
一瞬の隙が出来ればよかった。
それが、最大のチャンス。
このままの力押しでは必ず自分が負ける。
それには自信があった。先ほどから刃を伝って手にかかる圧力は並大抵のものではない。何より自分は徐々に疲れが見え始めていた、が杜海にその様子は全くない。考えても見れば、「誰か様が憑いている」状態の杜海に通常の体力が適用されるとも、思えない。
ではどうするか。
挑発、それが、チャンス。
相手は随分と無感情なようだけれど、中身は杜海だ。
ならば、挑発で杜海を起せないか。
「臆病者だなぁ、負けるのが怖い?」
瞳によぎった僅かな光を、真地は確かに視界に納めた。
それは確かに意志の光。
杜海が杜海であるという証拠。
「ほつほつ!いっけえええ!」
相手の怒りは、隙を生む。
一瞬のこと、だがその一瞬でよかった。瞬間、ほつほつが、飛んだ。
飛ぶつもりはなかったようだが、真地の声に反射的に体が動いたのだ。
女性の声には必ず従う。まさに本能のままに、がっしりと杜海の顔にしがみつく。
「アタシの勝ち!」
杜海の視界を奪う白い塊に勝利を宣言すれば、振り払う隙を与えず、真地は笑った。
拮抗は崩れたも同然。
身体を捻ると、刀身が軽い爆ぜるような音を立て、真っ二つになる。
同時に杜海の身体が前のめりに倒れて、膝を勢いよくついた。バランスを保てなくなれば呆気ないものだ。
「勝負ありました!」
少女の声に、真地は口端をあげ、顔に張り付いたままになっているほつほつを引きずり剥がす。そもそもいつまで張り付いているつもりなのか、と問いただしたいが、今はやめておこう、とほんの少し笑う。
お疲れさんと同時に「興奮しましたー!」という若干変態的発言が聞こえ、思わずふきだした真地にほつほつが飛びついてくる。胸元に張り付いたほつほつを押さえつけながら、沙耶のほうを向き直り、真地は小さく微笑んだ。
「アタシの勝ち、これでほつほつの件は考えなおしてくれる?」
小さなため息をついた巫女姿の少女は、仕方ないと言うように瞳を細める。
「わかりました、勝負は勝負です。よきものとして認めましょう。」
沙耶の答えは簡潔で、真地はほっとした。嘘を吐くとは思えなかったけれど、自分という例外が一緒に戦ったのだ。
それで「なかったこと」なんて風にされたら、もうどうしようもない。
「私が約束を違えるとでも、お思いになられましたか?」
ツン、と顎をあげた相手に真地は笑う。
「ううん、全く思わなかったけど、やっぱほら、意地とかもあるんかなーって」
屁理屈をこねられては、真地では適いそうにない。
ならば、相手の出方を見るしかない。
しかしながら、誇り高い相手が、条件をそうそう簡単に破棄することはないだろう。
だとすれば、他の条件を出されるか、それとも、何かしらの屁理屈を押し付けられてしまえば、真地としては手段のとりようがない、と思っていた。
「しませんわ、私、それほど意地悪ではございませんから。」
コロコロ、と鈴が転がるように笑う少女は性悪そのものだ。
だが、その少女は性悪でも、卑怯ではないようだ、と真地は認識した。
「ありがと、助かる。別に害なんて、ないと思うからさ。責任は一応アタシが持つよ。」
「あら、あんな放蕩生物の責任、持てますの?」
ふと見れば、先ほどまで胸元に張り付いていたはずのほつほつは、杜海の顔を覗き込んでいた。
「顔的には好みなんですが、この胸のサイズいかんともしがたいです、ねー。」
正気を失っていたかのように見えた杜海の顔に、一瞬にして朱がさして、そのままほつほつを殴り飛ばす。綺麗にとんだ、それは綺麗に。
「んー、まぁ、ほら、元気な方がいいって言うしさ?」
綺麗な放物線を描く様子を視線で追いながら、真地は笑う。
今がとりあえず平穏に終わった事が嬉しかった。
白く緩やかに明け始めた空の色を見ながら、追加、笑う。
「とりあえず、戻って寝ない?アタシ今日絶対、授業無理。」
手をひらひらとさせる真地に、沙耶が小さく笑って同意した。