9 上野毛 ータエ子ー
酒呑みの話です…
カシャンとカギをかけて、もう一度ドアノブを回す。
きちんとカギが掛かっているか確認するのは、もう無意識にやる行動の一つ。
土曜の夕食は、行きつけの居酒屋さんで済ます。
三十になってからは、それが日課ならぬ週課になった。
エレベーターを使わないで階段で下がる。
駅のエスカレーターをなるべく使わない様に日課にしたのは、いつからだったかなぁ。
ぼんやりとそんな事を思いながら、エントランスを抜けると、環八沿いの歩道を歩き始めた。
初夏特有のムワッとする空気を押し分ける様に下っていく。
(あー、この時期……きらい)
ただ単に季節がきらいと言うだけでどろどろとした気持ちで歩いていると、前方から爽やかな空気をまとった二人が歩いてくる。
(お、カエちゃん……と、たぶん彼氏だぁ)
流行に捉われない半袖の白いブラウスと揺れる薄桃色のスカートがタエ子には眩しすぎて、思わず凝視してしまう。
その視線に気付いた彼氏が、ん? と怪訝そうな顔をした。
(おお、彼氏、イケメンですね)
Tシャツとジーンズを着崩しているけれど、パンツが見えるまでジーンズ下げていないので合格ですよ、彼氏さん。
と勝手にエールを送った。
カエちゃんがこちらに気付いて会釈してくれた。
タエ子もニッコリと返す。
後ろの方で「知ってる人?」と彼氏さん。
「同じマンションの……」
と答えるカエちゃんの声が小さくなっていくのを楽しみながら、下がっていく。
ふふっと笑う。
(二人のおかげで、楽しくなっちゃったな)
きっと付き合い始めだな、カエちゃん男っ気なかったのになぁ、とつらつら考えていたら、等々力の駅についた。
改札を通って、すぐに入ってきた二子玉川行きに乗り込み、立ったままドアの近くに控える。
「次は〜 上野毛〜 次は〜 上野毛〜」
(あの人じゃないなぁ……)
最近は連敗中で、なかなかタエ子の好きな車掌さんに当たらないのが残念だった。
上野毛の改札を出て、西に歩いた住宅街の一角にそのお店は隠れ家的にある。
こんもりとした緑の垣根の間にある木戸をくぐってお店に入ると、外の閑静な住宅街と打って変わって盛況だった。
「タエ子さん、いらっしゃい」
方々な、いらっしゃいませ〜 の後、カウンターの内側から声がかかった。
「こんばんは、相変わらず盛況ですねぇ」
「お陰様で。丁度一席空いたので、こちらへどうぞ」
柔らかな口調で声をかけてくれたのは、このお店の大将、というには物腰柔らかく、見てくれも柔らかい男性。
包丁捌きもスマートで、包丁からシェーカーに変えたらバーテンダーになってしまうのでは、と内心思っているのだが、大将にそんな事は口が裂けても言えません。
L字カウンターの一番端に席を設けてくれて、お通しとお箸をセッティングしてくれた。
今日のお通しは、インゲンの酢味噌和え。
「お酒、いつものでいいですか?」
手元を動かしながら大将が確認してくれる。
「はい、お願いします」
「村瀬さん、タエ子さんに立山」
はーい、と冷蔵庫から一合グラスと一升瓶を持ってやってきたのは村瀬さん。このお店で一番古株の店員さんだ。
失礼しますね〜 とコースターの上にグラスを置き、ラベルを見せながら並々とお酒を注いでくれる。
この店は升ではなくて、信楽焼の一合グラスに表面張力すれすれまで注いで出すのが売りだ。
もちろん持てないので器まで口を持っていく。
こぼさない様に慎重に。
こくりと冷たい一口を啜って、満足の笑み。
お通しのインゲンを食べると、酢味噌の甘酸っぱさと立山のすっきりした軽い後味がよく合った。
「美味しい!」
「ありがとうございます」
柔らかく微笑む大将に、メニューを見ながら魚の盛り合わせと野菜天を頼む。
タエ子は頼んで物が出てくるまでの間が好きだ。
お店の喧騒が心地よい。
頬杖をついて、軽く目を瞑って耳をそばだてる。
話し声が聞こえたり聞こえなかったり。
とても、楽しそう。
このお店に来るお客さんは皆穏やかで、タエ子はいつもこの幸せな空気のお裾分けを貰っている。
忙しい時は無理だけど、料理の合間に大将が声を掛けてくれたり、村瀬さんもさり気なく今日のおすすめを教えてくれたりするので、一人でも退屈しない。
「次は、何にしますか〜?」
グラスが空く少し前に、村瀬さんが〝今月のお酒〟というメニューを出してくれた。
この絶妙なタイミング、さすがです、村瀬さん。
タエ子はグラスを空け、
「んー……天狗舞にします」
と注文。
「お、今日は北陸繋がりですね〜」
村瀬さんは空いたグラスを下げ、新しいグラスにまた並々と注いでくれた。
タエ子はナスの浅漬けを頼んで箸休めとする。
また、軽く目を瞑る。
今度は自分の鼓動も聞こえてくる。
けっこう早いので、だいぶお酒が回ってるみたい。
自分の鼓動と共に先程見たカエちゃんとイケメンの映像が流れてきた。
「いいな〜」
思わず呟いた声は結構大きかったらしい。
「何がいいんです?」
珍しく大将がつっこんできた。
え? と目を開けると、お店も落ち着いてきたみたいで大将がニコニコしてこちらを見ている。
「ああ、じつは」
と先程すれ違った二人の事を話す。
「初々しくて、青春って感じで、うらやましくなっちゃいました」
あはは、と笑って一口また飲む。
「タエ子さんも青春すればいいじゃないですか」
大将は柔らかくつっこんでくる。
「いやぁ」
と親父の様に頬をぽりぽりした。
「私はもう密かな楽しみだけを糧に生きる、
枯れ山椒魚ですから」
枯れ山椒魚、に大将と村瀬さんとカウンターにいるお兄さんがぶっと吹いた。
(あ、ウケた)
ただそれだけで嬉しくなっちゃう。
ニマーと笑って又、一口グビリ。
笑いを堪えながら、
「密かな楽しみって何ですか?」
と大将が聞いてくる。
大将、ガマンしないで笑っていんですよ〜
ひみつですよ〜
ともったいぶって、
「大井町線の車掌さんの声を探すのが楽しみなんです!」
どうだ、いいでしょ、と鼻息荒く言った。
何故か大将の向かいに座っているお兄さんがぶほっとむせた。
村瀬さんが慌てておしぼりを渡してる。
大将は面白そうにそれを見て、
「車掌さんの声が好きなんですか? どの人でも?」
とつっこんできた。
(おお、大将、今日は珍しくきれきれ…)
でもよくぞ聞いてくれました。
「いいえ、ごひいきさんが居るのです」
「へえ」
その人の声は〜
やさしくて〜
あたたかくて〜
やわらかくて〜
散々っぱらノロケて、
「でも、最近居ないんです。
大井町線以外にいっちゃったのかなぁ」
と言うと、
何故かまた先程のお兄さんがぶほっごほっとむせていた。
大丈夫ですか〜
と村瀬さん、二枚めのおしぼり。
大将はくっくっと笑いながら、
「まぁ、また乗っていると戻ってくるかもしれませんよ」
と、何のなぐさめにもならない事を言った。
「他人事だと思って〜」
と唇を出すと、
いや、ほんとに、とにっこり笑ってくれた。
〆のお茶漬けを食べて、ご馳走さまでした、とお勘定をする。
「タエ子さん、次はいつ来られます?」
珍しく大将が次回来店を聞いてきた。
「えっと……」
タエ子はくるっと行きつけのお店を頭の中で勘定して、
「3週間後ぐらいですねぇ」
と答えた。
「はい、分かりました。お待ちしております」
「は〜い、お休みなさ〜い」
タエ子は珍しい事もあるものだ、と良い気分で店を後にした。
ベタです。捻りなし。
そして酔っ払いです〜