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番外編 ナミさんとフェロモン魔人 7

 



 ナミはドサッとトートバックを足元に落とすと、おもむろに身体をベッドに投げ出した。

 普段はすぐに部屋着に着替えて薄くつけたメイクを落とすのだが、今夜はそれどころじゃない。


「いや、無理」


 帰る前の事件を思い出して思わず呟く。


 今日、(かけい)さんから少し絡まれた。筧さんはお店のお客様で、以前からちょいちょい絡むように話しかけてくるな、と思ったらお勘定の時に名刺を渡されたのだ。珍しい苗字なので、それだけ覚えている。

 突然の事でびっくりして固まると、いつでも良いから連絡して、と小声で言われた。

 数瞬の間に目まぐるしく思考が乱れて、最終的になんと返していいものか迷い、はぁ、と口を濁して曖昧に答えてしまった。


 それをオーケーと捉えたのだろう。今日は公然と連絡云々と言ってきた。でもまさか、大将がそれを聞いていただなんて思いもしなかった。


 名刺を突き返さなかったのは初めての事でびっくりしたのと、やはりお客様だったのでそうそう(ないがし)ろには出来なかったからだ。

 大将が最近無理をしてナミがいう設備投資をしてくれているのを知っている。

 でもこういうのは先行投資が大事で、お客様に変わった、と思ってもらうにはなるべく短い期間で目に見えるように変えるのが有効的だったから、あえて続けざまに進言してきた。

 大将がよく応えてくれていたから、ナミも応えたかった。なるべく、リピーターを。次も楽しんで来てもらえるように、と。



 ベッドに投げ出した右手をそっと顔の目の前に持ってくる。

 掴まれた感触がありありと残っていて枕に顔を(うず)めると、つい数分前の事が脳裏に浮かんだ。



「仲倉さんは男の生態を知らないって言ったよね。はっきり断らないと、こういう事されるって事」


 アパートの前についてお礼を言い、車から出ようとしたら右手首を掴まれた。

 え、と思う間も無く体勢を崩して再び助手席に尻餅をつくと、ガコッと背もたれが急に後ろに下がって、気がつけば目と鼻の先に大将の顔が居た。


 片手で肩を押さえられているだけで身を起こすことが出来ない。時間でふっと消えた室内灯。暗がりの中、車の窓から入る街灯の光を受けて、大将の整った顔が鈍く浮き上がって見える。


 怖い。


 大将が、というよりか、本能的に襲われているように思えて、ひくっと喉が鳴った。


 その音をきっかけに、大将の身体がふっと離れ、ナミの手を引いて起き上がらせてくれた。


「……こういう事もあるから、男をあまり信用しない事」

「……はい」

「仲倉さんは、あまり付き合った事ないの?」

「……言う必要が、ありますか?」

「ないね。でも聞きたい」

「なんで……」

「それも分からない、か」


 分からない訳では、なかった。

 あり得ないと思ったからだ。

 あの大将が、私なんて。


「……明日も仕事がありますので」


 それだけしぼり出すように言うと、そうだね、と大将はあっさりと手を引いた。


 その隙にナミはさっと車を降り、送って頂いてありがとうございました。と頭を下げて返事も待たずにアパートへ逃げ帰った。



 大将のあんな顔、初めて見た。



 お店で見せている、人知れず全ての人に振りまいているフェロモンな顔とは違って、まるで……


 飢えた、黒豹みたいな眼だった。


 ナミはぞくりとして首をぶるぶると振った。



 無理、無理。私の手には余る。



 定休日後の出勤はいつも二割り増しに色気が増すフェロモン魔人。彼女は居ないかもしれないけれど、夜を共にする人がいる。



 そんな人達の中に入る? とても無理だ。



 あれだけ造作が出来た人だ、きっと何人もそういう人がいる。

 一度だけ、終業間際、店の電話にかけて来た女の人がいた。大将に子機を渡し、小林くんと入れ替わりに着替えをしようと奥の廊下で待っている時だった。


 電話先の相手に冷静かつ事務的に別れを言う大将の声に、ああ、恋愛に冷めた人なんだ、と思ったのだ。



「あんな風に捨てられるの、いやだ」



 言葉がぽろっと出たら、涙もぽろっと出てしまった。



 最初は何とも思わなかった。料理に真摯で、お客様に優しくて、お酒が全然分からないのがたまにキズ。良い店の主人だな、としか思っていなかった。


 でも、新参者のナミの進言をちゃんと聞き、店を良くしようとナミと一緒に考えてくれる姿勢に、少しずつ惹かれていた。

 心が動いたら、大将が無意識に出しているフェロモンも気になって胸が高鳴るようになってしまった。


 必死に耐えていたのだ。普通に接するように。従業員としての分をわきまえ、きちんと働けるように。


 遅いから送るよ、って言われても。

 私だけに作ってくれるデザートに心が踊っても。たわいの無い約束に付き合ってくれて指が絡んだ時、くすりとこちらを見た顔に息が止まりそうになったのも。我慢したのに。



 大将は御構い無しにナミに近付いてくる。

 なぜ不機嫌になるのか分からない。

 従業員だから心配になるのは分かるけれど、それ以上に何かあるかと思ってしまう。



「無理、大将の気持ちなんて……分からない

 ……〝すずや〟辞めたくない……」



 ナミはぽろぽろぽろぽろ涙をこぼした。



 一番はそれだった。

 初めて自分の意見が通った場所。

 同僚とも働きやすく、気持ちのいい職場。

 気のいい、ただの一従業員のナミにも話しかけてくれるお客様。顔が自然とほころんでしまう料理を作る、大将がいる店。


 〝すずや〟はナミにとって初めて働いていて楽しいと思えた場所だった。

 失いたく、なかった。




 ナミは身体を起こしてぐいっと手の甲で涙を拭いた。おもむろに立って洗面台に行く。

 バシャバシャと乱暴に顔を洗って、鏡を見た。目の赤い、への字に唇を結んだなんの変哲も無い顔。乱れた前髪から、つるりと広いおでこが見えて、慌てて両手で前髪を下ろした。

 その手で、口の両端をぐいっと無理矢理上げる。


 十秒……いち……に……さん……


 十秒経って手を下ろすと、少しだけ口角が上がったままの、情けない顔をしたナミがいた。

 それでも、への字よりは幾分ましだ。


「明日も普段通り、だよ」


 ナミはせっかく上がった口角をきゅっと結んだ顔に、そう言い聞かせた。





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