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番外編 フェロモン魔人とナミさん 6

 



 お客様と共に店に入ってくる秋風がひやりとする冷たさを運んでくる様になった頃、ナミは一人の客に絡まれるようになっていた。


「いや〜 仲倉(なかくら)さん、今日も美人ですねぇ。今日のおすすめはなんですか?」


 言い寄っているのは二十代後半といったサラリーマン風の男だ。

 短く刈った頭の前髪だけ少し伸ばして上に上げ、色黒で目鼻立ちがはっきりとし、スポーツしてます、身体鍛えています、という見え見えの雰囲気が少しだけチャラいイメージを抱かせる。


 一方でナミはというと、今月はこちらが入りましたよ〜 いかがですか〜 と気にせずに普通に対応してあしらっている。


「この間名刺、渡しておいたのに、何で連絡くれないんです?」


 ナミは客の詰るような言葉に少しだけ笑って、少々お待ちくださいね、とオーダーをツトムに伝え、先週入荷したばかりの信楽焼(しがらきやき)の一合吞みにコースターを付け、青い一升瓶をその客の目の前で並々と()いでいく。


 見た目少し膨らむぐらいの器の表面いっぱいに入れる手元に狂いはなく、きちんと注いでから、すみません、最近忙しくて〜 とにこやかに答え、他の客にオーダーを呼ばれ、さっとその場を離れていく。


 男はちぇっと唇をとがらし、注がれた酒の香りも見ずにただズズっとある程度吸い、肘をつきながら面白くなさそうに枝豆を口に放り込んでいた。


(名刺……?)


 ツトムはカンパチの火の入りを気にしながらも、少しだけ目線をナミに向ける。

 ナミは変わらずに小林くんと連携を取りつつ瑞々しい魚のようにスイスイとテーブルを回っていた。


 彼女にその気がなさそうなのを見て、ツトムは内心胸を撫で下ろす。川谷さんが言っていたように唐変木は健在のようだ。


 パチッという魚の脂が跳ねる音に意識をカンパチに戻す。焼きを台無しにするほど素人じゃない。だが、カンパチの添えにつける(はじかみ)の切り込みを失敗し、一本ダメにするぐらいには心が乱れた。

 切り目が斜めに入ってしまったピンクと白の酢生姜を見切り良くさっと捨てる。


 手元は淀みなく動き、二本目の薑はすんなりと刃を入られたが、口の中はジワリと苦味が広がった。

 その感覚に覚えがあり、カウンター客に少し背を向けて冷や水をコップ一杯飲んで苦味を流す。


 金曜日とあって客も大入りとなり、例の客はナミが側にあまり来ないのを見て、男は早々に勘定をして帰って行った。



 その日の仕事上がりを見計らって、ツトムはナミに声をかけた。


「名刺、貰ったの?」


 お疲れ様でした、と奥から内暖簾の間をふわりと手で(くぐ)って顔を出したナミに、ツトムは板場から声をかけた。


 名刺? とナミが何のことだか分からない、という顔をしたので、今日来たサラリーマンから名刺を貰ったのか、とツトムはなるべく普通に、何でもない風を装って言う。

 ナミはやっと誰の事だか分かったらしく、あ、ええ、と頷いて、暖簾からツトムの近くまで出てきた。


「先週、あのお客様がいらした時に頂きました」

「貰わなければいいのに」

「一瞬迷ったら強引に渡されてしまって……すみません、今後は頂かない様にします」

「……何を迷ったの?」


 名刺を貰う意思があったのか?


 その意思の先を読んでしまい、ツトムは思わず早口に聞いてしまった。


 ナミはそうですね、と目を伏せて、その細い指で自身の綺麗にカーブした顎の先を少しだけ摘んだ。


「先月から何回か来店されていて、常連さんになりそうだな、と思っていたお客様だったので、突き返すのを迷いました」

「あのお客一人来なくなっても潰れたりしないから断っていい」

「そうなんですけれどね」


 ばっさりと切る言葉に、そうは言っても、困りましたね、と苦笑するナミを見て、ツトムは初めてナミに対して舌を打ちそうになった。


 あの客はナミを目当てに来ている。

 ナミが居なければこの店に来ないし、そんな客が常連になる訳がない。そんな事も分からないナミに我慢がならなく、思わず吐いた。


「仲倉さんはもっと男の生態を知った方がいい」

「え?」

「あの客は仲倉さん目当てだよ、常連にはならない部類だ。早めにはっきり言う事だね」


 少し冷たく言うと、ナミはやっとツトムが不満を持っている事に気づいた様で、綺麗に切りそろえた前髪の下のすっとした目をぱちぱちっと(しばた)かせた。


「今日は送る」

「あ、いえまだ」

「電車があっても送る」

「え」

「着替えてくるから待ってて」

「あ」


 ツトムは返事も聞かずに小さな二畳ほど事務室兼着替え場に行き、手早く仕事着から普段着に着替えた。

 財布を尻ポケットに入れて、パーカーのポケットに携帯と車のキーを突っ込んで廊下に出ると、店内側の電気を消したナミが気まずそうにこちらを見ていた。


 怒っていないよ、と呟くように言うと、少しだけほっとした顔をした。


 ナミを先に裏口から出して、店に鍵をかける。車の方へ向かうと、ナミも大人しくついて来たので内心安堵した。ここまできての乗車拒否は痛い。


 今まで車に乗せた人の中で乗車拒否の心配をする人など一人も居なかった。でもナミは別だ。唐変木、朴念仁、こちらの好意になど気がついてもいない、鉄女。

 今も当然のように助手席ではなく、後部座席のドアを開けようとしている。


「後部座席、貨物用に座席取っ払ってるから、助手席に乗って」

「あ、はい、分かりました」


 失礼します、と言って隣に座るナミの声のトーンが硬い。

 エンジンをかけながら横目に見ると、シートベルトを掛け終わり、口をきゅっと結んで肩掛けのトートバックを膝に乗せ抱きしめて前を向いている。


「家、登戸(のぼりと)の近くだっけ」

「あ、はい」

「駅の近くまで行ったら道、詳しく教えて」

「あの駅で降ろして頂ければそれで……」

「仲倉さん」

「はい」

「家まで送らないと意味がないんだよ。分かる?」

「は……いえ……」

「うん、分からないなら黙って家まで送らせる事。あ、それから他の奴が送ると言ってきたら送らせないでね」

「……」


 ナミは黙って口をつぐむが、ツトムの言葉がどういう意味なのかを必死で考えているのが目の瞬きの多さで分かった。


 ツトムも教えるつもりもなく、黙って車を走らせる。上野毛(かみのげ)周辺の住宅街を抜け、二子玉川駅近くで厚木街道に入る。車通りの多い橋を渡ってすぐの信号を右へ曲がると、車両の数が減って落ち着いた。

 多摩川を右手に河川敷に沿った道路を北上していく。


 ナミはあまり車で移動をした事がないのか、しばらくとずっと外の景色を眺めていた。


「変な知らない場所に連れていこうなんて思っていないよ」


 あまりにもキョロキョロとしているのに思わず笑みが零れてからかうと、いえ、大将がそういう人じゃないのは分かっていますから、と笑って言うナミ。


「そんなに信用されると困るんだけど」


 思わずうそぶくと、ナミはようやく落ち着いたのか、苦笑した声で言った。


「今日は、どうされたのです? ちょっといつもの大将と違います」

「いつもと違うって?」

「なんだか、こう、ちょっと仮面が剥がれているっていうか」

「なに、仮面って」

「そ、それは言えません」

「言ってよ」


 折れないツトムに、ナミはしどろもどろになりながら言葉を紡ぐ。


「えー、あー、言葉使いとか、なんて言ったらいいのか……くだけているって言うか」

「ああ、これが地だからね」

「そ、そうですか」


 地だからなんだろう、と考えているのがありありと分かるナミを横目に、この人は唐変木ではなくてただこういう経験が足りないだけなんじゃないか、という気がしてきた。


 完璧な仕事人間、仕事上がりでも隙のない立ち振る舞い。

 着てくるものもいつもジーンズに七分袖のTシャツにパーカー、あまり女性を感じさせない服装。


 男を寄せ付けない鉄女。


 でも、近くでよく見ると美人なのだ。

 すっとした一重は日本人らしくきりっとしていて、いつも微笑しているように見える薄い唇が魅力的だ。簡素に後ろで一つで縛っている黒髪はきっと一度も色を入れていないのであろう、美しい艶。

 身体も細身ながらも出る所は普通にあるし、細腰でも綺麗に整ったバックスタイル。


 それに、ツトムはナミが見せる唯一と言っていいほどの色気に気付いていた。

 たぶん、あの男もそれをどこかで見たのだ。だからナミに目を付けた。


 従業員としてのナミをその辺の輩から守るとか、そんな気持ちじゃない事はもうはっきりしていた。


 厨房に居て心が乱れた。

 今まで誰と付き合っていても乱れなかった手先が。名刺を渡されたと聞いたぐらいで。


 厨房を担う者として許されない行為に腹が立った。コントロールが出来ない自分に。


 だが、ツトムはぐじぐじと悩むタチでは無かった。むしろすぐに切り替えた。

 コントロール出来ないのであればどうするか、なんてもう定まったようなもの。



 決まってる。手に入れるだけだ。



 ツトムはフロントガラスの向こうに見えてきた街並みにスピードを緩めた。河川敷から降りる為に二股に分かれた道を減速して左に入る。丁度赤信号で止まったのを見計らって声をかけた。


「仲倉さんの家は右? 左?」


 えー……と、たぶん、こっちだと思います、と道が分からず、迷いながらも細い指が指す方向に方向指示器を点滅させ、ツトムは信号が青に変わるのを待ち、ゆっくりとアクセルを踏んだ。







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