番外編 フェロモン魔人とナミさん 4
大将、お酒、良いのを出すようになったね。
そう常連さんから声がかかるようになって、ツトムは嬉しそうに、ええ、おかげさまで、と微笑んだ。
「仲倉さんのおかげなんですよ」
と言うと、へぇ、彼女がねぇ、と意外そうな顔をするのを見て、そうだろうな、とツトムは思った。
仕事中の彼女はごく普通の従業員に見える。
にこやかな笑顔で迎え入れ、通る声で自分や小林くんに来店と人数を告げると、こちらです、とお客さまに声をかけながら案内している。
接客の経験を積んでいるので、こちらから教える事もなくそれだけでも助かるのに、それ以上に突出しているのは視野の広さだ。
板場から目の端に移る彼女は、すいすいと自在に泳ぐ魚のように見える。
注文を取り、グラスが空きそうな方に声をかけ次を勧め、出来た食事をてきぱきと提供して、小林くんにも声をかけて二人が動きやすいようにコントロールしている。
ツトムはものの一ヶ月でここまで出来てしまう彼女に舌を巻いた。川谷さんから、俺が言うのもなんだが凄腕だ、とは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。
既存の酒屋も使いつつ、カメラで撮った新しい冷蔵庫の写真を持ってバイヤーの所へ行った彼女は、以前言っていた、環境が整わないと提供しない蔵元の酒も入れてもらえるようにし、濁り酒や、しぼりたて、など、季節限定のものも声をかけてもらえるように話をつけてきた。
大将が良い冷蔵庫を入れてくれたおかげです、ありがとうございます、と事もなげに言うが、全てナミの采配である。
また、定休日前、店を閉めた後は自然と彼女と作戦会議をするようになり、時には彼女の押しの強さに頭を悩ますようになった。
「大将、お酒のグラスを全て信楽焼にしたいのです。コースターもつけて、お酒を表面張力ぎりぎりいっぱいに注いで提供したいのですが」
「今のグラスじゃだめなの?」
「透明なので、濁り酒、金粉入りなど、お酒自体に面白みがあるものなら良いのですが、今ですとお神酒を飲んでいるみたいで面白みが無いんです。信楽焼は釉薬の色を変えれば何色かで楽しめますし、なによりあのざらっとした手触りが少し高級感を持たせてくれます。いつもよりちょっと良いお酒を飲んでいるって感じがするのです」
「なるほど……でも待って、今月は無理です。来月に」
「なんなら」
「だめです。あなたのお給料は減らさない。早くて来月。決定です」
冷蔵庫の時もそんな様な話が出て、真面目な顔をして冗談を言うんだな、と思っていたが、どうやら冗談ではなかったらしい。
事あるごとに自分の給料を減らしてでもと言ってくるので、いい加減手を焼いている。
あなただって生活があるでしょう? と諭すと、蓄えが少しはありますから、とまた形のいい胸を張るものだから困ったものだ。
そんな事は雇い主として出来ない、とバシッと言っても、大丈夫なのに、とぶつぶつ言っている。
何か下心ありきでそんな事を言い出しているのかと考えた事もあったが、仕事が終わればさっと帰って行き、逆に大入りで残っていると、もう帰っていい、と言っても最後まで片付け、きっちり仕舞ってから帰る。
遅くなったから送っていくよ、と声をかけてもまだ終電に間に合いますから、と取り付く島もない。
送ってくと声をかけて断られた事がなかったツトムは、彼女は本当にこの仕事が好きでここに来たのだ、とやっと理解した。
手のひらサイズのレアチーズケーキタルトを綺麗に四つに割って、たっぷりとかかったブルーベリーソースと絡めてもぐもぐと食べている彼女に、来月必ず発注かけますから、と声をかけると、ぺろっと口の端に付いたブルーベリーを舐めて、絶対ですよ? とフォークを置いて小指を立てた右手を差し出してきた。
「祖母の教えで、絶対約束して貰いたい時には指切りげんまんなんです。お願いします」
「……はい」
ツトムは真剣にゆびきりをしようとするナミを見て、込み上げてくる温かいものを顔に出さないようにして自分の右手を差し出す。
きゅっと絡んだ細い指先の何もつけていない桜色の爪と、こちらを欲もなく見てくる一重の眼差しにこくりと喉がなる。ぱつんと眉の下で切りそろえられた綺麗な前髪は、揺らぎなくそこにあるのに。
ツトムは至近距離で見る彼女の片方のまなじりに、小さなホクロを見つけてしまった。
本人も気づいていないぐらい、睫毛に触れるか触れないかの場所に。
「指切りげんまん、嘘ついたら、針千本のーます」
小さく歌いながら指を左右に振って、指切った、と離した瞬間、彼女は満足そうな顔をした。
すっとした目尻が下がり、ホクロも、笑っている。
「……仲倉さんは、おばあさんと仲がいいんだね」
離された手を追いそうになってなんとか堪えた。
両親を早くに亡くしたので、祖父母が親代わりです、と屈託無く話す彼女は残りのチーズケーキを目を細めながら食べている。
従業員、仲倉さんは従業員。
「美味しい?」
「はい、大将はパティシエにもなれますね」
「下手の横好きですよ、趣味みたいなもの」
「そうなんです? 女性のお客様が増えてきたらメニューに入れましょうね」
しかも俺の事など気にもとめていない。
そんな女の人に、初めて出会った。




